6話
環生舎のことは、嫌いだった。
正確に言えば、嫌いだと思っていた。
三十二歳になるまでは。
*
私の名前は高瀬真帆。
三十二歳。
都内の総合商社勤務。
独身。
年収は九百万円を少し超える。
大学を出て十年。
海外赴任を二回。
仕事は面白い。
昇進もしたい。
結婚願望はある。
子どもも欲しい。
できれば三人。
昔は、それを特別な希望だと思っていなかった。
二十八歳の頃までは。
三十歳を過ぎると、人生を数字で考えることが増えた。
三十二。
来年、三十三。
もし今年誰かと出会ったとして。
一年付き合う。
三十三。
結婚する。
三十四。
妊娠する。
順調なら一人目が三十五。
一年ほど空ける。
二人目。
三十七。
三人目は?
そこで計算をやめる。
もちろん、人生は計算通りにはいかない。
だから余計に怖かった。
会社を辞めればいい、とは思わない。
仕事が好きだから。
結婚だけを急ぐのも違う。
子どもが欲しいからという理由で、誰かと一生暮らす約束をするのも違う気がする。
でも時間だけは進む。
そんなとき、スマートフォンに環生舎の記事が出てきた。
《高学歴女性が集まる「母親のいらない共同体」》
最悪な見出しだった。
記事を開いた。
もっと最悪だった。
女性たちが結婚せずに子どもを産む。
共同で育てる。
生物学上の父親と生活する必要はない。
一人で五人以上産む女性もいる。
閉じた。
気持ち悪い。
その夜、もう一度開いた。
*
三週間後。
私は環生舎の門の前にいた。
見学説明会。
参加者二十二名。
驚いたことに、普通の女性ばかりだった。
二十代もいる。
三十代もいる。
四十代らしい女性もいる。
服装も普通。
一人で来ている人が多い。
もっと、
何かを信じ切った人たちが集まっているのだと思っていた。
受付で身分証を提示する。
撮影は禁止。
子どもへの無断での声かけも禁止。
SNSへの位置情報を伴う投稿は禁止。
見学可能区域が決められている。
かなり厳しい。
案内役の女性が最初に言った。
「今日は環生舎の良いところを説明します」
何人かが笑った。
「入居を検討されている皆さんに、こちらが自分たちの欠点を公平に説明できるとは考えていません。退去者への聞き取りや批判的な記事も、ご自身で確認してください」
私は少し驚いた。
宗教施設の説明会で言う言葉ではない。
*
最初に案内されたのは居住棟ではなかった。
ランドリーだった。
巨大な洗濯機が並んでいる。
「個人で洗濯する必要は原則ありません」
次。
厨房。
次。
共同備品庫。
子ども服。
おむつ。
タオル。
文房具。
衛生用品。
次。
乳幼児区画。
そこには保育士がいた。
「子ども十名を基本単位として、専門職の担当者が継続的に発達を確認します」
説明を聞きながら、私は少しずつ混乱していた。
もっと思想の説明をされると思っていた。
女性とは。
母性とは。
家族とは。
そういう話。
でも、説明されるのは洗濯だった。
食事だった。
夜間対応だった。
病児対応だった。
保育だった。
送迎だった。
産後の回復期間だった。
復職だった。
全部、私が見ないようにしていたものだった。
*
教育棟へ入った。
体育館。
温水プール。
音楽室。
ピアノ練習室。
美術室。
書道室。
ダンススタジオ。
「こちらの習い事は、ほぼすべて敷地内で完結します」
参加者の一人が訊いた。
「何歳くらいから専門を決めるんですか?」
「原則として、早期の専門化は勧めていません」
「才能があっても?」
「本人が強く希望する場合は別です。ただ、子どもの段階では、なるべく多くの分野に触れることを優先しています」
別の女性が手を挙げた。
「英語教育は?」
「生活の中で行います。外国籍スタッフが常時います。英語以外にも複数言語に触れます」
「高校卒業時の目標は?」
「英語については日常生活および学習に支障がない水準。それ以外については個人差があります。三言語から五言語程度を実用的に扱う子が多いです」
私は質問した。
「費用は?」
案内役が答えた。
数字を聞いた。
高い。
普通に考えれば高い。
でも私は頭の中で計算した。
家賃。
食費。
保育。
ベビーシッター。
習い事。
英会話。
水泳。
ピアノ。
学童。
家事代行。
それから東京で、子ども三人が暮らせる家。
比較する。
高い。
でも、おかしなほど高くはない。
「規模の経済です」
案内役が言った。
「一家庭でこれを揃えれば、ほとんどの方には不可能です。しかし、数百人で設備と人材を共有すれば成立します」
私はプールを見た。
子どもたちが泳いでいる。
その横に外国人のコーチがいる。
何かを英語で言う。
子どもが英語で言い返す。
別の子が笑う。
普通だった。
あまりにも普通だった。
*
昼食の見学で、決定的なことが起きた。
七歳くらいの女の子がスープをこぼした。
私は反射的に周囲を見た。
誰かが怒ると思った。
近くにいたスタッフが、
「あーあ」
と言った。
女の子も、
「あーあ」
と言った。
二人で布巾を取りに行った。
それだけ。
別のところでは子どもが喧嘩している。
小学生が宿題をしている。
妊娠している女性が食事をしている。
ノートパソコンで仕事をしている女性もいる。
赤ん坊を抱いて歩いている男性スタッフもいる。
特別な理想郷ではなかった。
生活だった。
ただし、
生活の面倒な部分に、
ものすごくたくさんの人間と金を投入した生活だった。
*
午後。
質疑応答。
私は一番聞きたかったことを訊いた。
「入居したら、何人産まなければいけないんですか」
部屋が少し静かになった。
案内役は即答した。
「決まりはありません」
「でも、子どもをたくさん産みたい女性のための施設ですよね」
「そうです」
「一人で終わっても?」
「構いません」
「産まなくても?」
「入居後に事情や考えが変わったのであれば、それを理由に退去を求めることはありません」
「では、選考で子どもが欲しいか聞く意味は?」
「ここは、その希望を持つ女性のために限られた資源を集中的に使う施設だからです」
筋は通っていた。
「五人産みたいと言って入って、一人で嫌になったら?」
「一人で終わってください」
何人かが笑った。
案内役は笑わなかった。
「出産は目標数を達成する仕事ではありません」
私は黙った。
「環生舎は、たくさん産ませる場所ではありません」
以前、誰かも同じことを言ったのだろう。
言い慣れた口調だった。
「たくさん産みたい女性が、それを諦めなくてもよい環境を作る場所です」
*
次の質問は、別の参加者からだった。
二十六歳。
説明会が始まる前に少し話した。
大学院生だった。
「相手はどうするんですか?」
案内役が説明する。
自分で選んでもいい。
施設の登録者から選んでもいい。
医学的情報。
遺伝的なリスク。
身体的特徴。
知的能力。
職業。
運動能力。
家族歴。
本人の希望する条件によって閲覧できる情報は違う。
海外の登録者もいる。
「恋愛してもいいんですか?」
誰かが訊いた。
今度は案内役が笑った。
「止められると思いますか?」
笑いが起きた。
「結婚しても?」
「もちろん」
「その場合は?」
「ここで生活を続ける人もいますし、退去する人もいます」
「夫も住めるんですか?」
「原則として成人男性の居住区への恒常的な入居は認めていません。家族向けの別区画については現在試験運用中です」
なるほど。
何でもありではない。
共同体には共同体の都合がある。
そこは少し安心した。
*
見学の最後。
自由時間が三十分あった。
私は中庭のベンチに座った。
隣には、さっきの二十六歳の大学院生がいた。
「どうでした?」
向こうから訊かれた。
「困ってます」
「私も」
「もっと嫌なところだったらよかった」
彼女が笑った。
「分かります」
「入らない理由を探しに来たんですよね、私」
口にして初めて気づいた。
本当にそうだった。
気持ち悪い宗教。
変な思想。
子どもを大量に産む女性たち。
そういうものを見つけて、
やっぱり普通に結婚しよう。
そう思って帰りたかった。
でも、見たのは違った。
子ども十人を継続して見る専門職。
病児対応。
夜間保育。
産後支援。
食事。
洗濯。
教育。
語学。
習い事。
仕事を続ける女性たち。
それらを見てしまった。
「私、子ども五人欲しいんです」
隣の彼女が言った。
「五人?」
「はい」
「二十六ですよね」
「だから今からならいけるかなって」
私は笑った。
「私は三人」
「いいじゃないですか」
「三十二」
「まだ若いですよ」
そう言われても嬉しくなかった。
「でも普通に結婚もしたいんですよね」
私は言った。
「じゃあすればいいじゃないですか」
あまりにも簡単に言われた。
「ここに入りながら?」
「駄目なんですか?」
「いや……」
私は考えた。
なぜか、どちらかを選ばなければならないと思っていた。
仕事か、子どもか。
結婚か、自由か。
家庭か、環生舎か。
でも環生舎の女性たちは、そもそもその問い方をしていない。
欲しいものを先に決める。
それから、成立させる方法を考える。
*
帰り。
門を出る。
駅まで十二分。
普通の住宅街を歩く。
ベビーカーを押している女性とすれ違った。
右手にベビーカー。
左手に三歳くらいの子。
肩に大きなバッグ。
スーパーの袋。
子どもが何か言う。
女性が止まる。
しゃがむ。
また歩く。
私はその後ろ姿を見た。
昨日までなら、
お母さんって大変だな。
それだけだったと思う。
今日は違った。
なぜ一人なのだろう。
そう思った。
子どもを育てるのが大変なのは、
子どもという存在そのものが大変だからなのか。
それとも、
一つの家の中に、
一人か二人の大人と、
すべての仕事を閉じ込めているからなのか。
駅に着いた。
スマートフォンを開く。
環生舎からメールが届いていた。
《本日は見学説明会にご参加いただき、ありがとうございました》
その下。
《入居選考への応募を希望される方》
リンクがある。
私は押さなかった。
三十二年間で作った人生を、
三時間の見学で変えるほど、
私は素直ではない。
画面を閉じた。
電車に乗った。
座席に座る。
そして十分後。
もう一度メールを開いた。
応募リンクを長押しして、
ブラウザの新しいタブで開いた。
申し込むとは、
まだ決めていない。
ただ。
選択肢として残しておこうと思った。
環生舎で今日、
子どもたちにしていることと、
たぶん同じだった。




