第9話 新しいブーツ
口座残高に三百万という数字が刻まれてから、四日が過ぎていた。
だが、十四年間で染みついた貧乏性は簡単には消えない。朝は特売の食パンの耳をかじり、スーパーでは三十円引きの納豆を手に取ってしまう。手取り二十五万で暮らしてきた生活感覚は、通帳の桁が増えた程度では変わらなかった。
そんな俺を現実へ引き戻したのは、スマートフォンの通知音だった。
『本日十四時、提携サプライヤーにて装備選定。氷室選手同席。遅刻厳禁』
エージェントの七尾さんからの、用件だけのメッセージだった。
指定されたのは、迷宮管理公社本部の裏手にある探索者専門の装備店『アークス・サプライ』だった。防護スーツや大盾が並ぶ店内に入ると、すでに氷室灯が待っていた。今日も黒いタートルネックを着て、壁際で真っ直ぐに立っている。
「お待たせしてすみません、氷室さん」
「いえ。三分前です。問題ありません」
奥の商談室へ通されると、深層用の高級防護服が並べられていた。軽く七桁に届く値札がぶら下がっている。
「七尾から聞いています。志賀さんの装備はすべて遠征準備金から支出されます。必要なものを選んでください」
氷室が平然と言う。だが、俺は並べられた高級スーツには目もくれず、壁際の棚へと歩み寄った。
「……これを見せてもらえますか」
俺が指差したのは、黒革とチタン合金で補強された、地下歩行専用ブーツだった。
「お目が高いですね。深層用の高荷重衝撃吸収ブーツです。強酸性の泥水にも耐え、濡れた滑石でも滑りません」
店員から受け取ると、確かな重量感と、足首を固定する頑強なホールド感があった。
値札を見る。十八万四千円。
思わず指先が止まった。一日千円未満で食いつないできた身には、靴一足にこの金額は胃が縮む思いだった。
「……あ、あの、もう少し安いやつでも――」
「経費です」
横から氷室の声が割り込んできた。
「足が壊れたら戻れません。志賀さんの歩行能力は、今回の潜行における絶対の制約条件です。一番頑丈なものにしてください」
「……分かりました。それじゃ、これを」
最強の少女に命の重さを靴の値段で説かれては、言い返す言葉もなかった。
続けて俺は、光学・超音波併用の精密距離測定器、耐水マッピングペーパー、二Bの濃い鉛筆を選んだ。
「古い測定器は処分されますか?」
店員に尋ねられ、俺は十四年間使い続けて傷だらけになった愛用の測距器をそっと撫でた。
「いえ、予備として腰に入れます。深層では何が壊れるか分かりませんから。予備は無駄じゃない、命綱です」
氷室がその言葉を、無言で見つめていた。
◇
「……あの、氷室さん。装備の配送先なんですが」
店を出た後、俺は伝票を見ながら困惑していた。特注調整のブーツと機材は、明日の夕方に氷室の登録住所へ届けられる手はずになっていた。
「私の部屋です。受け取りの時間には在宅しています」
「それなら、事前の重量バランスの調整もしたいので、届いたら伺っていいですか?」
「構いません。案内します」
翌日夕方、訪れたのは駅前のタワーマンションだった。その部屋は最上階近くにあった。
だが、ドアを開けて招き入れられた瞬間、俺は息を呑んだ。
「……氷室さん、引っ越したばかりですか?」
「三年目です」
リビングにはソファもテレビもない。机の代わりに段ボールがあるだけだ。床には未開封の封筒が重なり、隅に鉄アレイと刀がある。
「喉、渇きましたか」
氷室が開けた冷蔵庫の中を見て、俺は思わず頭痛を覚えた。
棚にはゼリー飲料と水だけが敷き詰められていた。肉も魚も野菜の切れ端すら存在しない。
「……氷室さん。普段の食事って、まさかこれだけですか?」
「はい。吸えば五秒で終わります。咀嚼と調理に時間を割く意味が分かりません」
真顔で言ってのける二十四歳の現役最強に、俺は溜息を吐いた。寝室を覗けば、狭い納戸に薄いウレタンマットが敷かれているだけだった。
「……スーパーへ行きますよ」
「なぜですか。外食なら下に蕎麦屋がありますが」
「駄目です。これから深層へ潜る人間が、ゼリーだけで身体を作れるわけがないでしょう。ちゃんと噛んで温かいものを腹に入れなきゃ、迷宮の冷気に耐えられません」
半ば強引に氷室を連れ出し、スーパーで豚肉、大根、ごぼう、長ネギ、豆腐、生姜、味噌、それに米を買い込んだ。
部屋に戻り、埃をかぶっていた鍋を洗って火にかける。
豚肉を炒め、根菜を出汁で煮込み、味噌と生姜を加える。殺風景な部屋に、出汁と肉の香ばしい匂いが満ちていった。
段ボールの机に、炊きたての白飯と具だくさんの豚汁を並べる。
「どうぞ。熱いうちに食べてください」
氷室は箸をぎこちなく持ち、椀を口元に運んだ。一口すすった瞬間、その瞳が見開かれた。
「……温かいです」
「豚汁ですからね。しっかり噛んで食べてください」
それきり、氷室は無言になった。
驚くべき速度で椀を空にし、飯をおかわりした。無表情のまま、ひたすら咀嚼を繰り返している。その姿は、最強の探索者というより、ただの腹を空かせた娘だった。
「……志賀さん」
三杯目を飲み干した氷室が、箸を置いて呟いた。
「志賀さんの指示に従っていればいい時間は、とても静かです。……頭の中が、騒がしくなりません」
その言葉の意味を、俺は測りかねた。だが、三ヶ月ぶりに誰かと向かい合って温かい飯を食う時間は、冷え切っていた俺の胸を解きほぐしてくれた。
◇
潜行予定日の三日前。俺たちはエージェント事務所『プロスペクト』の会議室に呼び出されていた。
七尾佳奈は、端末を操作しながら事務的な笑みを浮かべた。
「初潜行の日程ですが、三日後の早朝に確定いたしました。第七迷宮の大穴ゲートよりエントリーとなります」
「分かりました。体調は整えてあります」
頷くと、七尾は企画書を提示してきた。
「これに伴い、広報展開を計画しております。第九層の中継境界まで公社認定の撮影ドローンを同行させ、帰還時にはゲート前で記者会見を実施します。『元マッパーと天才少女のタッグ』――スポンサー各社からも高い関心を集めています」
流れるような説明に、俺は喉の奥が引っかかるのを覚えた。
「……七尾さん。同行取材は断ってください」
七尾の手が止まり、眼鏡の奥の目が俺を射抜いた。
「理由をお聞かせいただけますか。これは氷室選手の価値を高め、志賀さんご自身の報酬にも跳ね返る施策ですが」
「人を一人連れていけば、その人分の帰り道を背負うことになります」
俺は静かに言った。
「撮影班の足取りに気を取られれば、変形圧の兆候を聞き逃します。深層の手前で余計な退路の幅を割く余裕はありません。俺の仕事は、氷室さんを生きて帰すことです。見世物を作ることじゃありません」
七尾は小さく息を吐き、机の上に一枚の書類を滑らせてきた。
「志賀さん。契約の際、法的な障壁はクリアされたと申し上げましたが……それはあくまで『今回の潜行に対する事前審査』が通ったという意味です」
「……え?」
書類には、公社の朱印とともに冷酷な文面が並んでいた。
『特例臨時帯同許可証(単発・事後審査対象)』
「この認可は今回の一度きりです。潜行終了後、公社区画測量課による厳格な事後審査が行われます。志賀さんが危険を生じさせなかったか、無資格者の侵入に当たらないかが厳しく査問されます」
七尾の声には、冷徹な現実が宿っていた。
「要するに、公社もスポンサーも、あなたを本物の深層ナビゲーターだとは思っていません。氷室選手の再挑戦に箔をつけるための一時的な同行者――それが外部の共通認識です。明確な成果や記録を持ち帰れなければ、事後審査で認可は剥奪され、次はありません。私たちの投資も回収不能になります」
突きつけられた現実に、背筋が冷たくなった。契約書の金額の裏には、薄氷のような条件があった。
「……分かりました」
俺は書類を押し戻した。
「取材クルーは同行させません。その代わり、装備に公社認定の記録装置を積み、全行程の歩行ログと空間観測データを持ち帰ります。帰還後、その記録アーカイブを公開しましょう」
「公開範囲は?」
「持ち帰った後、俺が判断します。深層の空間錯乱を外部に晒す以上、危険な座標や未確定の経路をそのまま垂れ流すわけにはいきませんから」
七尾はしばし俺を見つめ、やがて頷いた。
「承知いたしました。ただし、必ず公社が納得する記録を持ち帰ってください。手ぶらで帰れば、次はありません」
◇
潜行前夜。アパートで俺は、机の上に新しいブーツを置き、配信アプリを立ち上げた。
潜行前の機材チェックを兼ねた、深夜の準備配信だった。以前なら十二人だった画面が、開始から数分で四百人へと跳ね上がっていく。
『予言のおっさん来た!』
『氷室灯と契約したってマジ?』
『机の上のブーツ、アークスの深層用特注品じゃねえか!?』
コメントの滝の中に、見覚えのある名前が流れてきた。
『十和田結:志賀さん! 配信やってくれたんですね! 新しい靴、すごく頑丈そうでかっこいいです!』
先日の新人の顔が思い浮かび、俺は画面に向かって苦笑した。
「こんばんは、皆さん。少し仕事の準備でバタバタしていましてね。明日からちょっと、遠出をしてきます」
『遠出ってどこよ?』
『十和田結:志賀さん、潜るんですか……!? どうか気をつけてくださいね!』
「ええ。ただの散歩ですよ。ちょっと、道を確かめに行ってきます」
俺は新しいブーツの靴紐を固く結び直した。
明日、俺は未知の深層へと足を踏み入れる。話題性のためでも、見世物のためでもない。
必ず、生きて帰ってくるために。




