一方、人里ではというと(2)
一瞬で決着がついたんだって、お義父さんったら物凄く興奮してらっしゃったわ、と三枝子は言った。
「吉蔵さんってひと、身体がとっても大きいらしいんだけどね、それをこう、病院の若先生がスパーンって投げて、追い返しちゃったんだって。まるで、演劇のひとこまみたいに。砂かむり席で見る相撲より迫力あったって。ね、凄くない?」
そうね、と捺美は無理に笑って、竿でふたつ折りになった布団に手を伸ばす。猛暑とあって、肌に刺さるような陽光を浴びた布団は、熱すぎるくらいに温まっていた。抱くと、多少なりとも心が安らげる温かさだった。
東場は三枝子宅の庭先。雲ひとつない青空は、稜線の向こう側まで突き抜けている。じっと眺めていると、意識が肉体を置き去りにして宙に抜け、そのまま吸い込まれてしまいそうだ。
捺美の母親の、実の姉が三枝子の母親で、つまり捺美と三枝子はちょっぴり年齢差のある従姉妹という間柄だった。姉ちゃんだと思っていつでも頼ってくれて良いのよ、というのが三枝子の口癖だが、実際のところ、捺美から彼女を補佐することのほうが多い。三枝子の家は、夫家系が同居しているといった理由から、やらなければならない家事が、毎日、山ほど吐き出される。それはもはや、一介の主婦がひとりで片せられる量ではなかった。手を貸しながら、他の女手はどうして手伝ってくれないのかしら、と捺美は、当然の疑問を毎度のように浮かべている。
桶に積んだ洗い物と、軒先に吊るしていた寝具の入れ替えを終えるまで、三枝子はひっきりなしによく喋った。いわく、里にひとつしかない診療所で、自警団副団長の吉蔵が騒ぎを起こしたのだという。偶然、鎮痛剤を処方してもらおうと待合室で待機し、期せずして現場に立ち会うことになったのだという義父から聞いた事の顛末を、三枝子は手を動かしながら、口も器用に動かして、捺美に余すところなく語った。
そのせいで、捺美は気が滅入った。相槌を打つのに疲れたというのもあるが、なにより、吉蔵の愚行には眩暈を覚えさせられた。
妖怪に楯突いて何になるというのか。万が一にでも機嫌を損なえてしまったらどうする。対策はあるのか。いや、ないだろう。いかなる理由からでも妖怪を刺激してはならない。あいつらは癇癪玉みたいなものだ、と捺美は思う。遠目に飾っている限りは安全でも、至近距離でショックを与え続けたならば、玉はいずれ爆発する。妖怪と人間が同じ土地でつつがなく暮らすのに重要なのは、なにをおいてもまず距離感を意識すること。互いに一歩ずつ退くことが肝なのだと思う。しかし吉蔵は、その絶対の距離を見誤った。酒で大胆になっていたらしいが、なにはともあれ喧嘩を売る相手を間違えた。だから、不必要に八意永琳の怒りを買い、手痛い竹篦返しを食らったのだ。
お願いだから、歯向かわないで。噛みつかないで抗わないで。怪物が目覚めてからでは遅いのだ。心底、怒らせてしまってからでは手遅れなのだ。――もっと媚びるべきなのだと思う。刺激しないよう、爆発しないよう。もっと恭しく接するべきなのだ、と。
多くの里民が錯覚しているのだと思う。妖怪と人間は決して対等ではない。対等だと思えるのは、妖怪が、人間の形成する生活様式まで水準を降下させているためだ。大人が子供の調子に合わせるのと同じ原理である。その気になれば、人里を一晩で荒地に帰すのも容易いだろう。かつて、人権を踏みにじり暴虐していたように。虫螻の如く蹴散らしていたように。と――。
少なくとも捺美にはそう考えられてやまず、心が荒涼とざわつくのだった。
「さきに、お茶してて。お勝手にあるの、好きに使ってもらって大丈夫だから」
捺美は促されるがまま、煎茶を淹れた湯呑を二客、お盆で茶の間に運び入れた。それから適当な茶菓子をいただくべく、再び台所を往復した。一息つきながら、広い家だなと改めて実感する。横幅は、大衆的な平屋三軒分に等しく、どこに何の部屋があるのか、幾度も出入りしている捺美でさえ完璧には把握しきれていない。家人が多いのだと、三枝子は言う。だから、あまり不便に感じたことはないらしい。
開け放した障子から庭を見遣り、捺美は溜息をつく。診療所での騒ぎを未だに引き摺っていた。
自分のこれが、骨の髄まで染みついた心配症からくる、妄想の類であることは重々承知している。現状を受容できない自分が異常なのだろう。しかしどうしても無理、たまらなく恐ろしいのだ。「妖怪」と聞いただけで、心臓を鷲掴みにされたかのような息苦しさに襲われ、全身が粟立つ。病的な過剰反応。それは理屈を捏ねて説明できるものではない。赤子が闇を拒絶するような、根源的な恐怖、まさにそれ。気合の入れようでそれが解消できれば、どれだけ楽なことか。しかし当然のことながら、そういうわけにはいかない。
座布団に正座し、茶を一息に飲み干す。額に汗が滲んだ。庇に出した風鈴はぴくりともなく、ただこの茹だるような暑さを助長させているかのように見える。こんな空模様では洗濯物もすぐに乾くだろう。もう少しここで休憩していこう。圭介が帰宅するまで、まだ時間はある。今頃は、三枝子の娘、――次女のあおいと一緒のはずだ。母親同士の付き合いが長いと、その子供たちもまた自然と一緒に行動するようになる。どこか頼りない息子に、しっかり者のあおいが付き添ってくれると、変な心配をしないで済むから助かる。とはいえ、女の子とばかり遊んでいるのもどうかとは思う。十では、まだ性の概念を気にしない年頃なのだろうか。ゆくゆくは、男の友達も作って欲しいところだが。どうなることだろう。
様々な心配事や不安要素が、滅裂に出現しては溶解するを繰り返す。そんな熟慮の海底から捺美を引き揚げたのは、三枝子の名前を呼ぶ女の鋭い声だった。咄嗟に捺美は身を固くした。三枝子を呼ぶ声は次第に大きくなり、廊下を痛めつけるようにして踏み鳴らす足音もまた次第にはっきりとしてくる。
「三枝子さん、三技子さん。いるなら返事をしなさいな」
言って、襖を勢いよく滑らせた女に、捺美は軽くお辞儀をした。年の頃は三枝子とそう変わらないか、二三だけ年嵩という感じだ。女は、下着のうえに薄い上着を羽織っただけのあられもない格好をしていた。
あら、と女は驚いたように上向きの目を見張る。瞬間、すかさず女は自分の肌衣姿に目を配り、襖を再び勢いをつけて閉ざしてしまった。足音が徐々に遠ざかる。怒気と羞恥を孕んだ声が飛んだ。
「お客様がお出でなら、そう前もっておっしゃいなさい。三技子さん、――三技子さん、どこなの。こっちにいらっしゃい。早くおし!」
鼓膜を啄むかのような声を聞きつけ、三枝子は声の出処に早足で駆けつけた。三枝子の夫である正春の姉、佳寿子は、母屋に連なる渡り廊下の中央付近で仁王立ちになっていた。
「お客がいるなら、いると言いなさい。貴女はわたしの面目に泥を塗るつもりでして」
「す、すみません」
三枝子は深々と頭を下げる。
「丁度、お義姉さんがお休みのようでしたから、邪魔をしてはいけないと思って」
「なによ、それ」
佳寿子は大仰に溜息をつく。
「たった一言、お客様がお見えですと伝えに来るだけじゃない。息抜きの邪魔にはならないわ。ちょっと考えてみれば分かることでしょう、それくらい。お節介っていうのよ、そういうの。いらぬお節介、お分かりかしら?」
すみません、と三枝子は再び頭を下げた。佳寿子は「ふんッ」と鼻を鳴らし、三技子を蔑むような目で睨み据える。
「そうやっていつも、恥ずかしげもなくぺこぺこしてばかり。すぐに謝るけれど、なんでもかんでも謝れば許してもらえるわけじゃないんですからね。それともなに、上辺だけの謝罪で、心の中では舌を出してせせら笑っているのかしら。貴女、本当に反省しているの」
「それは……」
苦いものが喉まで込み上げた。三技子はそれを辛うじて飲み下す。
「もちろんです」
へえ、と見下す佳寿子の風情は冷然そのものである。
「ま、口だけならなんとでも言えるわ。反省の意は態度でお示しになりなさい。よろしいこと? 今後、二度と同じ誤ちを犯さないよう専心なさいと言ってるんですよ。わたしも暇じゃないんだから。何度も同じ失敗で怒らせないでちょうだい」
三技子は三度、頭を下げた。
「肝に銘じておきます」
「ええ、ええ、当然です。――では、衣装の着付けをしてもらいます。付いてきなさい」
佳寿子は稗田にある居酒屋、亀冨屋の所有者である。店員は雇わず、夫の仁也と二人三脚で営業している。店は深夜営業と決まっていて、日が高いうちに眠り、西日が照ってから起き出して着替えるというのが通常だった。その律動を吉蔵に崩されて、だから佳寿子はいつにも増して気分が悪いのだろう。いつもなら、佳寿子の理不尽な怒りを慣れた感じで宥めてくれる仁也は、大工に店内の修理を依頼したはいいものの、それでも人手が不足しているらしく、昨晩から稗田の店に泊まっており、家を留守にしていた。佳寿子の八つ当たりの全てが三技子に直撃する。
「どこの馬の骨だか知らないけどね、なにもうちの店で暴れることはないじゃない。おかげで、修復に追われてきりきりまいさ。今晩の開店に間に合わなかったら、どう落とし前つけてくれるのかしら。これだから馬鹿は嫌いなのよ。他人を顧みるってことをしないんだわ」
佳寿子は、自室で三技子に着物の帯を巻かせながら、恨めしげに愚痴を吐いていた。
三枝子は黙って手を動かす。帯を整え、襟を正し、佳寿子の顔に化粧を施す。まるで家来のようで、我ながら情けなかった。
義姉に逆らうことはできない。逆らえば自分のみならず、子供まで居場所を失うかもしれないから。佳寿子は家内における、あらゆる物事に対する決定権を握っている。
(私が我慢すればいいだけだから……)
その一心で、三技子は召使のようにこき使われている。
中集落から林道を介し、南場に入ってすぐ左手のところで駄菓子屋「タツヤ」は営業している。儲けを期待するのであれば、なにかと里民の出入りが盛んな稗田に店を据えるのが定石なのだったが、老店主、タエはなにも、潤いたいがために商売をしているのではないため、営業場所を移転させることなど念頭にはなかった。
いわば暇潰しでやっている。将棋や囲碁、花札といった、いわゆる大衆的老後の娯楽一式はどうしてか虫が好かず、膨大な空漠的時間を持て余していたのだ。出店に限らず、独りで暇を潰せるものなら何でも良かった。老いた者同士で寄り集まり、空元気を披露し合うくらいなら、ほかと交わらず孤絶していたほうが、ずっと気が楽で良い。タエはそう、いじけるでもなく、卑屈になるでもなく心から思っている。きっと、自分は変人なのだと自覚していた。
そんな性分であるタエはいま、店先の横長な腰掛けに追いやられていた。頭上の庇が眩い光線を遮ってくれているとはいえ、タエは団扇を片時も手放すことができない。避暑しようにも、店内は年寄がごった返し騒然としている。駄菓子屋「タツヤ」と隣接する整体処の客だった。もっとも、各々ひとつずつとはいえ商品を買っているのだから、タエの客であることにも変わりはないのだったが、如何せんそれを口実に店に居座り続け、ツボ治療やら鍼治療やらの順番が回ってくるのを待つものだから質が悪い。そのうえ今日は、吉蔵の失態を聞きつけた連中が数に加わって話に花を咲かせている。タエはそちらを振り返り、またすぐに視線を路上の石ころに戻す。これはしばらく帰りそうにないな、と予見し、背中を丸めて重い溜息をついた。
件の騒ぎは一昼夜で里中に知れ渡っていた。話す相手もなく、店で地蔵のように押し黙っていたタエを除く、吉蔵と永琳の諍いに立ち会った奴らが、これみよがしに言いふらしでもしたのだろう。人間は噂と事件に飢えているのだから。それが他人の不幸を含有したものであるなら、なお面白い。矢を放ったような速度で噂話は世間を貫いていく。正式に御触書が張り出されるまで、その話の真偽は定かではないというのにも関わらず。
全員が、まるでその目で実際に現場を見たというような話し方をする。だがそれは軽率以外の何者でもない。
丸呑みにするあたり、考えられるとすれば、それだけ八意永琳は揺るぎない信頼の基礎を固めているということなのか、あるいは吉蔵が――ある者にとっては妖怪がそうであるように――絶対の悪と裁決されているためなのか。あるいはその両方の要素が合わさってのことなのか。それとも人々は何であれ、不確定要素が多大を占める報道に踊らされ易いというだけのことなのか。これが仮に誤報だったとして、その実、診療所側の構成員が先に手を出していたのだとしても、やはり吉蔵だけが非難を受けることになっていたのだろうか。――みんな、もっと用心深くなっても良いんじゃないか、とタエは皮肉っぽく思う。
「……ああ、ちょいと」
この辺でよく見る顔の子供を呼び止め、タエは、両親から吉蔵について知りうる限りの情報を聞き出してくれと頼んだ。子供は、タエが褒美の支給をほのめかすとあっさりそれを請け負い、約束だからなと言いおいて歩み去った。
これでいい、とタエは独りごちる。親は我が子に、隠し事をすることがあっても嘘をつくことはない。子供を媒介させた情報というのは、濾過した川水のように透き通っている。これが用心深いというもので、利口な手段というやつだ。背後で飛び交う声を聞きながら、タエは内心、勝ち誇った気分で団扇を仰ぐ。自分は、あいつらより賢明だという自信があった。
と、隣りの建物の窓から、整体師の鮎太がまだ幼さを残す顔を覗かせた。タエは座ったまま軽く頭を下げる。鮎太もタエを見て、済まなそうに眉を曲げて曖昧に笑った。
「次のお客、呼んでもらっても……」
「誰だい」
どこかタエに遜っているふうな鮎太は、タエの気のない返答に、再び頬を引きつらせて笑った。客が迷惑をかけていることに、後暗さを感じているのだろう。事実、タエはそれのせいで暑さと戦うことを強いられている。
「寛平ご夫妻を……」
タエはいかにも大儀そうに腰を上げ、商品棚の列を抜けた先の部屋で、団欒する夫婦に声をかける。寛平と定代は笑顔で店を後にした。すぐに戻るよ、とタエに忘れず宣言をしてから。タエがうんざりしているとも知らずに。
鮎太は何度も礼を言って首を引っ込めた。
「何遍も言ってるでしょう、並ぶときは、ここ」
と鮎太は廊下沿いの、ところどころ皮が破れた長椅子を見遣る。
「ここでお待ちくださいって」
「あ、あぁ」
寛平は妻と顔を見合わせ、憮然とする鮎太を見た。
「なんでだろうな、お隣の家にいると不思議と和んじゃうもんだから、つい腰が重くなっちゃって」
鮎太は大きく息を吐いた。
「もう、目の敵にされるのは僕らなんですから……お願いしますよ」
「目の敵って、タエさんにかい」
「ええ、そうですとも」
鮎太は口をへの字にする。
「そのうち、藁人形で呪い殺されてもおかしくない」
「そんなひとには見えないけどねえ」
定代が意外そうに首を傾げた。
「タエさんって、お地蔵様みたいに物静かなひとだから」
「口数が少ないからって、いつでも肚ンなかまで穏やかとは限らないでしょう」
「だからって、怒ってるふうには見えなかったわよ」
「だよな。しかめっ面はいつものことだしな。きっと、そんなに気にしてないさ」
「絶対に悪く思ってますよ」
鮎太は断定する。寛平が納得できないというふうに尋ねた。
「どうしてそう言い切れるんだい」
鮎太は僅かに眉を顰め、開け放しの窓を気にした。それから声を潜め、
「ここだけの話にしてください。――物心ついた頃から、家が隣同士ってことで、特に和男さんにはなにかとお世話になってたんですが」
けれど、と続けた。和男はタエの夫で、すでに此の世にはいない。鮎太の父、――勘助の、八意医院を頼れという説得を最期まで聞き入れなかった。
「和男さんと違って、タエさんは全く表に出てこないひとでした。買い物も旦那さんに任せきりだったと思います。祭典の日ですら篭もりっぱなしなんですから、なんだかいわく有りげでしょう。それで僕、薄ら寒く思っていたんです。両親も口を揃えて、昔からああなんだよの一点張りで。子供ながらに想像力を掻き立てて、あいつの正体は人間に化けた山姥なんじゃないかって、まあ本気で怯えてたりもしてて」
あらあら、と定代は笑った。
「怖がり屋さんねえ」
鮎太は少しむっとする。
「なんとでも言ってください。本当に怖かったんですから。で、――そんなある日のことです、妹と家の前で遊んでいたんです。そのときは丁度、両親も和男さんも家を出てて、それで開放的な気分になってたんで、かなり燥いでたわけなんですよ。大人の目がないってもんで、兄妹揃ってうるさくしちゃってて。すると突然、怒鳴られたんです。本当に突然だったんですよ? いきなり、留守番をしていたタエさんがまさしく鬼みたいな形相で現れて、いつもいつもやかましいみたいなことを怒鳴り散らしたあとで、俺と妹の頭に拳骨を食らわせました」
定代と寛平は驚きの声を上げた。
「タエさんが怒ったのかい」
定代が問う。鮎太は頷き、それからさらに声を落として、
「それで分かったんです、ああ、このひとはずっと前から俺らのことが目障り耳障りで仕様がなかったんだろうなって。家の近所でうるさくしていたのは、一度や二度じゃなかったですから。静かなように見えて、きっと折に触れて腹ン中に悪いものを溜めてきたんだろうって」
「じゃあ、いまのタエさんも内心」
と口走ってから、寛平は件の老店主を気兼ねして小声になった。
「俺らを悪く思ってるのか」
「正確には、寛平さんらにではなく、客を呼び込む大元であるうちの店に怒りを、って感じでしょうけど」
「ふうん。そんなもんなのかねえ」
「そうですよ。だからお願いします、お隣に迷惑をかけるのだけは止めてください。人助けだと思って」
鮎太の懇願に、寛平は頷いて「あっちの奴らにも話してみるよ」と答える。
「解散するように呼びかけてみる」
「ありがとうございます」
「な、お前もそれでいいよな」
「――ええ。まあ、あなたがそういうのなら」
しかし定代は乗り気ではなさそうだった。
「わたしは、タエさん家のあの、ジメッとした空気が好きなんだけどねえ」
「勝手を言うな。鮎太くんも困ってるだろう」
寛平は顔を綻ばせる。廊下の椅子に目を遣った。
「次からはこっちに並ばせてもらうよ」
妻が不服そうに睨みつけるのを無視し、寛平は鮎太の肩に手を置く。ずっしりとした重みで体幹が左に傾いた。野良仕事に毎日欠かさず尽力しているためだろう、老男の腕は太く筋肉が張っている。腕相撲をしようものなら、きっと鮎太の力程度では梃子でも動かないに違いない。鮎太は、寛平のたくましさを改めて認識する。それと同時に、自分のマッサージが寛平の筋骨を若く保つことに成功していることを誇った。
正面の突き当たりの壁に、板を釘で打ち付けてある。男子は左へ、女子は右へ進むよう注意書きを施した看板である。左の通路から、整体師の制服を身に着けた若い女が、急ぎ足でこちらにやってくるのが見えた。妹の静佳だと咄嗟に思ったが、誤りだった。助手の雪絵である。雪絵は、勘助が雇ったふたりの助手のうちのひとりで、遠く東場から店に通ってくれている。もう一方の助手である恭子とは、日替わりでこの仕事を補助してくれていた。
履物も脱がず、土間で起立する三人を認め、雪絵は仄白い顔に疑問の色を浮かべた。
「どうか、なさいましたか」
「ああ、いや」
鮎太は首を横に振り、開け放しの窓を見る。
「隣人のことで、ちょっと話を。――ああ、雪絵さんには話してなかったかな。タエってお婆さんが、隣りにひとりで住んでるんだけどさ、こっちから気を遣う必要はないから、いいね。いないものとして扱ってくれればいいから。あまり関わり合いになりたくないんだよ」
「――はあ」
「よろしく頼んだよ」
雪絵はきょとんとし、やがて軽い混乱のなか頷いた。それから思い出したように顔を上げ、「勘助さんが」と建物の奥を指さして、
「客を止めるな、と」
鮎太は苦笑した。
「うん。すぐにお通しするから、そう親父に伝えといて」
「はい」
雪絵が引っ込んでから、鮎太は押し殺した声で老夫婦に念を押す。
「いま話したこと、絶対、タエさんには内緒にしてくださいよ」
「承知してるって」
言って、寛平は笑ったが、定代は面白くなさそうに唇を尖らせ、鮎太と夫を見比べているきりだった。




