第2話 助けてください
四日後の夕方、俺は重い足取りで、薄暗い第七迷宮の第二層を歩いていた。
昼間、迷宮管理公社の職業斡旋窓口で手渡された、三つ折りの不採用通知を思い出す。年齢三十九歳、経験職種マッパー。担当窓口の若い職員は、気の毒そうに眉を下げて言ったものだ。『志賀さん、今の時代、どこのクランもオルタマップを標準装備してますからね。手描きや歩測の技能を評価する査定項目自体が、もう公社の基準に存在しないんですよ』と。
分かってはいたが、胃の腑にじわりと苦いものが広がる。十四年かけて磨き上げた技術が、制度の書類一枚で「存在しないもの」として処理される。その事実の冷たさに、アパートの六畳間でじっとしているのが耐えられなくなり、気晴らしに第七迷宮へやってきていた。
歩いて、測っていなければ、自分が何者か分からなくなる。
胸元の作業ジャケットに小型配信カメラを留め、歩測を刻みながら配信を立ち上げる。視界の端のウィンドウに表示された視聴者数は「14」。相変わらず、指で数えられる程度の小さな輪だ。
:お、おっさんこんばんは
:今日も浅層散歩?
:四日前の「明後日壁になる」アーカイブ、何回も見返しちゃったよ
:あのあと本当に塞がったの、何度見ても意味不明で笑うw
:こんばんはー。今日も癒やされにきました
「こんばんは。ええ、また散歩ですよ。家にいても電気代がかかるだけですからね。ええと、今は第二層の南側回廊を歩いています。このあたりは迷宮の基礎構造が安定していて、組み替え周期も半年から一年と長いんです。初心者のパーティが足慣らしをするには、一番安全な区画ですね」
腰から下げた古い超音波測距器を取り出し、壁面へ向けて照射する。カチ、と小気味よい音が鳴り、液晶に数値が表示される。
「幅四・二メートル、高さ三・五メートル。基準値からの誤差はプラス〇・五パーセント以内。うん、極めて平穏です。壁の石材の継ぎ目も綺麗に噛み合ってますし、この先三ヶ月は動く気配がありません」
右手中指のタコに鉛筆を挟み、野帳へサラサラと数値を書き留める。ゴム底の安全靴で石畳を叩くテンポは、きっちり一歩七十五センチ。この無心で足を動かす時間だけが、無職の俺にわずかな安らぎを与えてくれた。
――その時だった。
足の裏から、奇妙な感触が這い上がってきた。
ゴゴゴ……と腹に響くような大地震の揺れではない。もっと硬質で、微細な、石と石の分子が極度の圧力で擦れ合うような高周波の軋み。
(……なんだ?)
俺は即座に足を止めた。全身の毛穴がキュッと引き締まる。
通路の奥から吹き抜けてくる空気の匂いが、一瞬で変質した。古い石材の湿ったカビ臭さの中に、焦げたオゾンのような、ピリリとした魔素の刺激臭が混ざり込む。気圧が急速に抜け、耳の奥がツンと痛んだ。
――ズズンッ!
遠く、迷宮の深部から、巨人が拳を叩きつけたような鈍い衝撃が響き渡った。
次の瞬間、天井の等間隔に埋め込まれた公社の非常用スピーカーから、甲高いサイレンがけたたましく鳴り響いた。
『緊急警報。緊急警報。第七迷宮全域において、中規模の構造再編、通称「組み替え」を観測。影響震源は第五層から第七層。探索中の各隊は直ちに最寄りの安全区画へ退避し、公社の誘導指示に従ってください。繰り返します――』
通路全体に警報のサイレンと機械音声が反響する。
俺は素早く壁に背を預け、姿勢を低くした。頭の中で第二層の全体図を展開する。天井のアーチに歪みはない。主通路の変形圧も逃げている。南の地上ゲートへ至る連絡階段までは徒歩五分。退路は完全に二本確保されている。
「みなさん、落ち着いてくださいね」
配信カメラに向かって、努めて平穏なトーンで呼びかける。
「第二層は震源から離れているので揺れもほとんどありません。影響範囲は第五層以深の中層です。俺はこれから地上ゲートへ引き返しますので、今夜の配信は――」
言いかけたところで、視界の隅のコメント欄が猛烈な勢いでスクロールを始めた。
:うわ、マジで組み替え起きた!?
:第五層から第七層って、中層全域じゃん!
:いま潜ってる探索者たちヤバいだろこれ!
:速報出た! 第五層の中央広間が崩落、主ルートが複数寸断されたって!
:中堅クランのパーティが何組か孤立してるらしいぞ!
:公社の回線、問い合わせ殺到でパンクしてるってマジか
コメントの濁流を見つめ、俺は喉を鳴らした。
第五層。第四層までの浅層とは異なり、迷宮の生態が一気に凶暴化する中層への入り口だ。構造が複雑な立体交差になっており、一度組み替えが起きれば、階段へ至る回廊は迷路のように寸断される。中層の魔物は浅層とは比較にならないほど狂暴で、孤立すれば命に関わる。
早く地上へ出よう。そう思って踵を返した、まさにその瞬間だった。
:ゆい:助けてください
画面の中央に、ポツンと、その一行が流れてきた。
俺の足が、凍りついたように止まった。
:えっ、ゆいちゃん!?
:嘘だろ、今潜ってんの!?
:ゆいちゃん第五層にいるのかよ!?
:公社に通報しろ! 配信に書き込んでる場合じゃない!!
:ゆい:通報しました……公社には繋がりました。でも、救助隊の編成に一時間以上かかるって言われて……。さっきの揺れで壁が動いて、戻り道が全部消えました。前も後ろも見たことのない壁で、自分がどこにいるのか分かりません。遠くから、魔物の足音が聞こえてきて……怖くて、動けません
画面に並ぶ文字から、息が詰まるほどの絶望と恐怖が溢れ出していた。
十和田結――ゆいさん。いつも俺の配信で、手帳のつけ方や歩測のコツを真面目に質問してくれていた若い探索者だ。まだ迷宮に潜り始めて日の浅い新人が、初めて遭遇した中規模の組み替え事故で、退路を断たれて孤立したのだ。
中層で一時間。そんな時間、丸腰同然の新人が生き残れるはずがない。彷徨う魔物に嗅ぎつけられれば、数分で蹂躙される。
握った端末の縁に、じわりと汗が滲んだ。
(俺が行って助けられるか……?)
否だ。物理的にあり得ない。俺が持っているのは浅層限定の個人探索者登録であり、第五層へ降りる法的権限がない。何より、ここから第五層まで急いで下りても一時間半はかかる。俺が現地へ着く頃には、すべてが終わっている。
それに、俺はただの無職のおっさんだ。遭難救助の公的資格なんて持っていない。下手に民間人が口頭で指示を出し、もし彼女が死んだら、すべての法的責任と道義的非難が俺に降りかかる。
「公社の救助隊を信じて、身を潜めて待つんだ」――そう言って配信を切り、地上へ逃げるのが、大人として最も安全で、誰からも責められない選択のはずだった。
だが。
(……待て)
俺の頭の中で、十四年間、何百回となく歩き倒した第七迷宮の設計図が、猛烈な速度で回転を始めていた。
第五層の中規模再編。さっき足の裏で感じた震動の波形、オゾンの抜け方、気圧の落差。
あの規模の圧力が抜けたとすれば、動いたのは中央の円形ホールを起点とした時計回りの圧縮だ。主通路は瓦礫と壁で閉塞したはずだが、外周の古い導水路区画には、迷宮の力学上、どうしても応力を逃がすために開いたまま残る「バイパス」が存在する。
退路がある。
俺の職人としての直感が、冷徹な確信を告げていた。今なら、あの子を安全地帯まで引っ張り出せる線が二本ある。周期圧で開くはずの導水路のベントポイントと、もう圧が抜けきった南の旧側道。どちらか一本でも通っていれば、あの子は自分の足で第四層まで出られる。
退路が見えているのに、見殺しにしろというのか?
資格がないからと、責任を負いたくないからと目を背けて、明日、若い探索者が死亡したという公社の広報を、アパートの冷たい部屋で眺めるのか?
「……ふう」
俺は深く息を吐き出し、胸元のカメラの位置を正面に向け直した。
迷いは完全に消え去っていた。十四年間、最前線で仲間たちの背中を守り、死地から生還させ続けてきた時の、あの澄み切った冷たい静寂が、全身の神経を支配していく。
「ゆいさん、聞こえますか」
俺の口から出たのは、いつもの気の抜けた中年男の声ではなかった。低く、よく通り、耳の奥にまっすぐ突き刺さるような、迷宮のノイズを切り裂く声。
「パニックになる必要はありません。俺の言う通りに行動してください。まず、絶対にその場から勝手に走らないでください。足音を立てると魔物を呼び寄せます」
:おっさんの声が急に変わった……!?
:マジでナビする気かよ!?
:無資格で救助指示とか公社にバレたらヤバいぞ!
:でも救助隊待ってたら確実に死ぬだろ!!
流れるコメントに視線すら向けず、俺は鋭く告げた。
「ゆいさん。端末のカメラを外に向けられますか。あなたが今いる場所の、壁の継ぎ目と、足元の石畳の模様を画面に映してください。すぐに、あなたの現在位置を特定します」
画面の向こうで、数秒の静止のあと、ガタガタと震える手でカメラが切り替えられた。映し出されたのは、青白い光に照らされた、未知の迷宮の暗闇だった。




