第10話 圏外
午前五時三十分。夜明け前の底冷えする冷気が肌を刺す中、俺たちは第七迷宮の中央進入口、通称『大穴ゲート』の前に立っていた。
直径百メートルを超える巨大な竪穴の縁には、公社の重厚な鉄骨造りの検問所が聳え立っている。周囲には早朝から潜行を開始するクランの遠征部隊やベテラン探索者たちが集まり、物々しい熱気と緊張感を漂わせていた。
「おい、見ろよ……氷室灯だ」
「単独最深の『灯』が、なんでこんな時間に?」
「待て、隣の男は誰だ? アルゴノートの元マッパー……志賀じゃないか?」
「浅層限定の登録証ぶら下げた中年が、何であんなところにいるんだよ」
すれ違う探索者たちから、露骨な嘲笑と詮索の視線が突き刺さる。中にはアルゴノートの紋章を腕に付けた遠征隊員もおり、俺の姿を認めるや小馬鹿にしたような視線を投げかけてきた。
だが、俺は気にも留めず、首に提げたIDカードに指を添えながら検問ゲートの窓口へ進み出た。十四年間、組織の下請けとして現場を歩いてきた男だ。この程度の好奇の視線で足がすくむような真似はしない。
「おはようございます。氷室選手の認可枠における、特例臨時帯同の申請です」
窓口の公社職員が書類と端末の照合を始めた。職員の眉間に、分かりやすい不審の色が浮かぶ。
「志賀道久さんですね。登録区分は浅層限定……ですが、この臨時帯同許可証により、目的層である第十層までの経路通行権が付与されています。中層の通過も包含されていますね」
職員の視線が、疑わしげに俺の全身を舐めるように動いた。身につけているのは新品のブーツと、年季の入った作業用ベスト。およそ深層を目指す者の出で立ちには見えないだろう。
「……許可自体は下りていますが、今回の潜行一回限りの暫定措置です。帰還後、直ちに区画測量課での事後審査を受けていただきます。万が一にも無謀な行動で救助要請を出した場合、探索者資格そのものの剥奪もあり得ますのでご注意ください」
「承知しております。ご迷惑はおかけしません」
電子音とともに頑丈なゲートが開放された。
竪穴の縁から見下ろすと、螺旋状に削られた外周路の遥か底に、第一層への入口が黒ぐろと口を開けている。俺は背嚢の胸部ベルトを締め直し、スマートフォンの配信アプリを起動した。手持ちの小型スタビライザーに固定し、胸元のホルダーへ装着する。
「氷室さん、配信を始めますね。第九層の中継境界までは公社の回線が生きていますから、前回の約束通り道中の様子をお届けします」
「はい。お任せします」
早朝の六時前だというのに、配信開始と同時に接続者数が跳ね上がった。三百、六百、千二百――あっという間に二千人を超えていく。
『うおおお! 朝から通知来てビビった!』
『マジで大穴ゲート前だ!』
『本当に氷室灯と潜るのかよ!』
『アルゴノート首になったおっさんが深層同行とか胸熱すぎる』
「皆さん、おはようございます。これから第七迷宮へ入ります。第九層を抜けるまでは道中の様子をお届けしますね」
画面に向かって短く会釈した俺は、隣に立つ氷室へ向き直った。
「氷室さん。第一層から第四層までの浅層区間は、戦闘をすべて避けます。絶対に抜刀しないでください」
「避ける、ですか?」
氷室が首を傾げた。その表情には疑問というより純粋な確認の色があった。
「浅層の魔物なら、足を止めずに一秒で両断できますが」
「その一秒が惜しいんです。足を止めて剣を振れば筋肉が緊張し、呼吸のリズムが乱れます。浅層で削っていいのは時間だけです。体力と神経は、すべて深層の帰りのために温存してください」
氷室は瞬きをし、それから「了解しました」と頷いた。
第一層へと足を踏み入れる。
前方では他クランの新米パーティが、低級のゴブリンや大蝙蝠に囲まれて怒号を上げていた。だが俺は広い本道を避け、崩落した壁の隙間にある狭い側道へと足を進めた。
湿度の高い風が吹き抜ける通路だ。壁の苔の生え方、石材の継ぎ目に溜まる水滴、足元を流れる魔素の気流――十四年間で身体に刻み込まれた情報を頼りに、魔物の縄張りの境界線だけを縫うように歩く。
一度も足を止めず、一度も剣を抜かず、ただ早足で歩き続ける。
『おいおい、もう第二層の階段下りたぞ』
『魔物と一回も遭遇してねえんだけど!?』
『何が起きてるのか分からんが異様に早いww』
『十和田結:志賀さん、おはようございます!側道の空気穴ルート使ってるんですね!すごい……!』
コメント欄の熱狂を横目に、俺たちは第四層の出口へと到達した。所要時間はわずか四十八分。通常なら二時間を要する浅層区間を、誰とも擦れ合わずに駆け抜けていた。
◇
だが、第五層――中層に入った瞬間、迷宮の空気が一変した。
天井は巨大な洞窟のように広がり、濡れた岩肌が鈍い鉛色に光っている。漂う魔素の濃度は浅層の数倍に跳ね上がり、呼吸をするだけで肺に微かな重みを感じた。
ギャアアッ!
曲がり角の先から、体長二メートルを超える岩殻蜥蜴が三体、太い鉤爪を鳴らして突進してきた。中層特有の好戦的な魔物だ。通路幅は狭く、ここは迂回できる構造になっていない。
「氷室さん、正面から二体、左の岩陰から一体。足場は湿った粘土質です」
「問題ありません」
氷室の姿がブレた、と思った瞬間、空間に銀の閃光が走った。
乾いた破断音。血飛沫すら上がらない。三体の魔物は、すれ違いざまに首を断ち切られ、石畳の上に崩れ落ちて粒子へと還っていった。
その間、わずか二秒。
息を呑むような絶技だった。だが、俺は驚嘆する代わりに、左手首のストップウォッチのボタンを押した。
「……撃破まで二・三秒。呼吸の乱れなし。前進を再開しましょう」
「志賀さん。驚かないのですか」
「凄いとは思いますが、見惚れている時間はありませんから。……それより、すみません」
第七層の長い坂道を越えたところで、俺の足が急激に重くなった。
腰の奥がズキズキと痛み、太ももの筋肉が悲鳴を上げている。背嚢の重量は二十五キロ。酸素ボンベ二本、非常用水四リットル、予備の測量機材が容赦なく肩に食い込んでいた。
「……五分、座らせてください」
俺は壁に背を預け、滑り落ちるように岩の上に腰を下ろした。
「計画では、第八層まで無休憩の予定でした。俺の体力の見積もりが甘かったです。中層を抜ける時間を三十分遅らせます」
「隠さずに言ってくださって助かります」
氷室は立ったまま、周囲の死角を警戒しながら言った。
「深層遠征で一番危険なのは、限界を隠して予定通り動こうとすることです。歩ける距離ではなく、帰れる距離で計算してください。前回の私の撤退も……自分の歩行速度を過信したのが発端でしたから」
人類最強と呼ばれる少女が、ふと漏らした自戒の言葉だった。
「分かりました。俺の歩行速度と心拍数も、これからは地図のデータに織り込みます」
自分の体力不足を恥じる必要はない。それもまた、この遠征の確固たる物理的制約なのだ。俺は息を整えながら、水筒の水を一口だけ喉に流し込んだ。
◇
第九層の最奥。幅五十メートルの円形大広間の向こうに、底知れぬ暗黒を湛えた巨大な裂け目が口を開けていた。
第十層への降下口――深層の門だった。
その手前に、公社の黄色い警戒バリケードと、銀色に光る最後の中継アンテナ塔が立っていた。
「ここが、中継境界ですね」
俺が胸元のスマートフォンを取り外すと、画面の接続マークが激しく明滅していた。三本立っていたアンテナピクトが瞬く間に消え去り、やがて無情な『圏外』の二文字へと切り替わる。
『あ、画面が乱れて――』
『おい、もう切れるのか!?』
『十和田結:志賀さん、ここから先は……どうか、無事で!』
『帰りを待ってるぞ!』
「視聴者の皆さん、公社の通信が届くのはここまでです。これより先は配信を切断します。……行ってきます」
画面をタップし、通信を終了した。
千人以上が見守っていたコメントの奔流が消え去り、周囲には迷宮の深部から微かに響く地鳴りのような唸り声だけが残された。
俺は手元の測量用タブレット端末を開いた。公社からダウンロードしてきた公式の迷宮構造マップを表示させる。
第九層までの緻密な三次元グリッドの先に目を向けた瞬間、俺の指先が止まった。
第十層の枠内には、何の等高線も、通路のラインも描かれていなかった。ただ一面の、無機質な灰色のグリッド――完全な『空白』が広がっていた。
「……データが、何もない」
「はい。公社の自動観測ドローンも、ここから先は十機中十機が戻りませんでした」
氷室が静かに告げる。
「第十層以深は、空間そのものが狂っています。距離も方位も信用できません。……本当に、降りられますか」
見守る視聴者も、公社の救助隊も、頼るべき地図もここにはない。あるのは、足元の新しいブーツと、背嚢の重みと、隣に立つ少女の命だけだ。
「ええ。この空白を埋めるのが、俺たちの仕事ですから」
俺はタブレットをしまい、腰の測距器を握りしめた。
誰も見ていない場所で、本当の仕事が始まる。




