7話
最初から、環生舎と呼ばれていたわけではない。
建物もなかった。
保育士もいなかった。
プールも音楽室も、外国人スタッフもいなかった。
いたのは六人の女と、三人の子ども。
それから、
金だけは、あった。
*
九条千景、三十一歳。
二十七年前。
父親の葬儀を終えて半年が経った頃だった。
千景は、都内にある九条家の本宅で税理士と話していた。
「それで、いくら残るの?」
税理士が数字を見せた。
千景はしばらく黙った。
一生働かなくてもいい。
普通に暮らせば、使い切れない。
そんな金額だった。
「家は?」
「こちらの本宅以外に――」
「違う」
千景は遮った。
「何人くらい住める家を建てられる?」
税理士が顔を上げた。
「何人、とは?」
「女が二十人くらい。子どもが百人」
「はい?」
そこから始まった。
*
千景は結婚したくなかった。
男が嫌いだったわけではない。
恋愛もした。
長く付き合った男性もいる。
ただ、
一人の男性と一つの家を持ち、
二人の収入と時間を使って、
二人か三人の子どもを育てる。
その形に魅力を感じなかった。
一方で、子どもはたくさん欲しかった。
「何人?」
と訊かれれば、
「七人」
と答えていた。
たいてい笑われた。
二十九歳で第一子を産んだ。
そのとき初めて、
周囲が笑った意味が分かった。
無理だった。
出産そのものではない。
そのあとだ。
三時間ごとに起きる。
泣く。
授乳する。
着替えさせる。
洗う。
寝かせる。
起きる。
また泣く。
千景には金があった。
家政婦を雇った。
ベビーシッターも雇った。
夜間スタッフも頼んだ。
食事も作ってもらった。
すると、驚くほど楽になった。
そして千景は思った。
だったら七人産める。
友人に話した。
「それ、あんただからできるのよ」
そう言われた。
正しかった。
だから千景は考えた。
自分一人だから高いのではないか。
*
二人目は、大学時代の友人だった。
宮原沙織。
三十二歳。
公認会計士。
結婚するつもりはない。
子どもは欲しい。
できれば四人。
「一緒に住まない?」
千景が訊いた。
「嫌」
即答された。
「なんで」
「なんで金持ちの友達と子育てするために同居しなきゃいけないの」
「家賃いらないよ」
「そういう問題じゃない」
「シッター代も」
「怖いって」
「食事も」
「宗教始める気?」
これが、環生舎が初めて宗教扱いされた瞬間だった。
それでも三か月後、
沙織は入ってきた。
理由は単純だった。
妊娠したから。
*
二人で暮らすと、
千景は最初の発見をした。
赤ん坊が二人になっても、
必要な大人は二倍にはならない。
食事を二人分作るのも三人分作るのも、それほど変わらない。
洗濯機は、一枚の服でも回す。
十枚でも回す。
夜間スタッフを一人雇えば、
二人の赤ん坊を見られる時間がある。
「これ、人数増やしたほうが安くなるね」
千景が言った。
会計士の沙織は計算した。
翌朝。
「千景」
「何」
「十人くらいまで増やしたい」
「でしょ?」
*
三人目。
医師。
四人目。
大学教員。
五人目。
弁護士。
六人目。
IT企業勤務。
共通していたのは、
結婚したくないことではなかった。
三人目の女性には恋人がいた。
四人目は離婚していた。
五人目は結婚そのものには前向きだった。
六人目は、
「いい人がいたら普通に結婚する」
と言っていた。
ただ全員、
子どもをたくさん欲しがった。
それだけだった。
*
六人になった頃、
最初の家は破綻した。
物理的に。
「ベビーカー何台あるの?」
「七」
「玄関通れない」
「畳めば?」
「毎回?」
「じゃあ外置く?」
「雨降るよ」
冷蔵庫が足りない。
洗濯機が足りない。
風呂が足りない。
トイレが足りない。
収納がない。
子どもが寝ている横で大人が仕事をしている。
夜泣きで全員起きる。
金を使えば解決できると思っていた。
違った。
普通の住宅は、
そもそも十数人で子育てするように作られていない。
「家が悪い」
千景が言った。
「家のせいにするな」
沙織が言った。
「いや、本当に」
千景は間取りを広げた。
「これ、全部要らない」
六つのキッチン。
六つの風呂。
六つの洗濯機置き場。
六つの玄関。
家族単位で住宅を六戸作れば、
同じ設備を六回作ることになる。
「一個でいいものは一個にしよう」
「風呂一個は無理」
「じゃあ三個」
「適当だな」
「洗濯機は業務用」
「厨房は?」
「作る」
「子ども部屋は?」
「年齢で分ける」
「母親の部屋は?」
「個室」
「赤ちゃんは?」
そこで止まった。
誰と寝るのか。
この問題で、六人は初めて大喧嘩した。
*
「自分の子とは自分で寝たい」
と言ったのは三人。
「夜間はスタッフに任せたい」
が二人。
千景は、
「どっちでもいい」
と言った。
「どっちでもいいって何?」
怒られた。
この頃の彼女たちは、
何も分かっていなかった。
共同育児をすれば、
自然に合理的な答えが出てくると思っていた。
出なかった。
母乳かミルクか。
添い寝するか。
誰が抱くか。
泣いたらすぐ行くか。
仕事復帰はいつか。
実母を優先するのか。
しないのか。
六人いれば、
六通りの正解があった。
「規則を作ろう」
千景が言った。
「誰の規則?」
と沙織が訊いた。
その質問に答えられなかった。
*
最初に辞めたのは、
四人目の女性だった。
共同生活開始から十一か月。
理由は、
「思っていたのと違う」。
誰も責めなかった。
でも千景は傷ついた。
「何が悪かったんだろう」
沙織に訊いた。
「全部」
「全部?」
「私たち、自分が楽になることしか考えてなかった」
沙織は言った。
「子どもがどう育つか、誰も知らない」
その言葉が、
環生舎を変えた。
*
それまで、彼女たちは子育てを分担していた。
今日の夜担当。
食事担当。
送り迎え担当。
全員、高学歴だった。
全員、仕事もできた。
そして全員、
子育てについては素人だった。
千景は、
「専門家を雇おう」
と言った。
最初に来た保育士は、
二週間で辞めた。
二人目は一か月。
三人目は三日。
「なんで?」
千景が訊いた。
三人目の保育士は帰り際にはっきり言った。
「あなたたちが雇いたいのは保育士じゃありません」
「じゃあ何?」
「都合のいい母親です」
千景は何も言えなかった。
*
そこから半年、
千景は保育施設を回った。
児童養護施設。
保育園。
寄宿学校。
インターナショナルスクール。
病児保育。
障害児支援施設。
海外にも行った。
スイス。
イギリス。
デンマーク。
そこで初めて、
子どもを集団で育てることには、
家庭とは別の専門性が必要なのだと知った。
帰国して最初にしたのは、
保育士を増やすことではなかった。
責任者を一人雇うことだった。
児童発達を専門とする、
五十二歳の女性だった。
面接で彼女は千景に言った。
「あなたは何人産みたいんですか」
「七人」
「それはあなたの都合ですね」
「はい」
「子どもには関係ない」
「はい」
「それを忘れないなら、引き受けます」
千景は、
初めて自分より強い人を雇った。
*
次の壁は、
行政だった。
「これは何ですか」
担当者に訊かれた。
千景も困った。
住宅です。
でも保育をする。
保育施設です。
でも母親も住む。
寮です。
でも家族でもある。
学校です。
まだ学校ではない。
宗教法人です。
なぜ宗教法人なんですか。
「説明すると長くなります」
「してください」
何度も説明した。
消防。
建築。
保健。
保育。
税務。
担当部署を回るたび、
別の部署へ行けと言われた。
「前例がありません」
この言葉を、
千景は一年で百回以上聞いた。
途中から、
「前例がないことは分かっています」
と最初に言うようになった。
*
そして最大の問題が起きた。
週刊誌だった。
《エリート女性六人 謎の共同育児生活》
写真まで載った。
ネットではもっとひどかった。
カルト。
優生思想。
金持ちの道楽。
父親のいない子ども。
女だけの王国。
建設予定地には抗議の手紙が届いた。
「子どもがかわいそう」
という手紙が、一番多かった。
千景は初めて、
やめようかと思った。
*
夜。
仮住まいのリビング。
子どもは九人に増えていた。
全員寝ている。
沙織と二人で、
床に座っていた。
「やめる?」
千景が訊いた。
沙織は缶ビールを飲んだ。
「何を?」
「これ」
「嫌」
即答だった。
「なんで」
「楽だから」
千景は笑った。
「それだけ?」
「それ大事でしょ」
沙織は言った。
「私、今日七時まで仕事してた」
「うん」
「帰ってきたら、ご飯あった」
「うん」
「娘は風呂入ってた」
「うん」
「宿題も終わってた」
「まだ三歳でしょう」
「あ、違う子だ」
二人で笑った。
「でもさ」
沙織が言った。
「帰ってきて、娘と三十分遊んだ」
「うん」
「今日、私が娘にしたこと、それだけ」
千景は黙った。
「でも、その三十分、全然イライラしなかった」
沙織は缶を置いた。
「早く食べなさいも、早く風呂入りなさいも、明日の準備しなさいも、洗濯物片づけなさいもなかった」
「三歳だからね」
「例えだよ」
「はい」
「ただ遊んだ」
沙織は少し笑った。
「私、あの三十分なら、すごくいい母親だったと思う」
千景は何も言わなかった。
「これが正しいかは知らない」
沙織は言った。
「でも私は、前の生活には戻りたくない」
*
新しい建物が完成したのは、
構想から四年後だった。
入居女性、十一人。
子ども、二十三人。
職員、十八人。
現在の環生舎から見れば、
小さな施設だった。
プールはない。
体育館もない。
音楽室は一つ。
外国人スタッフは二人。
業務用ランドリーと厨房だけは、
妙に立派だった。
入口には名前が必要だった。
何十個も候補が出た。
最後に、
「環生舎」
が残った。
人が人を囲み、
人が人に囲まれて生きる場所。
千景自身は、
少し大げさだと思っていた。
でも他にいい名前がなかった。
*
開所日の朝。
千景は一番早く起きた。
まだ誰もいない食堂へ行く。
テーブルが並んでいる。
子ども用の椅子。
厨房。
大量の食器。
壁には今日の予定。
七時、朝食。
八時、登園。
九時、乳幼児活動。
昨日まで、
全部ただの計画だった。
廊下から音がした。
一人目。
二人目。
子どもが入ってくる。
「お腹すいた」
「まだ?」
「今日パン?」
大人も来る。
職員も来る。
食堂が埋まっていく。
千景は入口で見ていた。
自分が七人産みたい。
最初は、
それだけだった。
それを叶えるために、
家を変えた。
人を増やした。
専門家を雇った。
制度を作った。
するといつの間にか、
自分一人のためには大きすぎるものになっていた。
沙織が隣に来た。
「何してるの?」
「見てる」
「何を?」
千景は食堂を見た。
十一人の女性。
二十三人の子ども。
十八人の職員。
誰かが泣いている。
誰かがパンを落とした。
職員が牛乳を運んでいる。
昨日設置したばかりの椅子に、もう落書きがある。
「できたなと思って」
沙織も眺めた。
「何が?」
「分からない」
千景は笑った。
家族ではない。
保育園でもない。
学校でもない。
寮でもない。
もちろん、
理想郷でもない。
まだ、
何になるのか誰にも分からなかった。
ただ一つだけ、
最初の六人には分かっていた。
子どもをたくさん産みたい。
仕事もしたい。
一人の人間として生きたい。
その三つを言ったとき、
「全部は無理だから、どれかを諦めなさい」
と言われない場所を、
自分たちで一つ作った。
それだけだった。




