第11話 距離が嘘をつく
垂直に切り立った黒い岩肌を、ワイヤーと金具を伝って慎重に下りていく。
足裏が冷たい石畳を捉えた瞬間、全身の毛穴が収縮するような悪寒が走った。第九層までの生温かい湿気とは完全に異なる、氷点下に近い乾いた冷気。空気に混じる魔素の気配はあまりにも濃密で、吐き出す息が青白く煙り、肌の表面をチリチリと刺してくる。
第七迷宮第十層――人類の未踏領域へと続く、深層の最前線だった。
「到着しました。ここが第十層の第一基点です」
先行して着地していた氷室が、背後の刀に手を添えたまま周囲を睨み据えていた。
見渡す限り、そこは巨大な古代神殿の回廊のような奇怪な空間だった。幾何学模様に削り出された黒曜石の角柱が無数に林立し、天井は見えないほど高い。空気の流れが遮断された完全な静寂が世界を支配しており、自分たちの心臓の鼓動と荒い呼吸音だけが、耳障りなほど鮮明に反響していた。
「……始めましょう」
俺は背嚢を下ろし、測量道具を取り出した。
まずは降下してきたワイヤーの直下に、チタン製の測量鋲をハンマーで打ち込む。そこを原点『基点P0』と定め、防水マッピングペーパーをクリップボードに挟んだ。二Bの鉛筆を指に挟み、光学測距器のファインダーを覗き込む。
「氷室さん、あの角柱の基部まで歩いてください。十歩ごとに立ち止まって合図を」
「了解しました」
氷室が音もなく歩き出す。
俺は歩測と光学距離計の数値を照合しながら、方眼紙の上に手際よく線を引いていった。
壁面の石材の継ぎ目、岩肌を伝う微小な段差、そして床面の排水溝の傾斜角度。十四年間、何十万枚と描いてきた地図の作法だ。どんなに広大な階層であっても、起点から伸びる測量線を正確に繋いでいけば、空間の骨格はおのずと立ち上がってくる。
アルゴノートで不要だと切り捨てられた職人技だが、俺にはこれしか信じられるものがない。手先の感覚を研ぎ澄まし、一歩一歩の座標を紙の上に定着させていく。
一時間が経過した。
角柱の間を縫うようにして、約四百メートルの主通路のスケッチが方眼紙の上に綺麗に描き出されていた。
「順調ですね。この調子なら、第十一層への降下口の方向を二時間以内に特定できるかもしれません」
俺が少しだけ安堵の息を漏らすと、氷室もわずかに肩の力を抜いたように見えた。
「志賀さんの測量があれば、迷わずに進めそうです。……やはり、お願いして正解でした」
最強の探索者から向けられた素直な賛辞に、俺は柄にもなく少し誇らしい気持ちになっていた。浅層で培った職人技は、深層の静寂の中でも確かに機能している――そう信じかけていた。
◇
異変に気づいたのは、最初の三叉路を過ぎた直後だった。
「……あれ?」
俺は光学測距器の数値を二度見した。
直線の通路の突き当たりにある壁までの距離を測定する。液晶画面に表示された数字は『七十二・四メートル』だった。
だが、五歩前進してから再びレーザーを照射すると、画面には『八十五・一メートル』と表示された。
「……前へ進んだのに、距離が伸びている?」
機械の誤作動を疑い、俺は腰のポーチから十四年使い古した旧式の超音波測距器を取り出した。アナログなダイヤルを回し、音波の反射時間を計測する。
だが、針が指し示した数値は『四十一・八メートル』だった。
光学式と超音波式で、倍以上の開きが出ている。どちらかが故障したのではない。空間そのものがゴムのように伸び縮みしているのだ。
「どうしましたか、志賀さん」
立ち止まった俺の様子に、氷室が鋭く視線を戻してきた。
「いや……計測器の数値が合わない。機械が狂ったのかもしれません。一度、さっきの三叉路まで戻りましょう。原点の測量鋲を確認します」
「分かりました」
俺たちは踵を返し、来た道をまっすぐ引き返した。
距離にしてわずか五十メートルほど。迷うはずのない一本道だった。角柱の側面に、俺が鉛筆で引いた進行方向を示す白チョークの矢印が残っているはずだった。
だが――。
「……嘘だろ」
俺の足が凍りついた。
目の前に広がっていたのは、三叉路などではなかった。そこにあったのは、無残に塞がれた冷たい黒曜石の断崖――完全な行き止まりだった。
「志賀さん、これは」
「白チョークの印がない……! いや、それだけじゃない。さっき通ったはずの通路そのものが、どこにも繋がっていないんだ」
俺は方位磁針を取り出した。
真鍮のケースの中で、文字盤の針が狂ったように回転していた。一定の方向を指すどころか、北が南になり、東が西へと激しく揺れ動いている。
空間錯乱。
教科書でしか読んだことのなかった深層の異常現象が、今まさに俺たちの足元で牙を剥いていた。
距離計が嘘をつき、方位計が狂い、歩いたはずの空間が後ろから書き換わっていく。深層の組み替えは数日単位などではない。数時間、下手をすれば数十分単位で、音もなく周囲の空間を再編していたのだ。
クリップボードの方眼紙を見る。
さっきまで完璧に思えた四百メートルの地図が、今やただの紙屑に見えた。原点への戻り道が消え去った地図など、何の役にも立たない。
「……道が、消えた」
俺の唇から、震える声が漏れた。
◇
冷たい岩壁に囲まれた、正体不明の袋小路。
俺たちの周囲を、重苦しい沈黙が押し包んでいた。
手元の酸素残量計を見る。計画ではこの時点で八十パーセントを残しているはずが、彷徨った時間と過呼吸のせいで、すでに六十五パーセントまで目減りしていた。水の残量も二・八リットル。計画値から大きく乖離している。
「敵の気配はありません」
氷室が静かに告げた。彼女の手は刀の柄にかかっている。だが、その刀が切り裂くべき敵は、どこにも存在しなかった。
「……敵がいないのが、一番恐ろしいんですよ」
俺は壁に手をつき、荒い息を吐いた。
「魔物なら、氷室さんが斬って倒せます。ですが……狂った空間や、消えてしまった帰り道は、どんな剣豪でも斬ることはできません」
氷室の肩が、微かに強張った。
彼女はかつて深層で二度撤退したと言っていた。その理由が、今なら痛いほど理解できた。圧倒的な武力を持つ人類最強ですら、この空間錯乱の前には赤子同然に無力だったのだ。
「志賀さん。どうしますか。前方の壁を私が破壊して、無理やり道を開くことも可能ですが」
「駄目です。壁の向こうが奈落か岩盤かも分からない状態で崩せば、空間の歪みがさらに加速して、戻る手がかりを完全に失います」
俺はクリップボードを強く握りしめた。
胸の中で、激しい恐怖と自己嫌悪が渦巻いていた。
浅層で少しばかり壁の音を当てたからといって、調子に乗っていたのだ。人類最強に頼られ、大金を積まれ、自分なら深層でも通用するのではないかと錯覚していた。
だが、現実はこれだ。
第十層に降りてからわずか二時間で、俺は道を見失い、依頼人である少女を深層の行き止まりに閉じ込めてしまった。
――間違った地図を持って歩く人間は、必ず死ぬ。
かつてアルゴノートで叩き込まれた、マッパーの鉄則が脳裏をよぎった。
誤魔化すな。プライドを守るために嘘をつくな。自分が無能であることを認める恐怖よりも、間違った道へ人を導く罪の方が遥かに重い。
「……氷室さん」
俺はクリップボードを床に置き、その場に両膝をついて深く頭を下げた。
「すみません。俺の描いた地図は、全部使い物になりません。俺たちは今……完全に迷子になりました」
情けなくて、声が震えた。
罵倒されても仕方がなかった。契約金泥棒となじられ、見捨てられても文句は言えない。
だが、氷室灯は怒ることも、慌てることもなかった。
彼女はゆっくりと歩み寄り、俺の前に静かにしゃがみ込んだ。
「……私の二度の撤退の時も、最初はこの状態でした」
氷室の声は、どこまでも澄んでいて静かだった。
「誰もがパニックになり、我を失って走り回り、最後に魔物に囲まれて力尽きました。……ですが、志賀さんは走っていません。足を止めて、間違えたと教えてくれました」
彼女の黒い瞳が、真っ直ぐに俺を射抜いていた。
「私は指示を待ちます。志賀さんが諦めない限り、私はこの刀で、あなたを傷一つ負わせずに守り続けます」
人類最強の全幅の信頼が、痛いほど重く胸に突き刺さった。
情けない中年が、逃げ出せる場所など最初からどこにもなかったのだ。
「……ええ。諦めません」
俺は膝を払い、立ち上がった。
その時だった。
――ミシッ……。
行き止まりの壁の奥深くから、氷が軋むような、微小破壊音が鼓膜を震わせた。
俺は思わず耳を澄ませた。ただの落石の音ではない。何かが歪み、耐えかねて形を変えようとしている、構造体の悲鳴だった。




