第5話 アパートの前の人類最強
翌日の夕暮れ時。スーパーのタイムセールで買った一パック百二十円の卵と、三連の極小粒納豆、それに半額シールの貼られた惣菜コロッケが入ったビニール袋を下げ、俺はアパートへの緩やかな坂道を上っていた。
夕日が街のビル群を赤黒く染め上げ、家路を急ぐサラリーマンや学生たちの群れが足早に通り過ぎていく。無職になって三ヶ月、昼夜逆転気味だった生活リズムの中で、夕方の生ぬるい風を浴びるのは久しぶりだった。
角を曲がり、築三十年のモルタルアパートが見えてきたところで――俺の足は、アスファルトに縫い付けられたように止まった。
また、いた。
昨夜と同じ場所。緑のペンキが剥げ落ちた集合ポストの前に、その人物は静かに佇んでいた。
引き返そうと半歩下がったが、遅かった。ビニール袋のこすれるカサリというわずかな音に反応したのか、その人物がすっと首を巡らせ、その視線がまっすぐにこちらを射抜いたからだ。
逃げる間など、最初から与えられていなかった。
小柄な体躯。街灯の光の下では分からなかったが、夕日を浴びたその髪は、色素が完全に抜けた白に近いプラチナブロンドだった。黒いシンプルなタートルネックの上に、無駄な装飾を一切削ぎ落とした薄手の防刃ジャケットを羽織っている。そして首には、深層の空間錯乱や衝撃波を防ぐための、大型の特殊耳当てがかけられていた。
何より異様だったのは、その瞳だ。起伏のない、感情という夾雑物を極限まで削ぎ落としたような、ガラス玉のように澄み切った双眸。
「……あ」
俺の手から、卵のパックが滑り落ちそうになった。
見間違いようがなかった。テレビのニュースで、公社の大型特番で、迷宮関連の専門誌の表紙で、この一年間、嫌というほど見せつけられてきた顔だ。
単独最深記録保持者「灯」。
あらゆるクランに属さず、たった一人で第十九層の未踏領域まで踏破した、現役最強の探索者――氷室灯だった。
「志賀道久さんですね」
静かな、澄んだ鈴の鳴るような声だった。高低の抑揚が極めて少ない、完全にフラットな声音。
「は、はい……志賀ですが……あの、氷室さん……ですよね? なんで、こんなボロアパートに……」
「少し、お時間をいただけますか」
断る隙など、どこにも存在しなかった。
◇
アパートから歩いて五分ほどの、寂れた児童公園のベンチに、俺と氷室灯は並んで腰を下ろしていた。
錆びたブランコが夕風に揺れてキィと軋む音と、遠くの幹線道路を走るトラックの排気音が響く。膝の上に特売の卵とコロッケを抱えた三十九歳の無職の中年と、日本中が注目する現役最強の探索者。あまりにも乖離した光景に、脳の処理がまるで追いつかない。
「あの……氷室さん。もし昨夜の救助配信の件でしたら、あれは本当に偶然なんです」
俺は冷や汗を拭いながら、必死に両手を振った。公社からも一目置かれる雲の上の人間だ。無資格で中層の救助に口を出したことに対し、公社を代表して警告でもしにきたのかと思い、喉がカラカラに渇いていた。
「新人の子がパニックになっていたので、昔の記憶を引っ張り出して、たまたま運良く抜け道を教えられただけでして……。救助隊の皆様のお仕事の邪魔をする意図は毛頭ありませんでしたし、もう二度と、あんな真似はいたしませんから……」
「救助の話を聞きに来たのではありません」
氷室は抑揚のない声で、俺の言い訳をスパッと切り捨てた。
「え……?」
「私が確認したのは、救助配信ではありません。その四日前の深夜配信です」
氷室はジャケットの内ポケットから、最新型の極薄端末を取り出した。滑らかな白い指先で画面を二度タップし、液晶をこちらに向けて差し出してくる。
そこに映し出されていたのは、四日前の深夜二時、俺が第三層の北区画で石壁を撫でていたあの配信のアーカイブだった。
『うん……明後日あたり、ここは壁になるね』
画面の中で、くたびれた作業ジャケットを着た俺が、気の抜けた声で何気なく呟いている。
「これ……ですか?」
「はい」
氷室は端末を膝の上に置き、まっすぐに俺の瞳を覗き込んできた。その視線の圧力に、息が詰まる。
「公社の救助記録からあなたの名前を割り出し、過去の全配信アーカイブを確認しました。あなたは配信の中で、『明後日あたり壁になる』と言いました。そして三十分後、別のルートから戻ったとき、通路はすでに壁になっていた。あなたは『二日も外した、だめだなあ俺は』と言って、自分の勘の狂いを責めていましたね」
「あ、はい……完全に読み違えまして。プロとして十四年もやってきたのに、お恥ずかしい限りで……」
「違います」
氷室の声が、わずかに低く硬くなった。
「二日外したのではない。あなたは、数十分後に閉塞する通路の微小な歪みを、指先で触れただけで感知していた」
「……はあ?」
「あの通路が塞がったのは、第五層で発生した中規模組み替えの、前駆振動によるものです。公社の観測所が記録した地震波データと照合しました。第三層の壁面には、閉塞の三十八分前から極めて微弱な変形圧力が生じていた。公社の最新型地震計が異常数値を検知するよりも早く、あなたは壁の変形圧を正確に言い当てていた」
氷室は静かに息を吸い、淡々と言葉を重ねた。
「私は、あなたが過去に配信したアーカイブをすべて見ました。画質を落とし、迷宮の公的観測データと突き合わせました。あなたは毎回、ただの散歩のように歩きながら、すべての層で微小な応力集中点を正確に避けて歩いている。この三ヶ月、あなたが配信で歩いた区画で、事故や閉塞に巻き込まれた記録は一度もありません。これは偶然の積み上げではありません。経路の設計です」
「そ、そんな大層なものじゃないですよ。ただ歩いてて、なんとなく壁の隙間風が嫌だなと思って避けてただけで……」
「その『なんとなく』を、世間では職人技と呼びます。そして今の業界は、それをAIで代替できると錯覚している」
氷室の表情は微塵も動かない。だが、その言葉には、研ぎ澄まされた刃のような絶対的な確信が込められていた。
「世間の人間は、昨夜の救助配信の奇跡ばかりを騒いでいます。ですが、あんなものは副産物にすぎない。真に異常なのは、この四日前の配信です。あなたは、まだ存在しない壁の位置と時間を、正確に予見していた」
ドクン、と心臓が跳ね上がった。
誰も見ていなかった。コメント欄の十二人も、切り抜きを作った連中も、ネットで騒いでいる野次馬たちも、みんな「たまたま当たった奇跡の予言」として消費していただけだった。
なのに、この少女は。
人類で最も深い迷宮の闇を歩くこの探索者は、俺が十四年間かけて体に刻み込んできた職人の手触りを、たった一度の地味な配信から、寸分の狂いもなく見抜いていた。
「私は、第十層以深の深層で二度撤退しています」
氷室は、そこだけわずかに声を落とした。
「敵が強かったからではありません。私の強さでは、どうにもならない問題がありました。……その話は、いまはしません。先に聞かせれば、同情で引き受けさせてしまいます」
彼女はベンチから立ち上がると、俺の正面に回り込み、深々と頭を下げた。
「志賀道久さん。私の専属ナビゲーターになってください。私を、深層へ連れていってください」
夕暮れの風が吹き抜け、公園の砂を小さく巻き上げた。
人類最強からの、途方もない依頼。
だが、俺の口から飛び出したのは、誇らしさでも快諾でもなく、情けないほど困惑した拒絶だった。
「……え、いや、待ってください! 俺は浅層限定の個人登録しか持たない、ただの元マッパーですよ? 深層なんて、解雇されてから何ヶ月も潜ってないし……第一、俺なんかにそんな大役、務まるわけがありません。体力も落ちてますし、足手まといになります」
「志賀さんでなければ駄目です」
氷室はすっと顔を上げ、一切の迷いのないガラスの瞳で俺を射抜いた。
「手続きは私のエージェントが代行します。あなたの足が止まったら、私が背負って歩きます。あなたが二日外したと言った時間で、私は死にます。私には、あなたの精度が必要です」
夕闇が静かに降りてくる公園で、俺たちの視線が、逃げ場のない距離で交錯していた。
「……とにかく、今夜すぐに返事は出せません。考えさせてください」
「分かりました」
氷室は一切の感情を交えず、淡々と頷いた。
「明日、また伺います。返事が出ていなくても構いません。迷っているなら、一度だけ私と組んで歩いてください。判断の材料は、話ではなく実際の迷宮で出すべきです。報酬や契約条項は、そのあとで私のエージェントに詰めさせます」
「えっ、ちょ、エージェントって……」
「それでは、失礼します」
氷室は深々と一礼すると、音もなく背を向け、夕闇の迫る路地へと歩き去っていった。その背中はあまりにも小さく、華奢で、とても人類最強と呼ばれる探索者には見えなかった。
冷え切った惣菜コロッケの入った袋を提げ、俺は一人、静まり返った公園に取り残された。
夜風が、ざわりと木々を揺らす。
「……専属ナビ、か」
乾いた呟きが、誰に届くこともなく夜の闇に溶けていった。




