第6話 斬れない問題
一睡もできないまま朝を迎えた。
万年床の上で天井の染みを数えながら、俺は重い頭を抱えていた。解雇されて三ヶ月、細々と食いつないできた身に、昨日の出来事はあまりにも巨大すぎた。
――私の専属ナビゲーターになってください。
耳の奥で、氷室灯の冷たく澄んだ声が何度も蘇る。
人類最強の単独探索者。彼女が求めているのは、俺が十四年間ただの日常として消費してきた「壁の軋みを感じる」という手触りだった。鷺沼団長が「DX化の妨げになるコスト」と切り捨て、AI導入と引き換えに俺を放り出したその技術を、彼女は正確に見抜いていた。
だが、二つ返事で頷けるわけがない。
退路のない仕事は受けない。それが、十四年間迷宮の闇を歩き続け、無傷で生き残ってきた俺の唯一の流儀だった。
正午過ぎ、アパートのチャイムが鳴った。
ドアを開けると、プラチナブロンドの髪を束ねた氷室が立っていた。黒いタートルネックに無地の防風パーカ。首には特殊耳当てが提げられている。
「こんにちは、志賀さん」
「……どうも。狭い部屋ですが、どうぞ」
氷室は靴を脱ぎ、六畳一間の部屋へ上がった。万年床とカラーボックスしかない殺風景な空間だが、気にする素振りもなくローテーブルの前に正座する。背筋が寸分の狂いもなく伸びていた。
俺はインスタントの緑茶を出し、手帳を開いて息を吸った。
「氷室さん。申し訳ありませんが、専属ナビのお話、引き受けることはできません」
静寂が下りた。氷室は表情を変えず、静かに続きを待っている。
「理由は三つあります。第一に、資格です。俺が持つのは浅層限定の個人登録と配信許可証だけです。深層への立ち入りに必要な認可隊枠の帯同認可や公社の特殊業務資格はありません。制度上、同行は不可能です」
氷室は静かに聞いている。
「第二に、経験の欠落です。俺は第九層までは歩きましたが、第十層以深の深層を歩いたことは一度もない。深層の組み替え周期は浅層と桁が違い、数時間や数分で変わる。見たこともない領域の変形圧を感知できる保証はありません。そして第三に、戦闘能力です。俺は魔物と戦う力はゼロです。深層の魔物に遭遇すれば一秒で死ぬ。あなたの足手まといになり、命を危険に晒します」
言い切った。職人としての誠実な防壁。
だが、氷室は冷めかけた茶を見つめた後、淡々と口を開いた。
「三点とも、すべて私の側で解決できます」
「……え?」
「まず資格。私のエージェントである七尾が手続きを代行します。私の認可隊枠を使い、公社へ期限付きの臨時帯同認可を申請すれば、浅層限定登録でも合法的に同行可能です」
俺は思わず息を呑んだ。氷室は淡々と続けた。
「次に深層の経験について。……私は深層で二度撤退しています。一度目は第十四層『鏡面回廊』、二度目は第十七層『螺旋断層』でした。魔物はすべて斬り伏せました。私の前を塞いだ敵は一匹残らず両断しました。ですが――戻る道が消えたのです」
氷室の声に、研ぎ澄まされた事実の重みが宿る。
「深層の通路は呼吸し、空間錯乱で方位も光も歪みます。公社から貸与された経路端末も、深層では現在位置すら示さなくなりました。空間の歪みは、剣では斬れません」
氷室は自分の細い両手を見つめた。
「どれほど刃が速くとも、閉塞した岩壁を押し戻すことはできない。私は二度とも、携行食と魔力結晶が尽きる寸前に、偶然の気流の裂け目を見つけて這い出しました。強さでは解決できない問題でした」
彼女は顔を上げ、俺の目をまっすぐに見据えた。
「迷宮の魔素循環と変形圧力の力学は、浅層も深層も同じ根源です。浅層の微細な歪みを指先で感知できるあなたなら、深層の変形圧を感知できないはずがありません。そして戦闘能力ですが、あなたが戦う必要は一切ありません」
「しかし、敵に囲まれたら――」
「私がすべて斬ります。私の後ろで、あなたが感じた壁の歪みと危険な方角を言葉で伝えてくれればいい。志賀さんを守りながら戦う労力は、出口のない迷宮で彷徨う絶望に比べれば無に等しい誤差です」
三つの防壁が、跡形もなく解体されていた。
「……でも、氷室さん。やってみなければ、俺の勘があなたの足の速さについていけるかも分かりませんよ」
「では、確かめに行きましょう」
氷室は迷いなく言った。
「今から第七迷宮の浅層へ行きます。一度、私と組んで歩いてください」
◇
夕暮れ時の第七迷宮、地上エントランス。
探索者が引き揚げる時間帯、俺たちは受付ゲートを通過した。俺は作業着に歩測計と角の削れた超音波測距器、氷室は黒い探索スーツに漆黒の直刀を背負った軽装。配信カメラは置いてきた。
「第四層まででいいですね」
「ええ。志賀さんの個人登録の範囲内です」
竪穴を下り、第三層から第四層へ。湿った冷気と石材の擦れ合う微振動が肌を撫でる。
「氷室さん、普段この第四層の周回ルートを抜けるのにどれくらいかかりますか?」
「索敵と魔物の処理、崩落確認を含めて通常はおよそ四十分です」
「分かりました。俺の言う通りに歩いてみてください。魔物はできるだけ避けます」
「了解しました」
俺は通路にしゃがみ、壁の継ぎ目に素手を当てた。
冷たい石の感触。指先から右斜め上へ向かう微振動が伝わる。空気の流れが右の側溝へ吸い込まれていた。
「……奥の主通路に周期圧が集まってます。あと十五分で中央交差点が歪んで落石が起きる。左へ行きます。二つ目のT字路を右折してください。壁の隙間から向こうの排水路へ抜けられます」
「あの狭路は公社の公式マップでは通行不能指定ですが」
「マップが古いんです。二週間前の小規模組み替えで隙間が広がってます。あそこを抜ければ交差点をまるごと迂回できる」
「行きましょう」
氷室は疑うことなく狭い通路へ身を滑り込ませた。
俺は迷宮の音を拾いながら先導した。靴底の振動、気流の温度差、天井のクラック。
「氷室さん、次の角、右からケーブモールが二匹来ます。倒さなくていい、左の窪みに隠れてやり過ごしてください。壁の軋み音に反応して走ってるだけだから十秒で通り過ぎます」
窪みに隠れると、数秒後に慌ただしい足音を立てて魔物が走り去った。氷室は刀に手をかけることすらしなかった。
第四層最深部の大回廊手前で俺は立ち止まった。
「正面の大扉は駄目です。上枠が強烈な圧縮を受けてる。開けたら落石トラップが動く。……床の敷石を見てください。斜めに細い溝が走ってるでしょう。左の壁沿い、敷石三枚分の幅をキープして歩いてください。そこだけ基礎が浮いて圧力が逃げる。換気坑から出口へ直接出られます」
「……そんな抜け道、探索記録に載っていません」
「迷宮が組み替わる時の『逃げ道』なんです。生き物みたいに動くんだから、力を逃がす場所が必ずある」
敷石の安全なラインを選んで進む。魔物との遭遇も最小限、氷室が一瞬の抜刀で露払いをしただけで、俺たちは第四層の連絡階段の手前までたどり着いた。
ストップウォッチを見る。
「……十二分十八秒」
四十分かかる難所を、一度の足止めもなく三分の一以下の時間で踏破していた。
氷室灯は石段の下で息を整え、ゆっくりと振り返った。
「……やっぱり」
静かな呟きに確信が宿っていた。
「私の見立てに狂いはありませんでした」
「いや……これは浅層ですから。俺が知り尽くしてる場所だからであって――」
「立ち止まる回数が、AIナビの十分の一でした」
氷室は淡々と言葉を重ねた。
「AIは危険を検知すると停止して再計算を要求します。ですがあなたの指示は、動きながら回避する先回りの連続でした。私の速度が一度も殺されなかった。……迷宮で立ち止まらないことがどれほど生存率を上げるか、あなた自身が一番よく知っているはずです」
胸の奥が熱くなった。
十四年間、アルゴノートでは当たり前の空気として扱われ、最後は切り捨てられた技術。それを、この少女は肌身で理解していた。
「……仕事に、なるんですかね。俺のこんな地味な勘が」
「勘ではありません。完璧な技術です」
氷室は背中の刀を直すと、地上へ続く階段へ歩みを進めた。
「明後日、私のエージェントである七尾の事務所へ来てください。条件と契約書を用意させます」
「あ、はい……」
地上ゲートの手前で、氷室が振り返る。
「金額の交渉は、七尾としっかり行ってください。あなたは、正当な対価を受け取るべきです」
重い鉄扉をくぐると、夜気が一気に肺へ流れ込んできた。
夜風を浴びながら、俺は右手の指先を見つめた。止まっていた歯車が、静かに噛み合い始めていた。




