第71話 棄却されたノイズ
翌朝の迷宮管理公社本部ビルは、朝の通勤ラッシュを終えたばかりの特有の喧噪に包まれていた。
エレベーターで五階へ上がり、重い防音扉を抜けて区画測量課の執務室に入る。整然と並んだ端末の画面に向かい、制服姿の職員たちが黙々とキーボードを叩いている。
「あ、志賀さん。早いですね」
課の入口近くの打ち合わせスペースで、宮原怜が書類の束を抱えて立ち上がった。三十二歳、いつも通りの隙のないスーツ姿だが、目の下には微かに徹夜の隈が残っている。
「昨日の照会申請、拝見しました。急ぎの案件ですか?」
「いや、急ぎというわけじゃないんだが……早めに確認しておきたくてね」
俺が差し出したファイルを、宮原はパラパラとめくった。
「過去五年分、第一層から第十二層までの公社自動観測ログおよび測量ログ全般の開示請求……ずいぶんと風呂敷を広げましたね。顧問業務の一環として受けるにしても、閲覧権限の範囲を超えています」
「そこをなんとか通せないかと思ってね。先日の第十二層での外れについて、報告書には書いたが、原因の背景を掴んでおかないと今後の安全審査所見にも影響が出る」
「……課長に話を通しましょう」
宮原はため息を一つ吐くと、奥の課長席へと向かった。
区画測量課長・柏木隆。四十八歳、保身と実績作りに余念のない典型的な官僚だが、話が通じない相手ではない。
宮原に促されて課長デスクの前に立つと、柏木は眼鏡のブリッジを押し上げながら、申請書に目を落とした。
「志賀さん、先日の新様式での所見提出、各方面で話題になっていますよ。現場のクランからは『数字が細かくて読みにくい』なんて不満も出ていますが、上層部や学術関係者からは極めて誠実な対応だと評価されています」
「恐縮です、柏木さん」
「で、今回のデータ照会ですが……公社の内部ログを外部事務所に持ち出すことは規程上できません。ですが、あなたが公社特別技術顧問として、月四日の稼働枠の中で庁内端末を使って閲覧・分析する形であれば、特例として決裁できます。条件は二つ」
柏木は人差し指と中指を立てた。
「一つは当然ながらの守秘義務。もう一つは、この分析によって得られた知見や成果物は、すべて公社区画測量課と共有し、将来的な測量基準の改定資料として課の実績に組み込むこと。……どうですか?」
「ええ、それで構いません。元より囲い込むような性質のものではありませんから」
俺が即答すると、柏木は満足そうに口元を緩めた。
「結構です。宮原君、端末室の入室カードと臨時アクセス権を発行してあげなさい。汐見君にも立ち会わせるように」
「承知しました」
◇
午後一番、地下二階にある公社中央端末室へ案内された。
サーバの冷却ファンが低く唸る薄暗い部屋の片隅で、端末の前に座っていた青年技官が立ち上がった。
「……志賀さん」
汐見航だった。二十七歳、公社のAI測量システム『オルタマップ』の運用管理を担当する技官だ。先日の報告会では、俺の「幅を削った判断」を誰よりも厳しく糾弾した男である。
「汐見さん、お手数をおかけします」
「いえ、業務ですから」
汐見は表情を変えずに言った。その一人称は常に「自分」だ。
「宮原さんから伺いました。過去ログとの照合だそうですね。ですが、公社の自動観測システムが記録した数値は、すべて所定の統計処理を経て異常値を排除した確定値です。志賀さんが個人の勘で集めた手控えと照合しても、有意な相関は出ないと思いますが」
「そうかもしれない。ただ、その『排除された異常値』を見せてもらえないだろうか」
汐見の眉がぴくりと動いた。
「……棄却履歴、ですか?」
「ああ。自動観測システムやAIが、定説や計算モデルと合わないとして『ノイズ』として切り捨てたログの一覧だ」
汐見は数秒間、黙って俺の顔を見つめていた。やがて、短く息を吐いて端末の前に座り直した。
「……分かりました。システム運用規程第三条に基づき、棄却ログの検索フィルタを展開します。ただし、それらはあくまでセンサーの誤作動や通信エラーとして正当に処理されたゴミデータです。そこに意味を見出そうとするのは、科学的な態度とは言えませんよ」
「分かっている。見てみるだけだ」
汐見の指先が滑らかにキーボードの上を走った。
黒いモニターに、膨大なデータテーブルが展開される。日付、階層、座標、センサーID、そして棄却理由コード。
画面には、赤い文字で『ERR_CYCLE_OUT_OF_RANGE(周期逸脱)』と記されたエラーがずらりと並んでいた。
「……階層ごとの棄却件数の比率を出せるかい?」
「可能です。全観測数に対する、周期逸脱エラーの発生率ですね」
汐見がスクリプトを実行する。数秒の処理時間の後、階層別の棒グラフが表示された。
俺と汐見は、同時に息を呑んだ。
第一層から第四層の浅層――発生率は〇・一%未満。ほぼ完全なノイズとして無視できる水準だ。
第五層から第九層の中層――発生率は〇・八%から一・五%へと微増。
そして第十層、第十一層、第十二層。
深層に足を踏み入れた途端、グラフのバーは跳ね上がっていた。第十層で四・二%、第十一層で七・八%、第十二層に至っては一二・四%。
しかも、そのエラーの詳細ログを追うと、棄却された数値のほとんどが『理論値より周期が短く、波形が前倒しになっている』という共通点を持っていた。
「……な、んだこれは」
汐見が眼鏡を外し、画面に顔を近づけた。その声からいつもの冷徹な響きが消えていた。
「第十二層では、十回に一回以上の頻度で周期逸脱エラーが出ている……? システムはこれを『深層高魔素によるセンサーの過渡的ノイズ』として規程通り自動破棄していました。規程の運用としては完全に正しい。ですが……」
「ノイズにしては、偏りすぎているな」
俺は画面を指差した。
「浅層では出ず、深い階層に行けば行くほど、明確に頻度が上がっている。これはセンサーの故障や個別の通信エラーじゃない。迷宮の深層そのものが、既存の理論値とは違う周期で動いている証拠だ」
汐見の喉が上下した。
「……自分たちは、システムが弾いたゴミの中に、本当の変動を埋もれさせていたというのか……?」
「汐見さん、あんたの運用が間違っていたわけじゃない」
俺は静かに言った。
「規程があるからこそ、システムは狂わずに動いてきたんだ。ただ、迷宮の奥底には、現行の規程やAIのモデルが拾いきれない領域があった。それだけの話だよ」
汐見は机に両手をつき、青白い光を放つモニターを見つめ続けた。
「……ですが志賀さん。このグラフから分かるのは『深いほど頻度が上がる』という定性的な傾向までです。このエラーが具体的にどんな規則性を持って発生しているのか、数式化することはできません。何より、第十三層以深のログが公社には存在しない」
「ああ。公社の常設観測網は、第十二層までしか届いていないからな」
俺の胸の奥に、冷たい輪郭を持った確信が落ちてきた。
傾向は掴んだ。だが、その先を解き明かすために決定的に足りないのは――公社の記録網すら届かない、第十層以深のさらに奥、深層の実測値だった。
◇
夕暮れ時。端末室を出て、五階の廊下を歩いていると、宮原が自動販売機の前で缶コーヒーを飲んでいた。
「お疲れ様です、志賀さん。……汐見くんの顔色がひどく悪かったけれど、何か出たの?」
「いや、彼のせいじゃないよ。ただ、公社がこれまで捨ててきた数字の中に、無視できない傾向が見つかっただけだ」
俺は簡潔に、深度と棄却率の相関について説明した。
宮原は缶コーヒーを手に持ったまま、じっと耳を傾けていた。やがて、深く息を吐いて窓の外の夕焼けに視線を向けた。
「……困ったことになりそうね」
「困る?」
「ええ。もしあなたの言う通り、深層の組み替え周期そのものが理論値から外れて狂っているのだとしたら、それは個別の測量技術の話じゃなくなるわ」
宮原の横顔は、現場の探索者ではなく、制度を司る官僚の厳しさを帯びていた。
「これまでの公社の安全基準は、すべて『迷宮の周期は予測可能であり、誤差は技術の未熟さによるものだ』という前提の上に成り立っていたのよ。もし迷宮自体が本質的に不確定なブレを抱えているのだとしたら、現場の探索者に『幅のある数字』を渡し、誰がそのリスクを判断して責任を負うのか……今の公社の制度には、その受け皿がどこにもないの」
「受け皿……」
「そう。だからこそ、先日あなたが提出した新様式――確率と誤差幅を明記した所見が、庁内の一部で議論を呼んでいるのよ。あれは単なる一顧問の書類じゃない。将来的に『経路設計士』のような、不確実性を専門に扱う新しい職制を制度化しなければならないんじゃないか、という話が、幹部の間で出始めているわ」
経路設計士。その言葉の重みに、俺は少し気圧された。
「……制度の話は、俺には荷が重いな。俺はただの地図屋だ。目の前の図面が外れた理由を知りたいだけだよ」
「ふふ、そうね。あなたらしいわ」
宮原は薄く笑ったが、その目は笑っていなかった。
「でも志賀さん、あなたが調べれば調べるほど、周りは放っておかなくなるわよ。覚悟しておきなさい」
「善処するよ」
公社本部を出て、夕暮れの街を駅へ向かって歩きながら、俺は手帳を開いた。
公社の記録によって、手元の疑惑は確かな傾向へと変わった。
深いほど、周期の短縮と位相のズレが頻発する。
だが、その並びの先を埋めるためのデータは、公社にはない。第十三層から、さらに深い領域――単独で第十九層まで足を踏み入れた人間だけが、その記憶を持っている。
俺の頭に浮かんだのは、事務所のデスクでいつも静かに武器の手入れをしている、あの少女の横顔だった。




