第4話 切り抜きは勝手に走る
翌朝、枕元で鳴り止まない端末のバイブレーションで目を覚ました。
ブブッ、ブブッ、と執拗に震え続けるスマートフォンの画面を、目やにをこすりながらタップした瞬間、俺はベッドから文字通り転げ落ちそうになった。
「……は? 通知件数、九千九百九十九プラス……?」
一瞬、端末の液晶がバグったのかと思った。だが、恐る恐る動画配信アプリを開くと、トップページのおすすめ欄の最上段に、見覚えのある作業ジャケット姿の男のサムネイルが堂々と鎮座していた。
『【神回】視聴者12人の無名配信者、第五層の組み替え事故を完全予測して新人を救出してしまう』
『「四分後に壁が開きます」→ガチで開いて救助隊より先に生還させた件』
『石の感触と風の音だけで迷宮の座標を特定する元大手マッパーのおっさんがヤバすぎる』
再生回数は、すでに六十万回を突破していた。
大手動画まとめサイトやSNSのトレンド欄にも『迷宮の予言おじさん』『リアルタイム救助配信』といったワードがずらりと並んでいる。コメント欄を開くと、目にも留まらぬ速度で新しい感想が流し込まれ続けていた。
:このおっさん何者だよwww
:石のザラザラと風の向きだけで場所特定するとか人間業じゃないだろ
:公社の最新AIマッパーより百倍頼りになるの草
:でも無資格で口頭ナビとか規約違反じゃね? 公社は厳重注意しろよ
:結果的に人命救助したんだからいいだろ! 見殺しにしろってのか?
:どうせヤラセだろ。事前に公社の地震計データ盗んでたに決まってる
:おっさんの声が急にプロのトーンになるとこ何回見ても鳥肌立つわ
:これアルゴノートの元専属マッパーらしいぞ。なんでクラン辞めたんだ?
賞賛、驚愕、そして根拠のない中傷や疑念。
画面の向こうで渦巻く無数の感情の濁流を見て、俺は腰の底が冷えるのを感じた。
嬉しいという感情は微塵も湧いてこなかった。ただひたすらに、薄気味悪く、怖かった。自分という三十九歳のしがない中年男の周囲で、実体とは似ても似つかない巨大な虚像が、勝手に風船のように膨らんでいく感覚だ。
アカウントのフォロワー数は一晩で三千人を超え、昨夜のアーカイブの収益画面には、数千円から一万円単位の投げ銭が何件も赤や黄色で点滅していた。合計金額は、一晩だけで十二万円。俺のアパートの家賃二ヶ月分を超える額に達している。
「……どうしよう、これ。公社の配信規約違反で没収されるのかな……税金の手続きとかどうすればいいんだ……?」
頭を抱えて唸り声を上げていると、突然、端末の画面が切り替わり、着信を告げる重々しい電子音が部屋に響き渡った。
ディスプレイに表示された発信元の名前に、呼吸が止まる。
『榊久史』
元クラン「アルゴノート」の副団長。十四年間、最前線で背中を預け合ってきた、元同僚からの着信だった。
解雇されたあの日以来、一度も連絡を取っていなかった男だ。俺は喉の奥を鳴らし、震える指で通話ボタンをスライドさせた。
「……もしもし、榊か」
『――道久か』
スピーカーから聞こえてきたのは、昔と少しも変わらない、低く太い、錆びた鉄のような声だった。電話の向こうで、微かに衣擦れの音がする。数秒の重い沈黙のあと、榊がぽつりと言った。
『見たぞ。切り抜き』
「ああ……なんか、勝手に広まっちゃってさ。お恥ずかしい限りだよ」
『……お前、第五層のベントポイントを当てたらしいな。あそこは昔、第六部隊の連中と中層を歩いた時に、お前が見つけた歪み逃がしだ』
「よく覚えてるな。あの時の測量記録が、たまたま頭に残ってただけだよ。運がよかったんだ」
『たまたまで通せる道じゃねえよ』
榊の声が、低く沈んだ。その語気には、怒りとも悔恨ともつかない、苦々しい色が濃くにじみ出ていた。何かを言おうとしては呑み込み、言葉を探している気配が伝わってくる。
あの解雇の役員会議。榊が最後まで席を立たず、鷺沼団長の方針に食い下がっていたらしいという噂を、俺は後から人づてに聞いていた。だが、組織に残る前衛の責任者として、彼には彼なりの立場と部下たちの生活がある。
『……道久。お前がアルゴノートを出てから、現場の空気が少しずつ変わった。AIの指示通りに動いてるが、たまに妙な違和感がある。……いや、団長の言う通り効率は上がってるんだがな。お前……飯は食えてるのか』
「食えてるよ。貯金もあるし、昨夜は駅前でカツ定食食ったよ。鷺沼さんは優秀な経営者だから、アルゴノートは大丈夫だよ。昔みたいに榊が食料袋を沼に落とすようなドジさえしなきゃな」
『……あの時の話は蒸し返すな』
電話越しに、榊の短い鼻息が聞こえた。昔の現場の空気が、一瞬だけ蘇る。
『体だけは、気をつけておけよ』
「ああ。榊もな。深層の前衛は腰に来るから、冷やすなよ」
それだけ交わして、通話は静かに切れた。
端末を耳から離し、俺は静まり返った六畳間に一人取り残された。怒りも、恨みも湧いてこない。ただ、十四年間という歳月が、もう二度と戻らない場所へ行ってしまったのだという事実だけが、静かに胸に沈殿していた。
◇
夕暮れ時、部屋の空気に息が詰まり、気分転換を兼ねて駅前の定食屋に入った。
注文した生姜焼き定食を待ちながら、カウンターの隅で端末を開き、迷宮探索者向けの専門ニュースサイトを閲覧する。
そのトップ記事が、嫌でも視界に飛び込んできた。
『大手クラン「アルゴノート」、迷宮ナビAI「オルタマップ」の全隊導入で事故率三〇%削減を達成――鷺沼団長が語る「人間マッパー廃止による探索効率化の未来」』
記事の中央には、仕立ての良い高級スーツを完璧に着こなし、爽やかな笑みを浮かべる鷺沼団長のカラー写真が掲載されていた。背後にはアルゴノートの巨大なロゴと、最新鋭の探索ドローンが整然と並んでいる。
《迷宮はデータです。感情や老練な勘、個人の経験則に頼る時代は完全に終わりました。AIによる統計的アプローチこそが、探索者の生命を客観的に守り、探索コストを極小化する唯一の道なのです。過去の職人技への郷愁を捨て、組織全体を近代化させたことが、今回の結果に結びつきました》
淀みのない、洗練されたインタビューだった。
大手メディアの記者は鷺沼さんの先見の明を手放しで称賛し、アルゴノートを「迷宮探索業界のDXの旗手」と持ち上げている。提携先の大手テック企業からの出資額も桁違いの数字が並んでいた。
俺を切った判断が、経営として、そして業界の輝かしい成功例として大絶賛されていた。
「……うまくいってるなら、よかったじゃないか」
運ばれてきた生姜焼き定食を前に割り箸を割りながら、俺は誰に聞かせるでもなく小さく呟き、端末の画面を伏せた。
鷺沼さんを恨む気持ちは、本当にないのだ。事故率が減り、探索者が安全に生還して金を稼げるなら、それが一番正しい。俺のようなアナログな職人が役目を終えて退場するのは、時代の必然なのだから。
肉を口に運ぶ。甘辛いタレの味は美味かったが、どこか砂を噛むような後味が残った。
◇
夜八時を回った頃、コンビニで買った明日の朝用の食パンと牛乳を提げて、アパートへの暗い夜道を歩いていた。
築三十年の安アパートの、外灯がチカチカと点滅する階段が見えてきたところで、俺はふと立ち止まった。
「……ん?」
集合ポストの前に、誰かが立っていた。
細身のシルエット。街灯の白っぽい光を浴びて、夜風に揺れる髪は、色素の抜けた淡い銀色に見えた。首のあたりには、大型のヘッドフォンのような黒い耳当てをかけている。
じっと、俺の名前が書かれた集合ポストの表札を見上げているようだった。
華奢な肩のライン、無造作にポケットに突っ込まれた手、そして何より、周囲の空間から切り離されたような異様な静寂をまとっていた。取材記者や配信の野次馬にしては、カメラもマイクも持っていない。ただ静かに、俺の部屋の窓を見上げている――その佇まいに、うなじの毛が立つような寒気を感じたのだ。
(……取材か? それとも、あの切り抜きを見たアンチか……?)
心臓が嫌な跳ね方をする。ネットで顔と名前が晒された直後だ。住所が特定されて凸撃されてもおかしくない。
関わりたくない。面倒なトラブルだけは御免だ。俺は息を殺してゆっくりと踵を返し、近所の住宅街を大きく遠回りすることにした。
三十分ほど時間を潰し、肌寒い夜風に震えながら戻ってみると、ポストの前にはもう誰もいなかった。
「……気のせいだったか。早く寝よう」
ほっと胸を撫で下ろし、鍵を開けて部屋に入った。だが、あの夜の闇の中に佇んでいた人影の、異様なほど研ぎ澄まされた冷たい輪郭が、なぜか頭の片隅にこびりついて離れなかった。




