第8話 契約
三日後。公社による臨時帯同認可の事前審査が無事に通過し、俺は再びエージェント事務所『プロスペクト』の応接室にいた。
革張りのテーブルの上には、丁寧に製本された三部の契約書が並べられていた。箔押しの表紙をめくると、そこには『専属探索支援並びにナビゲーション業務委託契約書』の重々しい文字が並んでいる。
七尾佳奈が万年筆のキャップを外し、静かに差し出してきた。
「公社からの認可通知書も同封しております。志賀さんは本日から、氷室灯の単独認可枠における専属観測員として、第十層以深への合法的な同行権限が付与されます。法的な障壁はすべてクリアされました」
文字通り、すべてが完璧に整っていた。
だが、俺は万年筆を受け取らず、テーブルの向かいに座る氷室灯を見つめた。氷室は今日も黒いタートルネックを着て、姿勢を正して俺を見返してくる。
「氷室さん。署名する前に、一つだけ契約書に追加してほしい文言があります」
「何でしょうか」
氷室が瞬きをせずに問い返してくる。俺は背筋を伸ばし、喉の奥から言葉を絞り出した。
「『第十層以深の深層領域において、甲(志賀)は迷宮構造の予測精度を保証しない』――この一文を、免責条項として明記してください」
七尾がわずかに眼鏡の縁を押し上げ、眉を動かした。
「志賀さん。それはご自身の職能の範囲を、契約上狭めることになりますが」
「狭めていいんです」
俺は迷わず首を横に振った。
「俺は浅層の壁の軋みは読めます。ですが、深層は未踏の領域です。どれほど集中しても、未知の組み替えや空間錯乱のすべてを見通せる保証はありません。もし俺の言葉を絶対の神託だと思われて判断を誤れば、死ぬのは氷室さんです。俺は退路のない嘘をつきたくない。自分が責任を持てる限界を正確に定めておくことが、ナビゲーターとしての俺の最低限の誠実さです」
過大な期待を背負って現場に出れば、迷いが生まれる。退路を確保し、限界を共有してこそ、初めて命を預かり合える。それが十四年間、迷宮を生き抜いてきた俺の流儀だった。
氷室は静かに俺の目を見つめ、それから小さく頷いた。
「分かりました。それで構いません」
「氷室、本当によろしいのですか」
七尾の確認に、氷室は一切の淀みなく返した。
「私が求めているのは、全能の予言者ではありません。迷宮の変形圧を感知し、退路の選択肢を提示してくれる技術者です。自分の限界を理解しているナビゲーターのほうが、過信する者より遥かに信頼できます」
「……かしこまりました。では特約条項第十二条として『深層における空間歪曲の不確定性に鑑み、予測精度の完全な保証は負わないものとする』と追記いたします」
七尾が手早く修正条項を差し挟み、捺印用の朱肉が差し出された。
俺は震える手で万年筆を握り、自署欄に『志賀道久』と署名した。氷室灯もまた、淀みのない美しい筆致でその隣に署名する。
割印が押され、契約が正式に成立した瞬間だった。
ピロン、と俺の安物のスマートフォンが短く震えた。画面を見ると、公社の決済口座から通知が届いていた。
『プロスペクト合同会社より、前払金として3,000,000円のお振込みがありました』
残高の数字が、一瞬で見たこともない桁へと跳ね上がっていた。
「前払金の送金が完了いたしました」
七尾が優雅に立ち上がり、一礼した。
「月額固定報酬百五十万円は、毎月末日のお振込みとなります。また、深層用機材の調達や特注品の防護服につきましては、弊社の提携サプライヤーをご案内いたします。何かあればいつでも私にご連絡ください」
「あ、ありがとうございます……」
三百万。無職になってから、百円ショップの納豆と半額の惣菜コロッケで食いつないできた身だ。その金額の重みに、膝が微かに震えた。
「志賀さん」
氷室が立ち上がり、すっと右手を差し出してきた。
「よろしくお願いします」
「……こちらこそ、よろしくお願いします」
握手を交わした氷室の手は、鍛え抜かれた探索者らしく細く引き締まっていたが、肌は驚くほど滑らかで、少女らしい柔らかさを残していた。
◇
事務所を出てエレベーターを降りると、ビルのエントランスホールの柱の陰から、小柄な人影が慌てて駆け寄ってきた。
「志賀さん……!」
息を切らしながら現れたのは、茶髪のショートボブに大きなリュックを背負った少女――十和田結だった。
「十和田さん? どうしてここに」
「配信のコメント欄で、志賀さんが公社系の事務所に来るかもって噂を聞いて……ずっと待ってたんです!」
十和田は両手で大切そうに抱えていた紙袋を差し出してきた。駅前の有名洋菓子店のロゴが入っている。
「これ、実家から送ってきた焼き菓子なんです! あの時は本当にありがとうございました! 志賀さんのナビがなかったら、私、今頃第五層で冷たくなってました……!」
深々と頭を下げる彼女の姿に、エントランスを通るサラリーマンたちが何事かと視線を向けてくる。
「頭を上げてください、十和田さん。無事で本当によかった。あれはあなたが諦めずに走ったからですよ」
「ううん、志賀さんのおかげです! それで……あの……」
十和田は顔を上げ、すがるような瞳で俺を見つめた。その表情の奥に、何か言い出せない重いものが滲んでいるように見えた。
「志賀さん……私を、弟子にしてください!」
「……え?」
「私、もっと迷宮のことを知りたいんです! 壁の音を聞く方法も、安全な道の選び方も……志賀さんみたいに、誰も死なせないマッパーになりたいんです! お願いします!」
必死な懇願だった。だが、彼女の瞳がわずかに揺れ、どこか救いを求めるような痛々しさを帯びていた。同期の探索者を置いて先に走ってしまったという、あの日の中層での記憶が、今も彼女の胸を苛んでいるのだろうか。
「十和田さん。気持ちは本当にありがたいけど……俺は人に教えられるような大層な人間じゃないよ。それに今日、新しい仕事が決まったばかりで、まだ自分の足元もおぼつかないんだ」
「新しい、仕事……?」
「うん。だから、弟子っていうのは今は受けられない。……でも、配信はたまにやるつもりだから、質問があればいつでもコメントしてくれていいよ」
「……はい! 諦めませんから! 私、ずっと志賀さんの配信を見ます!」
十和田は焼き菓子の袋を俺の手へ押し付けると、涙目を拭いながら、力強く頭を下げて走り去っていった。
手渡された紙袋の温もりを感じながら、俺は苦笑した。
クランを追い出されたはずの三十九歳が、気づけば最強の探索者に雇われ、若い新人に頭を下げられている。人生の転がり方は、本当に誰にも分からない。
俺は駅前のスーパーに寄り、いつもなら手を出さない定価の刺身のパックと、少しだけ高い缶ビールを一本買った。
今夜だけは、小さく乾杯しても罰は当たらないはずだった。
部屋に戻り、買ってきた刺身のパックを皿に移してから、俺は七尾に渡された提携サプライヤーのカタログを開いた。付箋を貼ったのは、最新のレーザー式ではなく、十四年使い続けた測距器と同じ超音波式の新型だ。三万八千円。安い買い物ではないが、注文の確定ボタンは、意外なほどあっさり押せた。深層で使う道具を、自分の金で選べる。それだけのことが、じわりと効いた。
缶ビールを開け、ついでに配信を十分だけ立ち上げてみると、待っていたようにコメントが流れ込んできた。
:おっさん生きてた!
:仕事決まったって噂マジ?
:ゆい:焼き菓子、ちゃんと食べてくださいね!
:詳しいことは言えないやつか。おめでとうおっさん
「詳細はまだ言えないんですけどね。……どうにか、飯が食えそうです」
三ヶ月前、この部屋で納豆をかき混ぜていた頃、コメント欄は三日に一度しか動かなかった。いまは名前も知らない何百人かが、勝手に祝ってくれている。
「じゃあ、いただきます」
缶の縁が誰のグラスにも当たらないまま、それでも小さく、いい音を立てた。
◇
大手探索クラン『アルゴノート』の役員会議室。
上座に座る団長の鷺沼恭平は、手元のタブレットを満足げに眺めていた。
「AIナビ『オルタマップ』導入から三ヶ月、浅層から中層における隊の事故率は三〇パーセント削減された。マッパー部門を全廃しDXを断行した私の判断は完全に正しかったと証明されたわけだ」
幹部たちから賛同の笑みが漏れる。
その時、情報管理担当の幹部がおずおずと口を開いた。
「団長。第七迷宮で起きた中規模組み替えの救助配信ですが……あの元マッパーは、三ヶ月前に解雇した志賀道久のようです。ネット上で批判的な声も一部に――」
「馬鹿馬鹿しい」
鷺沼は冷笑して一蹴した。
「志賀くんのことは覚えているよ。十四年間、言われた通りの地図をただ描くだけの、何の進歩もない男だった。今回の件も、現場の気流と運が重なっただけの偶然にすぎない。素人がたまたま壁の崩落を当てて、迷子の新人を拾っただけだ。運のいい配信者をいちいち相手にするな」
鷺沼は資料を放り出し、冷たく言い捨てた。
「我がクランに旧時代の遺物の居場所はない。……次の議題に移ろう」
会議室の隅で、副団長の榊久史が拳を握りしめ、重い沈黙を守っていた。
鷺沼はまだ知らない。切り捨てたはずの男が、人類最強の少女と契約を結び、自らの遥か先へ歩み始めていることを。




