↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
3/10

3話

環生舎に入って三か月。


美緒が最も認識を改めたのは、ここが「みんなで子どもを見る場所」ではなかったことだった。


むしろ逆だった。


素人である大人たちの善意に、子どもの成長を委ねない。


それが環生舎の基本だった。


子ども十人につき、一人の担当管理者がつく。


内部では「担当」とだけ呼ばれている。


保育士、幼稚園教諭、教員、児童心理、看護、教育学。


経歴はさまざまだが、採用基準は高い。


担当者は子どもの世話係ではない。


その子が何を食べたか。


どのくらい眠ったか。


身長、体重。


運動能力。


学習状況。


友人関係。


興味。


苦手なこと。


最近よく話す大人。


感情の変化。


それらを長期的に見ている。


もちろん、子どもは数字ではない。


だからこそ、一人の子どもを長く見る人間が必要なのだと説明された。


ある日、美緒は十歳の女の子、琴音の面談に同席した。


担当者の机には一枚の画面が開かれていた。


国語。


算数。


英語。


中国語。


運動。


音楽。


造形。


生活。


対人関係。


そこに順位はなかった。


代わりに、半年間の変化が記録されている。


「琴音は最近、算数が少し落ちています」


担当者が言った。


琴音が露骨に嫌な顔をした。


「嫌い」


「知ってる」


「じゃあやらなくていい?」


「それは別の話」


「なんで?」


「嫌いなのか、分からないから嫌になったのかを確認したいから」


担当者は画面を切り替えた。


「五月までは普通だった。でも六月から分数で止まってる」


「分数嫌い」


「たぶん分数のほうも琴音を嫌ってる」


琴音が笑った。


「だから仲直りしよう」


環生舎では、得意なものを早く専門化させることを、意外なほど嫌った。


十歳でピアノが上手だからといって、音楽家にするとは決めない。


足が速いからといって、陸上に絞らない。


数学が得意だからといって、ほかの時間を数学に振り替えない。


大学へ進む頃までは、できるだけ広く触れさせる。


本人が嫌いなものはある。


不得意なものもある。


それは構わない。


ただし、


「知らないから選ばなかった」


という状態を、できるだけ作らない。


それが環生舎の教育方針だった。


本館の隣には、三年前に完成した教育棟がある。


美緒は初めて見学したとき、学校だと思った。


一階には温水プールと体育館。


二階にはダンススタジオ、体操室、トレーニング室。


三階には音楽室と十六の個人練習室。


四階には美術室、工作室、書道室。


別棟には図書館と実験室がある。


ピアノ。


ヴァイオリン。


打楽器。


習字。


絵画。


ダンス。


体操。


水泳。


バスケットボール。


サッカー。


テニス。


プログラミング。


科学実験。


料理。


子どもたちは一定期間ごとにそれらを回る。


専門家にならなくていい。


泳げる。


楽譜が読める。


ボールを扱える。


簡単な料理ができる。


絵を描いた経験がある。


楽器に触れたことがある。


人前で話せる。


外国人と話せる。


環生舎が目指しているのは、何か一つだけが突出した子どもではなかった。


十八歳の時点で、


「自分は何を選べるのか」


を知っている人間だった。


その中でも、語学教育だけは少し異常だった。


朝食会場で、


「Pass me the milk, please」


と六歳の子が言う。


隣の子が牛乳を渡す。


そこへフランス人スタッフが来る。


会話がフランス語に変わる。


廊下を歩けば中国語が聞こえる。


夕方になるとスペイン語。


曜日によって言語を固定しているわけではない。


環生舎には、常勤・非常勤を合わせて多くの外国人スタッフが生活に参加している。


英語を「習う」のではない。


英語で怒られる。


英語で遊ぶ。


英語で喧嘩する。


英語で「それ取って」と言う。


フランス語で冗談を言われる。


中国語で料理の名前を覚える。


スペイン語でサッカーをする。


それを十年以上続ける。


高校卒業時には、英語はほぼ全員が日常生活で困らない。


さらに本人の環境と適性によって、中国語、フランス語、スペイン語など複数の言語を実用的に扱う。


五つの言語を話す子も珍しくなかった。


「これ、普通の家庭じゃ無理だね」


見学中、美緒が言ったことがある。


案内役の女性は、


「無理ではないですよ」


と答えた。


「ものすごくお金をかければ」


「それを無理って言うんじゃない?」


「だから百八十六人でやるんです」


その説明が環生舎らしかった。


百八十六人いるから、プールを持てる。


百八十六人いるから、外国人スタッフを何人も雇える。


百八十六人いるから、ピアノ教師を常勤に近い形で確保できる。


百八十六人いるから、体育館を作っても一人あたりの負担は小さくなる。


そして何より。


一人の子どものために、親が車で四十分かけて習い事へ送り、


四十五分待ち、


また四十分かけて帰る。


その時間が存在しない。


「ピアノ行ってくる」


子どもが言う。


「いってらっしゃい」


エレベーターで降りる。


渡り廊下を歩く。


三分。


それだけだった。


美緒は、そこで初めて環生舎の本当の意味を理解した。


ここは育児を楽にする施設ではない。


育児の規模を大きくすることで、


普通なら一部の富裕家庭しか子ども一人に与えられない環境を、


百人単位の子どもに提供する仕組みなのだ。


*


それでも、子どもたちは子どもだった。


十二歳の湊はピアノが大嫌いだった。


「やめたい」


担当者に言った。


「いいよ」


「え?」


「基礎課程は今年で終わりだから」


「もう弾かなくていい?」


「いい」


湊の顔が明るくなる。


「ただし来期、音楽は何か一つ」


「なんでだよ」


「ピアノ、合唱、打楽器、作曲」


「全部嫌」


「じゃあ四つとも体験して決めよう」


「最悪」


「人生長いからね」


湊はぶつぶつ言いながら出ていった。


一方、同じグループの梨花はピアノから離れなかった。


十歳。


自由時間になると練習室へ行く。


誰も命令していない。


一時間。


二時間。


夕食の時間になっても弾いている。


担当者は半年ほど観察したあと、専門スタッフと相談した。


そして十一歳になる春から、梨花だけカリキュラムが少し変わった。


ピアノの時間が増えた。


「専門化させないんじゃなかった?」


美緒が訊いた。


「こちらからは、ね」


担当者が答えた。


「本人が見つけたなら止めません」


その考え方を、美緒は気に入った。


全部やらせる。


全部できるようにする。


だから全部好きになれ、ではない。


嫌いでもいい。


苦手でもいい。


やめてもいい。


ただ、一度は触れる。


そのうえで、自分で選ぶ。


*


環生舎には、もう一つ奇妙な制度があった。


十八歳になると、自分の記録の大部分を本人へ引き渡す。


どんな子どもだったか。


何が好きだったか。


何が嫌いだったか。


五歳で何に夢中になったか。


九歳で何につまずいたか。


十二歳のとき誰と喧嘩したか。


十四歳で何を諦めたか。


担当者が何を心配したか。


何を期待したか。


もちろん、本人にも見せない心理記録や第三者のプライバシーに関わる部分は別に管理される。


だが、自分自身の成長の記録は、原則として本人のものになる。


美緒は、その制度を聞いたとき少し驚いた。


「施設のものじゃないんですか」


教育責任者は首を振った。


「違います」


「でも、環生舎が作った記録でしょう」


「記録したのは私たちです」


彼女は言った。


「でも、記録されている人生は、その子のものです」


*


ある日の夕方。


美緒は教育棟から戻る子どもたちと一緒になった。


水泳帰りの子。


書道の道具を持った子。


バスケットボールを抱えた子。


楽譜を持った子。


英語で話している二人。


その横で中国語を混ぜてふざけている三人。


一人だけ泣いている子もいた。


「どうしたの?」


美緒が訊く。


「バスケ嫌い」


「そう」


「全然入らない」


「私も入らないよ」


「大人なのに?」


「大人だからって何でもできるわけじゃない」


男の子は少し考えた。


「じゃあ、なんでやるの?」


美緒も考えた。


環生舎なら、もっと立派な答えがあるのだろう。


身体能力。


協調性。


空間認識。


集団行動。


選択肢。


けれど美緒は、


「一回くらいやってみないと、嫌いかどうかも分からないからじゃない?」


と答えた。


男の子はボールを見た。


「もう嫌いって分かった」


「じゃあ収穫あったね」


「うん」


少し機嫌が直った。


二人で本館へ戻る。


美緒は最近、この場所で子どもを産みたいと思う理由が少し変わってきていた。


最初は、


五人産めるからだった。


仕事を辞めなくていい。


自分の時間を失わなくていい。


一人ですべてを背負わなくていい。


だからここを選んだ。


でも今は違う。


もし自分が一人で子どもを育てたら、


これほど多くのものを見せてやれるだろうか。


自分が知らない言葉。


自分が弾けない楽器。


自分ができないスポーツ。


自分が理解できない学問。


自分とは違う性格の大人。


自分とは違う国で育った人。


一人の母親が、


一人の人間である以上、


与えられる世界には限界がある。


だったら。


母親一人の世界で育てなくてもいいのかもしれない。


食堂の扉が開いた。


「おかえり」


何人もの声がした。


男の子が先に走っていく。


「ただいま!」


美緒も少し遅れて中に入った。


ここには、


子どものために自分をすべて差し出す母親はいない。


その代わりに、


一人の子どもに、


たくさんの大人と、


たくさんの世界が用意されていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。