第7話 安いです
第七迷宮の浅層で氷室灯と歩いたあの夜から、二日が過ぎた。
指定された場所は、都心のオフィス街にそびえ立つ複合ビルの八階だった。迷宮管理公社と提携し、上位探索者の契約実務や税務、スポンサー交渉を一手に引き受けるエージェント事務所『プロスペクト』。
ガラス張りのエントランスに足を踏み入れた瞬間、俺は自分の身なりを激しく後悔していた。
タンスの奥から引っ張り出してきたヨレたスーツを着てはいたが、行き交う社員たちの洗練されたビジネスウェアと比べると、どう見ても場違いな中年男だった。
「志賀道久様ですね。お待ちしておりました」
受付の女性に案内され、通されたのは防音壁で囲まれた応接室だった。革張りのソファに腰を下ろし、出された冷たい麦茶に口をつける余裕もなく、俺は膝の上で両手を握りしめていた。
数分後、ドアが静かに開き、二人の女性が入ってきた。
一人は、おなじみの黒いタートルネックを着た氷室灯。
そしてもう一人は、濃紺のパンツスーツを隙なく着こなした、三十代半ばほどの知的な女性だった。フレームの細い眼鏡の奥に、理知的な光を宿した瞳。
「初めまして、志賀さん。氷室灯の専属エージェントを務めております、七尾佳奈と申します」
「あ、初めまして……志賀です。よろしくお願いします」
名刺を差し出され、俺は慌てて立ち上がって両手で受け取った。
七尾は氷室を促してソファに座らせると、自らも俺の正面に腰を下ろし、手元の革製バインダーを開いた。
「氷室から話は伺っております。先日の第七迷宮浅層における試行探索のデータログも、すでに確認いたしました。公社の定点カメラ記録と突き合わせましたが、素晴らしい移動効率ですね。通常の三分の一以下の時間で第四層を完全走破されたとか」
「あ、いえ……あれは昔から歩き慣れていたコースだっただけでして」
「謙遜なさる必要はありません。数字は客観的な事実ですから」
七尾は穏やかな、だが極めて事務的な口調で言った。相手を値踏みするような下品さはなく、プロのビジネスパーソンとしての公正さが言葉の端々から伝わってくる。
「さて、本日は氷室灯との専属ナビゲーター契約に関する事前協議となります。まず、志賀さんが懸念されていた法的な資格要件について整理させていただきます」
七尾はバインダーから一枚の資料を取り出し、テーブルの上に滑らせた。
「志賀さんが現在保持されているのは、第七迷宮の浅層限定個人探索者登録、ならびに公認配信者ライセンスの二点。一方、氷室が主戦場とする第十層以深への立ち入りには、通常、公社認定クランへの所属、もしくは高度帯同資格が必要となります。この点について、志賀さんは無資格であるとご認識でしたね」
「はい。その通りです」
「結論から申し上げますと、実務上の問題はありません」
七尾はペンを走らせながら淡々と説明した。
「公社規則第三十四条第四項『単独深層探索認可者の臨時帯同枠』を適用します。氷室灯は単独最深記録保持者として、年間最大九十日間の臨時帯同者を指定する特例権限を保持しています。この枠を利用して公社へ申請書を提出すれば、志賀さんは『氷室隊の専属観測員』として、第十層以深へ合法的に帯同することが可能です」
「……そんな制度があるんですか」
「ええ。さらに、将来的に公社公認の救助指揮資格を受験される際にも、今回の帯同実績は十分な実務経験としてカウントされます。制度の隙間を突くような脱法行為ではなく、公社が公式に定めた正当な運用ルートです。法的なリスクについて、志賀さんがご心配される必要は一切ございません」
胸のつかえが、ひとつ下りた。
公社のルールを遵守し、後ろ暗いところのない形で迷宮へ潜れる。それは十四年間、規則を守り続けてきた俺にとって何よりありがたいことだった。
「では、資格要件のクリアを確認した上で――本題である契約条件の協議に入りましょう」
七尾がバインダーのページをめくった。
「今回の契約形態は、業務委託による専属ナビゲーター契約となります。拘束期間、潜行頻度、機密保持、そして何より報酬体系についてです。志賀さん、まずはご自身として、どのような条件をご希望されますか」
「え……俺の希望、ですか?」
「はい。前職での実績や現在の市場動向を踏まえ、志賀さんご自身が適正とお考えになる水準をお聞かせいただけますか」
七尾がまっすぐに視線を向けてくる。横に座る氷室も、静かに俺の顔を見つめていた。
報酬。金の話だ。
俺の頭の中で、電卓が激しく弾かれた。無職になって三ヶ月。手元の貯金は少しずつ目減りしている。アパートの家賃は五万八千円。食費と光熱費、それに探索者登録の維持費を合わせれば、最低でも月に十五万円は必要だ。
前の職場――大手クラン『アルゴノート』にいた頃、俺の手取りは月二十五万円ほどだった。十四年間、どんなに迷宮を歩き回っても、基本給はほとんど上がらなかった。マッパーは魔物を倒すわけではなく、事故が起きなかったという結果しか残らない仕事だ。査定表に、そもそも昇給の欄が用意されていなかったのだろう。
あのアルゴノートでさえ二十五万だったのだ。
しかも今回は、まだ深層での実績がないおっさんの雇い入れだ。氷室灯のような超一流の探索者に、最初から過大な負担をかけるわけにはいかない。
何より、俺のような人間に高い値段がつくはずがない。安く引き受けて、丁寧に仕事をこなす。それだけが、俺が生き残るための唯一の武器だった。
俺は唾を飲み込み、恐る恐る口を開いた。
「あの……前のクランでは、手取りで二十五万ほどいただいていたんですが……今回はまだ深層での実績もありませんし、まずは試用ということで……月額二十万、いや……月額十五万円でいかがでしょうか」
応接室に、完全な静寂が訪れた。
七尾佳奈のボールペンを持つ手が、ピタリと止まった。眼鏡の奥の瞳が見開かれている。
「……志賀さん。今、月額十五万円とおっしゃいましたか?」
「あ、いえ! もし高すぎるようでしたら、最初の数ヶ月は十万円でも構いません! 食費と最低限の機材維持費さえ出れば、俺は十分やっていけますので……」
慌てて手を振る俺を、強い声が切り裂いた。
「安いです」
短く、硬い声だった。
見ると、それまで人形のように黙っていた氷室灯が、テーブルに手をついて身を乗り出していた。その瞳には、かつて見たことがないほどの静かな怒気のようなものが宿っていた。
「氷室……さん?」
「それでは困ります」
氷室は俺の目を射抜くように見つめ、淡々と、だが一言一言に鉄のような重みを込めて言った。
「志賀さん。第十九層への到達一回で、どれほどの経済価値が動くかご存知ですか」
「えっ……い、いや、深層の相場なんて俺は……」
「最深部で採取されるS級魔素結晶と希少素材の売却益だけで、一回の遠征で数千万円が動きます。公社からの踏破報奨金、スポンサーからの特別ボーナスを含めれば、一億を超えることも珍しくありません」
桁が違いすぎて、俺の頭がクラクラとし始めた。
「そして――私が過去に二度、深層で撤退したことによる機会損失と装備の摩耗、魔力結晶の消費被害は、一回あたり三千万円を下りません。命の危険を含めれば、計算すら不可能です」
氷室は七尾に向き直った。
「七尾。私が志賀さんに求めているのは、命の生還と、数千万円の遠征を確実に成功させるための絶対的な安全です。それを月十五万などという端金で買い叩くことは、私の誇りが許しません。そんな不当な契約を結べば、私は志賀さんの命を軽視していることになります」
「……氷室の言う通りです、志賀さん」
七尾がため息をつき、眼鏡を指先で押し上げた。
「深層探索者の専属ナビゲーターの市場相場は、最低でも月額固定で百万円以上、さらに遠征成功報酬として純利益の三〜五パーセントが通例です。十五万円などという金額は、不当廉売を通り越して、我が社の契約基準に照らしても受理できません」
「ひゃ、百万円……!?」
俺の声が裏返った。
月百万円。年間にすれば一千万円を軽く超える。無職の中年に支払われる金額とは到底思えない。
「志賀さん」
氷室が再び、俺の目をまっすぐに見据えた。
「私を深層から生きて帰す仕事です。その仕事に、自分自身で泥を塗らないでください」
その言葉は、俺の胸の奥に鋭く突き刺さった。
自分を安売りすることで、責任から逃げようとしていた。だが、この少女は、俺のナビに本気で自分の命を預けようとしているのだ。
「……分かりました。生意気なことを言って、申し訳ありませんでした」
「謝る必要はありません」
七尾が手元の書類をまとめ、ペンを走らせ始めた。
「では、氷室の意向と市場相場を反映し、以下の条件で本契約書を作成いたします。月額固定報酬として百五十万円。これに加え、第十層以深への潜行成功時における成果報酬として、回収素材の売却益から経費を控除した純利益の五パーセントを支給。また、深層用測量機材の調達費用および当面の活動準備金として、前払金三百万円を契約締結時に即時お支払いいたします」
前払金三百万円。月額百五十万。
眩暈がしそうな数字だったが、七尾の表情にも、氷室の表情にも、一切の迷いはなかった。
「正式調印は、公社の事前審査が下りる三日後に行います。よろしいですね」
「……はい。全力を尽くします」
応接室を出た時、ビルの窓から見える夕日は、二日前よりもずっと鮮やかに街を照らしていた。
自分の仕事に、初めて正当な値段がついた。その重みと誇らしさが、静かに胸を満たしていた。




