4話
私には、母親がいる。
名前は玲奈。
四十二歳。
建築士。
私を二十六歳で産んだ。
そのあと四人産んでいるから、私には母親が同じきょうだいが四人いる。
父親が同じきょうだいまで数えると、もっといる。
ただし、普段そんな数え方はしない。
だから、
「きょうだい何人?」
と訊かれるのが少し苦手だ。
「どの意味で?」
と聞き返すと、大抵変な顔をされる。
私は十七歳になるまで、一度も環生舎の外で暮らしたことがなかった。
だから自分たちが変わっていることは知っていても、どのくらい変わっているのかは、よく分かっていなかった。
高校二年の夏。
初めて友達の家に泊まった。
*
「ここが私の家」
七海が言った。
普通の二階建てだった。
玄関を開ける。
「ただいま」
奥から、
「おかえりー」
と声がした。
七海のお母さんだった。
「お邪魔します」
「いらっしゃい。紬ちゃんよね?」
「はい」
「七海から聞いてるよ。入って入って」
私は靴を脱いだ。
玄関に靴が五足くらいしかない。
最初に思ったのは、それだった。
環生舎の玄関には、とにかく靴が多い。
もちろん居住区ごとに分かれているし、収納もある。
それでも人間が多い。
ここには三人しか住んでいない。
七海。
お母さん。
お父さん。
それだけ。
階段を上がる。
「ここ私の部屋」
七海が扉を開けた。
私は驚いた。
「一人で使ってるの?」
「そうだけど」
「全部?」
「全部」
ベッド。
机。
本棚。
クローゼット。
七海のものしかない。
「すご」
「何が?」
「部屋」
「紬も個室あるじゃん」
「あるけど、こんなに物置けない」
机の上には化粧品が並んでいた。
壁には好きなバンドのポスター。
棚には漫画。
ベッドの上には巨大なぬいぐるみ。
全部、七海のものだった。
「これ全部、自分で選んだの?」
「そうだよ」
少し羨ましいと思った。
*
夕食は、七海のお母さんが作ってくれた。
ハンバーグ。
サラダ。
味噌汁。
ご飯。
「紬ちゃん、いっぱい食べてね」
「ありがとうございます」
美味しかった。
環生舎の食事も美味しい。
栄養士が献立を作るし、料理人もいる。
でも、何か違う。
「七海、トマト食べなさい」
「いらない」
「残さない」
「紬、食べる?」
「人に押しつけない」
私は笑った。
なんだか面白かった。
三人しかいないのに、ちゃんと食卓だった。
「紬ちゃんのところって、ご飯どうしてるの?」
七海のお父さんが訊いた。
「食堂です」
「毎日?」
「基本は」
「何人くらい?」
「時間ずれるので分かんないですけど、夕食なら百人以上は」
「百人!」
お父さんが笑った。
「ホテルみたいだな」
「ホテルとは違います」
「ごめんごめん」
悪意がないのは分かった。
食後。
七海のお母さんが皿を集め始めた。
私は反射的に立った。
「運びます」
「あ、いいよいいよ。座ってて」
「でも」
「お客さんなんだから」
お客さん。
その言葉が少し新鮮だった。
環生舎では、誰かの居住区に遊びに行っても、完全なお客さんにはならない。
できる人がやる。
だから皿があれば運ぶ。
七海のお母さんは皿を洗い始めた。
一人で。
私は見ていた。
五分。
十分。
「毎日やるんですか?」
思わず訊いた。
「何を?」
「食器」
「そりゃ毎日よ」
「誰が?」
七海のお母さんが笑った。
「だいたい私」
私は七海を見た。
「手伝うよ!」
七海が抗議する。
「たまにね」
「やってるって!」
お父さんがテレビを見ながら笑っている。
「お父さんは?」
私が訊く。
一瞬、静かになった。
「あ」
七海が笑い始めた。
「紬、それ聞く?」
「駄目だった?」
「駄目じゃない」
お父さんまで笑っていた。
私はよく分からなかった。
*
夜。
七海の部屋で二人で寝た。
十二時を過ぎても話した。
学校。
先生。
大学。
恋愛。
進路。
「紬って、やっぱり将来あそこに戻るの?」
七海が訊いた。
「戻るって?」
「環生舎」
「出てないけど」
「大学行ったら」
「ああ」
私は考えた。
「たぶん」
「子どもも?」
「欲しい」
「何人?」
「六人くらい」
「六人!」
七海が起き上がった。
「無理!」
「なんで?」
「六人だよ?」
「うん」
「産むの?」
「そうだけど」
「怖くない?」
「怖いとは思う」
「仕事どうするの?」
「するよ」
「誰が育てるの?」
私は少し考えた。
「みんな?」
「それが分かんないんだよね」
七海が枕を抱えた。
「自分の子なんでしょ?」
「そうだよ」
「自分で育てたくないの?」
今度は私が分からなかった。
「自分でも育てるよ」
「でも他の人も育てるんでしょ?」
「うん」
「嫌じゃない?」
「なんで?」
七海は黙った。
私は逆に訊いた。
「七海は子ども欲しい?」
「二人かな」
「仕事は?」
「したい」
「ご飯は?」
「作る」
「洗濯は?」
「する」
「掃除は?」
「する」
「保育園の送り迎えは?」
「……する」
「習い事は?」
「送る」
「病気になったら?」
「休むしかないでしょ」
「旦那さんは?」
「やってもらう」
「半分?」
「理想は」
私は天井を見た。
「大変そう」
「六人産む人に言われたくない」
二人で笑った。
*
少しして、七海が言った。
「でもさ」
「うん」
「私はお母さんみたいになりたいんだよね」
暗くて顔は見えなかった。
「料理して、子ども迎えに行って。旦那さん帰ってきて。みんなでご飯食べて」
「うん」
「大変なのは分かってるけど」
「うん」
「そういう家が欲しい」
私は、その言葉が少し羨ましかった。
環生舎には、何でもある。
プールがある。
体育館がある。
音楽室がある。
図書館がある。
外国人スタッフがいる。
病気になれば医療スタッフが来る。
勉強が分からなければ専門の人がいる。
誰かが仕事で遅くなっても困らない。
夕食はある。
洗濯物はきれいになる。
小さい子が一人になることもない。
でも。
「今日のハンバーグ」
私は言った。
「うん?」
「美味しかった」
「でしょ」
「七海のために作ったんだよね」
「まあ、私とお父さんのためじゃない?」
「それ」
「何?」
「いいなと思った」
七海がこちらを向いた。
「環生舎でもハンバーグ出るよ」
「知ってる」
「料理人だから、たぶんうちより美味しいよ」
「そうじゃなくて」
うまく説明できなかった。
百人分のハンバーグではない。
今日ここにいる三人のためのハンバーグ。
七海がトマトを嫌いなのを知っている人が作るサラダ。
七海が残すと怒る人。
七海の皿を洗う人。
効率は悪い。
ものすごく悪い。
でも、その非効率そのものが、
「あなたのためにやった」
という意味になることがあるのかもしれない。
*
翌朝。
七海のお母さんが弁当を作っていた。
五時五十分だった。
「早いですね」
「部活だからね」
卵焼きを焼く。
ウインナーを入れる。
昨日の残り物も少し入れる。
私は横で見ていた。
「環生舎なら何個くらい作るの?」
「弁当の日なら百個くらい」
「工場ね」
「言い方」
二人で笑った。
「紬ちゃん」
「はい」
「変なこと聞いていい?」
「どうぞ」
「お母さんに会いたいって思わない?」
私は少し考えた。
「昨日も会いました」
「あ、そうなの?」
「夕食で」
「一緒に食べた?」
「少し話しました」
「嬉しい?」
「普通です」
七海のお母さんは、
「そっか」
と言った。
「でも玲奈が三週間出張すると、ちょっと寂しいです」
「やっぱりお母さんなんだ」
私は首を傾げた。
「たぶん」
自分でもよく分からない。
玲奈は特別だ。
でも担当のエマも特別だ。
小さい頃ずっと面倒を見てくれた佳代も特別だ。
水泳を教えてくれたマルクも。
毎朝会う美緒も。
同じグループで育った七人も。
私の中には、
「この人だけ」
という場所があまりない。
その代わり、
「この人たち」
という場所が、とても大きい。
*
環生舎へ帰ると、玄関に小学生が三人いた。
「紬!」
「ただいま」
「どこ行ってたの?」
「友達の家」
「楽しかった?」
「うん」
「何あった?」
「普通の家」
「普通って何?」
答えようとして、やめた。
「今度教える」
中へ入る。
遠くからピアノが聞こえる。
体育館からボールの音がする。
誰かが英語で喋っている。
幼児が泣いている。
スタッフが中国語で何か言っている。
夕食の匂いがする。
廊下には人がいる。
うるさい。
私は自分の部屋へ戻った。
ベッドに寝転がる。
七海の家を思い出した。
いいな、と思う。
ああいう家も。
でも私はたぶん、ここで子どもを育てる。
六人欲しい。
仕事もしたい。
外国にも行きたい。
子どもと遊びたい。
一人にもなりたい。
全部欲しい。
環生舎なら、それを欲張りだと言う人はいない。
でも、もし。
いつか好きな人ができて。
その人と二人で家を借りて。
子どもが生まれて。
その子のためだけに朝五時五十分に起きて、
卵焼きを作りたいと思ったら。
そのときは、ここを出ればいい。
たぶん環生舎という場所の一番好きなところは、
ここで生きることを教えられながら、
ここから出てはいけないとは、
一度も教えられなかったことだった。




