第3話 視聴者12人の救助隊
端末の画面越しに、粗い映像が小刻みに揺れていた。
青白い小型作業灯の細い光筋が、濡れた灰色の石壁を頼りなげに撫でている。スピーカーの奥からは、激しい呼気と、寒さと恐怖で歯の根が合わずにカタカタと鳴る音が、耳障りな電磁ノイズに混ざって絶え間なく響いていた。
:ゆい:映しました……これで、分かりますか……?
「大丈夫、しっかり見えてますよ。ゆいさん、深く息を吸って。ゆっくり吐いて。そう、呼吸を整えてください」
俺は第二層の頑丈な壁際に腰を落ち着け、胸ポケットから新しい野帳と、芯の丸くなった鉛筆を引き抜いた。
通信回線は途切れていない。第七迷宮は第九層まで公社の中継設備が網羅されており、テキストだけでなく低解像度の映像通信も辛うじて届く。このインフラが生きていなければ、そもそも口頭ナビなどという無謀な綱渡りは成立しない。
「地名は言わなくていいです。看板も標識もないでしょうからね。案内標識を探そうとしてキョロキョロ歩き回るのが一番危険です。代わりに、俺の質問に短く、感じたまま答えてください」
:ゆい:は、はい……!
「まず、作業灯のバッテリーの残量表示は見えますか? 光量を半分に落とせますね」
:ゆい:えっ……あ、はい、三段階の真ん中に落としました。インジケーターは黄色です
「よし、それで一時間は持ちます。次に、目の前の壁の石材の継ぎ目です。指先で触って、段差が手前に出てますか、奥に凹んでますか?」
:ゆい:手前です……二センチくらい、ごつごつと出っ張ってます
「いいですね。次は足元です。石畳の敷石は四角いですか、それとも六角形ですか?」
:ゆい:四角です。でも、表面がすごくザラザラしてて、斜めに細かく引っかき傷みたいな筋が入ってます
「完璧です。最後にもう一つ。耳を澄ませてください。水の流れる音か、あるいは風の抜けるような低い唸り声が聞こえませんか?」
:ゆい:……耳を澄ますと、遠くから、ゴーッていう、低い音が……右のほうから聞こえます。風が、かすかに右の頬に当たってます
俺の鉛筆が、野帳の上を凄まじい速度で走り出した。
直線、交差点、等高線、そして応力の集中を示す無数の矢印が、瞬く間に白い紙面を埋め尽くしていく。
手前に出っ張る石材の歪み、粗削りの斜め筋が入った四角い敷石、右方向からの大型通風口の排気音――。
「――特定しました。第五層、南西の第三資材集積所跡の側道です。中央階段からは直線距離で三百メートル。ただし主通路は、先ほどの組み替えによる崩落で完全に塞がっていますね」
:は????????
:それだけで特定したの!?
:嘘だろ、第五層の地図なんて公社の最新版でも迷路だぞ!?
:石のザラザラと風の向きだけで場所が分かる人間がいるかよ!!
:待って、このおっさんマジで何者なの……?
コメント欄が驚愕の叫びで埋まるが、俺にとっては十四年間の日常の延長にすぎなかった。
第七迷宮のあらゆる石の削り方、工期ごとの資材の搬入経路、通風孔の配置を頭に叩き込んできたのだ。迷宮は生物のように蠢くが、その骨格を成す「基礎の掘削痕」までは消せない。人が掘り、迷宮が模倣した構造には、必ず力学的な癖が残る。
「ゆいさん、現在地が分かりましたよ。あなたは決して見捨てられていません。俺が地上までの退路を案内します」
:ゆい:ほんとうに……ほんとうですか……っ
「ええ。ただ、ここからが本番です。最短で第四層へ上がる北回廊は、さっきの組み替えの余波で、あと一時間以内に二次崩壊を起こして完全に閉塞します。だから、その最短ルートは使いません」
:最短使わないの!?
:遠回りしたら魔物に見つかるんじゃねえの!?
:一刻も早く逃げないとヤバいだろ!
「最短ルートは逃げ場のない一本道です。途中で塞がれたら袋の鼠になる。俺の仕事は『退路が二本ある道』を選ぶことです。これから向かってもらう場所は、壁が開けばそのまま第四層へ出られます。開かなくても、来た道を戻って南の旧側道から換気坑へ回れる。遠回りですが、あちらはもう圧が抜けきっていて、これ以上は動きません。退路は二本ある。だからそこを選びます。ゆいさん、背後の通路を振り返ってください。突き当たりに、石が崩れ落ちて塞がっているように見える場所がありますね?」
:ゆい:あります! 岩が積み上がってて、完全に瓦礫で埋まってます!
「そこへ歩いてください。ゆっくり、足音を立てずに。突き当たりに着いたら、積み上がった岩の隙間に背中を潜り込ませて、体育座りで待機してください」
:ゆい:あの……志賀さん。わたし、さっき……一人で逃げてきちゃって……
不意に、ゆいさんの声が微かに震え、途切れた。
「……ゆいさん?」
:ゆい:いえ……なんでもありません。突き当たりに着きました。岩の隙間に、小さくなって座りました……
何かを言いかけて呑み込んだ気配があったが、今は詮索している余裕はない。
「いいから信じてください。そこは導水路の余剰圧力が集中するベントポイント――圧力の逃げ場です。時計を見てください。あと四分。四分後に、迷宮の周期圧が反転して、その岩の奥の壁がスライドして開きます」
画面の向こうで、息を呑む気配がした。
一分、二分……。コメント欄の誰もが言葉を失い、秒針の音だけが響くような極限の緊張が場を支配する。視聴者数はいつの間にか百人を超え、さらに増え続けていた。
ゆいさんの荒い吐息がマイクを震わせる。
:ゆい:志賀さん……あと三十秒です……壁、びくともしません……。遠くで、カチカチって、魔物の爪の音が近づいてきてます……!
「大丈夫。爪の音は反対側の通路です。あと十秒。五、四、三、二、一――いまです」
ズズズズズ……ッ!
鈍く重い地響きとともに、ゆいさんの背後の石壁が、まるで精密機械のように滑らかに横へとスライドした。積み上がっていた瓦礫がガラガラと乾いた音を立てて崩れ落ち、その向こう側に、広々とした石造りの上り階段が姿を現した。
:開いたあああああああああああああああああああああ!!!!
:マジで開いた!!!!!!
:鳥肌が止まらねえええええええ!!
:予言通りじゃねえか!! 神かよ!!
:うおおおおおおおおおおお!!
:ゆい:あ……ああっ……! 道が、階段があります……!
「よし、泣くのは地上に出てからです。階段を一気に駆け上がってください。上がった先は第四層の旧連絡通路です。そこは公社の管理下にある恒久安全区画ですから、魔物は絶対に入ってきません。振り返らずに走ってください!」
画面が激しく揺れ、ゆいさんが必死に階段を駆け上がる足音が響く。
安全靴が石段を蹴る音、乱れた呼吸音、そして激しい風の音。
数十秒の疾走ののち、重厚な防護扉の向こう側に、眩い非常用照明の光が差し込んできた。
『誰かいるのか!? 探索者か!』
スピーカー越しに、聞き慣れた公社救助隊の怒鳴り声が飛び込んできた。
『第五層の孤立者一名、第四層非常ゲートにて保護! 外傷なし、意識清明!』
救助隊の無線連絡の声が響き渡った瞬間、ゆいさんの泣き崩れる声がマイクを満たした。
:ゆい:志賀さん……っ、助かりました……! わたし、生きてます……! 本当に、ありがとうございました……!
「ええ、よく頑張りましたね。お疲れ様でした。まずは温かいものを飲んで、体を休めてください」
俺は深く息を吐き出し、張り詰めていた肩の力をゆっくりと抜いた。手元の野帳には、汗でわずかに滲んだ鉛筆の線が残っていた。
◇
地上ゲートのロビーは、騒然とした熱気に包まれていた。
救護所の前を通りかかると、公社の職員が血相を変えて駆け寄ってきた。
「志賀さんですね? 保護された十和田結さんから証言を聞きました。配信の映像越しに彼女を誘導したというのは本当ですか? 事故調査と救助記録のために、配信のアーカイブデータを公社へ提出していただきたいのですが」
「あ、はい。どうぞ、好きに使ってください。俺の勘がたまたま当たっただけですから」
深く考えずに端末の共有リンクを渡すと、職員は怪訝そうな、しかしどこか圧倒されたような顔で深々と頭を下げた。
ゲートの外に出ると、すっかり夜の闇が広がっていた。冷たい夜風が、汗ばんだ額を心地よく撫でていく。
ポケットの中で端末が震えた。十和田さんからの短いダイレクトメッセージだった。
『志賀さん、本当に、本当にありがとうございました。公社の救護室で手当を受けました。……同行していた同期の桧山くんも、別のルートで救助隊に保護されて軽傷で済んだと聞きました。本当によかったです……』
「……そうか。仲間も無事だったのか。本当によかった」
俺は小さく息を吐き、安堵の笑みを浮かべた。
コメント欄には歓喜と感謝の言葉が滝のように流れ、有志による切り抜き動画の作成が宣言されていた。
だが俺自身には、自分が途方もないことを成し遂げたという実感などまるで湧いてこなかった。ただ、三ヶ月ぶりに、自分の測量の腕が誰かの命を救った――その温かく確かな感触だけが、じんわりと胸に広がっていた。
「……よし。今夜は駅前の定食屋で、ロースカツ定食でも食うか」
千五百円の贅沢を自分に許し、俺は夜風の中を軽やかな足取りで歩き出した。




