第1話 明後日、ここは壁になる
冷えた石壁の継ぎ目に、指先を滑らせる。
指の腹に伝わるのは、わずかに湿った苔の感触と、石材同士が押し合って微かに軋むような極小の振動だった。第七迷宮の第三層、北区画の通路。深夜二時を回ったこの時間は、遠くを巡回する小型魔物の足音を除けば、しんと静まり返っている。
「うん……明後日あたり、ここは壁になるね」
胸元のくたびれた作業ジャケットに留めた小型配信カメラへ、俺は何気なく呟いた。
視界の隅に浮かぶ半透明のウィンドウでは、視聴者数が「12」を示している。相変わらず一桁と二桁の間を彷徨う数字だ。それでも、深夜の迷宮探索配信という奇特な枠に付き合ってくれる常連たちが、すぐにコメントを流してくる。
:またおっさんの壁当てが始まった
:明後日壁になるとか何で見分けつくの?
:ただの苔むした石壁にしか見えないんだが
:こんばんはー。今夜もマッピングですか?
「こんばんは。ええ、少しだけ測りにきましたよ。なんで分かるかっていうと……ほら、石の噛み合わせが五ミリほど浮いてるでしょ? それに丁字路から流れる風圧が昨日より落ちてる。構造全体の変形圧がこっちに寄ってきてるから、周期変動の歪み逃がしで――」
そこまで早口で喋りかけて、苦笑して口元を押さえた。
「あ、すみません。専門用語でごまかそうとしました。要するに長年の勘です。十年以上も同じ迷宮をうろついてると、なんとなく壁の機嫌が分かってくるんですよ」
:出た、おっさんの「長年の勘」
:風圧とか言われても分からんw
:でもこのチャンネル、妙に落ち着くから作業用BGMにしてる
:石材の浮きって肉眼で見えるもんなの……?
コメントのひとりに「ゆい」というアカウント名がある。ここ一ヶ月、俺が配信を立ち上げるたびに見かける常連だ。探索者の新人なのか、いつも石材の継ぎ目や測距の手順について熱心な質問を投げてくる。
「肉眼というより指先ですね。触って覚えるのが一番です。あ、真似してベタベタ触っちゃ駄目ですよ。変色種の毒苔が生えてる区画もありますからね」
腰のホルダーから手のひら大の測距器を取り出した。外装の角が削れ、黒い塗装が剥げて地金が露出した、十年以上使い倒してきた超音波式の計測器だ。最新式レーザーマッパーに比べれば骨董品だが、電磁ノイズの多い迷宮内では、この無骨な機械のほうがよほど頼りになる。
カチ、とスイッチを押し、壁面へ超音波を照射した。
「幅三メートル、天井高三・二メートル。設計上の基準値からマイナス二パーセント。うん、やっぱり内側に膨らんでる」
胸ポケットから野帳を抜き出し、芯の丸くなった鉛筆で数値を書き込む。右手中指の第一関節には、長年鉛筆と定規を握り続けてできた巨大なタコが居座っていた。
俺は歩幅をきっちり七十五センチに保ちながら、一定のリズムで足を進める。
カツ、カツ、と安全靴が石畳を叩く。歩幅が狂うと歩測の精度が落ちるため、これは十四年間で体に刻まれた呼吸と同じ反射だった。
迷宮の「組み替え」。
それは二十年前に突如現れた迷宮が持つ、最も厄介な生態だ。一定周期で壁が動き、通路が繋がり、あるいは塞がる。浅層なら数ヶ月に一度、深層なら数日や数時間単位で地形が一変する。
だから世間では「迷宮の地図なんて一回組み替わればゴミになる消耗品だ」と言われ、地図屋の仕事も使い捨ての下請け作業と見なされてきた。
だが、完全にランダムな崩壊じゃない。人の通行による魔素の滞留、応力の逃げ場、迷宮全体が繰り返す歪みの蓄積――それらを丁寧に拾い集めれば、次にどこが閉じてどこが開くかは予測がつく。もっとも、そんなことを熱弁したところで、いまの業界には届かないのだが。
◇
北区画を抜け、第三層の行き止まりの広間に辿り着いた。枯れた噴水の縁に腰を下ろし、水筒の麦茶を喉に流し込む。
「ふう……ちょっと休憩にしますね」
カメラを少し引き、作業ジャケット姿を映す。無精髭の浮いた三十九歳の顔は、深夜の画面で見るといかにもくたびれていた。コメント欄がゆるゆると動く。
:おつかれー
:おっさん、ほんと歩き方綺麗だな
:足音のテンポがメトロノームみたい
:そういえばおじさん、なんでクランに入らないの?
:これだけ詳しいなら中堅クランでマッパーやればいいのに
流れた質問を見て、俺はお茶を飲み干すと乾いた笑いを漏らした。
「クランですか。いやあ……入ってたんですけどね。十四年間、ずっと同じところで」
:え、マジで?
:十四年!? 大ベテランじゃん
「名前は言わないでおきますけど、国内上位のところです。十四年、専属で地図を描いてました。深層の部隊までついていって、帰り道を引くのが俺の仕事でしてね」
:そんな大手がなんでまた……独立?
「いえいえ、ナビAIが安くて優秀だったんですよ」
自嘲混じりに言うと、コメント欄の文字がピタリと止まった。
:あ……
:察した
:オルタマップか……
:最近どこの大手も導入してる自動マッピングAIか
:人間使うより人件費浮くし、ミスらないって触れ込みだもんな
「そうそう。ある日、団長に呼ばれましてね。『志賀くん、時代が変わったんだ。これからは全自動で地図が生成される。手描きのマッパーに割く予算はないんだよ』って、丁寧に説明されまして。退職金も色をつけてくれたし、潮時だったんでしょう。解雇されてから、もう三ヶ月ですよ」
恨み言を言いたいわけじゃない。団長の鷺沼さんの判断は経営者として合理的だった。ドローンが飛び交い、自動でマップを組み立てる時代だ。足の遅い三十代後半のおっさんを混ぜる理由なんてどこにもない。
:世知辛いなあ……
:でも十四年も貢献したのに切られるのは辛いな
:おっさん、腐らず配信してて偉いよ
「他の中堅クランに行っても、『AIがあるからマッパーの雇用枠はないよ』って門前払いでして。貯金を取り崩しながら、暇つぶしに浅層を散歩してるわけです。歩いて測ってないと、自分が何者か忘れちゃいそうでね」
頭を掻く。無職の身で深夜に徘徊し、視聴者十数人の前で昔話をする三十九歳。情けないが、不思議と心は穏やかだった。十四年間の激務では味わえなかった静けさがここにはあった。
:ゆい:志賀さんの歩測の解説、すごく勉強になってます。迷宮記録の手帳をつける参考にさせてもらってます
「お、ゆいさん、ありがとうございます。でも新人のうちは、変な裏道を探そうとせず、公社が配る公式ルートマップを信じてくださいね。あれが一番安全ですから」
:ゆい:はい、肝に銘じます……!
「さ、別ルートを回りながら出口へ向かいましょうか」
よっこらしょ、と腰を叩いて立ち上がった。四十が近づいてから、しゃがんだあとの腰が重い。護身用のナイフを腰に確かめ、俺は再び歩き始めた。
◇
帰路は北区画の外周を回るバイパスルートを選んだ。先ほど「明後日あたり壁になる」と予告した通路を、反対側から確認して地上へ戻る算段だ。十分ほど歩き、目的の丁字路に差し掛かった。
「さて、ここを右に曲がれば、さっきの通路の反対側に――」
角を曲がった瞬間、俺の足が止まった。
「……あれ?」
目の前にあるべき幅三メートルの通路がなかった。そこにあったのは、見上げるほど巨大な一枚岩の分厚い壁だった。隙間なく噛み合わされた石肌には、先ほど見たばかりの青い苔が張り付いている。
壁だ。ほんの三十分前、俺が通り抜け、「明後日あたり壁になる」と言った場所が、完全に塞がれていた。
「……え?」
思わず声が漏れた。コメント欄が凄まじい勢いで流れ始める。
:??????
:は????????
:え、ここさっき通った道じゃね!?
:壁になってるんだが!?!?
:うわあああマジで塞がってる!!
:待って、さっき「明後日壁になる」って言ってなかった!?
:予言当たったああああああああ!!
:いや当たったどころじゃない、早すぎるだろwwww
視聴者たちが大騒ぎしている。だが、当の俺はといえば、冷や汗を流しながら頭を抱えていた。
「……二日も外した。うわ、だめだなあ俺……」
:そっち!?!?!?
:リアクションがおかしいwwww
:いやいやいや! 塞がったこと自体に驚けよ!!
:二日外したって、数十分で塞がる方が普通にヤバいだろ!!
「いや、ヤバいのは俺の勘ですよ。明後日って読んだのに、まさかもう始まってたなんて。さっきの風圧低下、歪みの蓄積じゃなくて、別の区画が動いて空気が抜けた余波だったのか……。くそっ、完全に読み違えた。これじゃ専属マッパー失格ですよ」
:失格も何も、普通人間は通路が壁になるなんて予測すらできねえから!
:数十分後に塞がる道を直前に見抜いてただけで神業だろ
:ゆい:……鳥肌が立ちました。本当に、壁が……
「いやあ、お恥ずかしいところを見せました。たまたまです。もし深層だったら大事故になるところでした。反省しなきゃなあ」
俺は壁を軽く叩いてため息をついた。十四年間背中を守ってきたからこそ、この二日の誤差は情けない。やっぱり勘だけに頼るようじゃ駄目だ。
「見苦しい失敗をお見せしたところで、今夜の配信はここまでにしますね。出口は南迂回路から抜けます。みなさんも早く寝てくださいね」
:失敗の基準がおかしいおっさん
:おつかれー、面白かった
:ゆい:お疲れ様でした。アーカイブ、何度も見直します
「はい、お疲れ様でした。それでは切りますね。おやすみなさい」
端末を操作して配信を終了する。ふう、と静かな迷宮の中に吐息が落ちた。カメラが消えると、ただの薄暗い石の迷路だ。測距器をしまい、俺は南側の迂回路へ歩き出した。
階段を上がり、地上ゲートをくぐったのは午前三時半を回った頃だった。ゲートを出ると冷え切った夜風が頬を打つ。
遠くの公社管理棟から、ウー、ウー、と低く重いサイレンが短く鳴り響いた。深夜の定期警報テストの音だ。街は寝静まり、駅前のコンビニだけが、ぽつんと明るい光を放っている。
「……明日の朝は、たまごサンドにしようかな」
千円札の入った財布を確かめながら、俺は誰に聞かせるでもなく呟いて、夜の歩道を歩き出した。




