8話
「夫が欲しくないわけじゃないんです」
説明会の最後。
一人の女性がそう言った。
三十四歳。
メーカー勤務。
年収六百八十万円。
環生舎への入居希望者だった。
「いい人がいたら結婚したいです」
面接官は頷いた。
「はい」
「でも、それと子どもは別にしたいんです」
「どういう意味でしょう」
女性は少し考えた。
「子どもを産めるかどうかを、これから出会うかもしれない男の人に賭けたくないんです」
*
彼女の名前は相沢奈津。
三十四歳。
恋愛経験はある。
七年間付き合った男性もいた。
三十一歳のときに別れた。
理由は珍しいものではない。
奈津は結婚したかった。
子どもも欲しかった。
彼は、
「いつかは」
と言った。
一年待った。
また、
「いつかは」
と言った。
三十一歳の誕生日を過ぎた頃、
奈津は訊いた。
「いつ?」
彼は答えられなかった。
別れた。
そこから婚活を始めた。
アプリ。
紹介。
結婚相談所。
二年間で、二十人以上の男性と会った。
嫌な人ばかりではなかった。
むしろ、いい人もいた。
ただ、
結婚する。
一緒に暮らす。
家計を一つにする。
子どもを作る。
子育てをする。
老後まで生活する。
そこまでを一人の人間にまとめて任せられる相手かと考えると、
急に難しくなった。
*
奈津には、結婚している友人が多かった。
幸せな家庭もある。
夫婦で協力して子どもを育てている友人もいる。
そういう家を見ると、
いいな、
と思う。
一方で、
違う家庭も見てきた。
夫が家事をしない。
育児をしない。
帰宅が遅い。
転勤になった。
仕事を辞めた。
病気になった。
夫婦関係が悪くなった。
離婚した。
もちろん女性側に問題がある場合だってある。
誰が悪いという話ではない。
ただ奈津には、
不思議なことがあった。
会社なら、
重要な仕事を一人の人間だけに依存させれば、
「リスクが高い」
と言われる。
収入源が一つしかなければ、
「リスクが高い」。
資産を一つに集中させても、
「リスクが高い」。
なのに子育てだけは、
自分と、
たった一人の他人。
二人だけで二十年近く運営することを、
「普通」
と呼ぶ。
しかもその共同経営者は、
多くの場合、
恋愛感情が最も強い時期に選ぶ。
奈津には、
それが少し怖かった。
*
環生舎を知ったのは、
三十三歳の冬だった。
最初は笑った。
「無理無理」
友人に記事を送った。
《結婚しない高学歴女性が集団で子育て》
「怖くない?」
友人も、
「怖い」
と返した。
半年後。
奈津は、その記事を保存していた。
*
物価が上がった。
家賃も上がった。
食品も高くなった。
給与は増えている。
でも、
増えたという実感は薄かった。
税金。
社会保険料。
家賃。
光熱費。
一人なら困らない。
旅行にも行ける。
服も買える。
貯金もできる。
でも子ども三人となると、
急に計算が変わる。
広い家。
保育。
教育。
習い事。
食費。
そして何より、
時間。
奈津はある晩、
Excelを開いた。
《子ども三人》
という名前のファイルを作った。
住宅費。
食費。
保育。
教育。
医療。
衣類。
習い事。
入力していく。
途中で嫌になった。
保存せず閉じた。
三日後、
また開いた。
今度は、
《子ども二人》
で計算した。
さらに一週間後。
《子ども一人》
になった。
そこで奈津は腹が立った。
まだ一人も産んでいないのに、
どうして自分は、
欲しい子どもの人数を減らす計算ばかりしているのだろう。
*
環生舎の説明会へ行った。
数字を見せられた。
食費。
住居費。
教育費。
スタッフ人件費。
医療費。
共同設備費。
安くはなかった。
むしろ毎月の負担だけ見れば、
かなりの金額だった。
でも。
住居がある。
保育がある。
食事がある。
病児対応がある。
夜間対応がある。
教育がある。
習い事がある。
大学までの教育計画がある。
そして、
自分が失業しても、
子どもが明日住む場所を失うわけではない。
相手の男性が失業しても。
別れても。
亡くなっても。
関係が悪くなっても。
子どもの生活基盤そのものは、
大きく変わらない。
奈津はそこで初めて、
環生舎が売っているものが何なのか理解した。
安さではない。
安心だった。
*
面接官が訊いた。
「何人くらい希望されていますか」
「三人です」
奈津は答えた。
少し考えて、訂正した。
「本当は四人」
「では四人と書いておきます」
「でも三十四ですよ」
「はい」
「四人産めるか分からないですよね」
「もちろんです」
「だったら三人で」
面接官はペンを置いた。
「希望ですよ」
「はい」
「計画ではありません」
奈津は黙った。
「四人欲しいのであれば、四人と書いて構いません」
「でも無理だったら?」
「三人になります」
「二人だったら?」
「二人になります」
「一人だったら?」
「一人です」
「それでいいんですか」
面接官は少し笑った。
「誰に対して謝っているんですか?」
奈津は答えられなかった。
*
「父親についてはどう考えていますか」
次の質問だった。
「まだ分かりません」
「ご自身で探しても構いません」
「はい」
「登録者から選ぶこともできます」
「はい」
「同じ相手から複数の子どもを希望することも、一定の条件内で可能です」
奈津は少し迷った。
「恋愛してもいいんですよね」
「もちろんです」
「結婚も?」
「できます」
「じゃあ……」
奈津は笑った。
「ここに入って、そのあと普通に結婚する可能性もある?」
「あります」
「変じゃないですか?」
「何がでしょう」
「結婚しない女性の施設なのに」
面接官は首を振った。
「そこはよく誤解されます」
そして言った。
「ここは、男性を必要としない女性のための場所ではありません」
少し間を置いた。
「男性との関係がどうなっても、子どもとの生活を安定させたい女性のための場所です」
奈津は、
その言葉をしばらく考えた。
*
帰りの電車。
向かい側に家族が座っていた。
父親。
母親。
小さな男の子。
男の子が父親にもたれて眠っている。
父親は片手で支えながらスマートフォンを見ている。
母親も眠っている。
いいな。
奈津は思った。
環生舎を知ったからといって、
あの光景が嫌いになるわけではない。
むしろ欲しい。
好きな人がいて。
その人との子どもがいて。
一緒に暮らして。
家族になる。
それは今でも魅力的だった。
ただ。
それが手に入らなかったときに、
子どもまで諦めなければならない理由はない。
そして手に入ったとしても、
それが永遠に壊れないことを前提に、
子どもの人生まで乗せる必要もない。
夫ができたら、
愛すればいい。
一緒に暮らしたければ、
暮らせばいい。
結婚したければ、
結婚すればいい。
でも。
子どもを産むことだけは、
その人が現れるまで待たなくてもいい。
奈津はスマートフォンを開いた。
環生舎から届いたメールを見る。
《第一次選考結果》
まだ開いていなかった。
電車が駅に着いた。
人が降りる。
人が乗る。
扉が閉まった。
奈津はメールを開いた。
《通過》
その二文字を見た瞬間、
思っていたよりずっと、
嬉しかった。
結婚を諦めたわけではない。
仕事を諦めたわけでもない。
子どもを諦めたわけでもない。
何か一つを選んだのではなく、
何か一つを選ばなければならない人生から、
少しだけ降りられた気がした。




