第72話 聞かないという選択
翌日の午後。事務所の窓から差し込む日差しは白く濁り、製図台の上の書類を淡く照らしていた。
奥の席では十和田が机に分厚い地図帳を広げ、アズールへの提出資料と格闘している。桑原は銀行へ出かけており、部屋の中には鉛筆が紙を擦る乾いた音だけが響いていた。
壁に貼られた大判の模造紙。
昨日、公社の端末室で汐見と確認したデータを反映し、俺はいくつかの数値を青いインクで書き加えていた。
浅層での棄却率〇・一%。中層での一・五%。そして第十二層での一二・四%。
点と線は、深くなるほど再編間隔が短縮し、位相が前倒しになるという傾きを確かに示し始めている。だが、その青い線は第十二層の目盛りでぷつりと途切れていた。
その先――第十三層から第二十層までは、依然として真っ白な空白のままだ。
「……志賀さん」
背後から、衣擦れの音とともに声がかかった。
氷室灯だった。訓練用のインナーに薄手の革ジャケットを羽織り、いつものように感情の起伏を感じさせない黒い瞳で、壁の図面を見上げている。
「お疲れ様です、氷室さん。トレーニングの帰りかい?」
「はい。公社の地下演習場で、負荷三倍の模擬戦を三時間」
「相変わらず無茶をするな。……少し、いいかい」
俺は油性ペンを置き、壁の空白の領域を手で示した。
「公社のログを洗って、確かな傾向が掴めた。迷宮の組み替え周期は、深くなればなるほど短縮し、波形が前倒しになっている。俺が第十二層で外したのは、俺個人の勘の狂いじゃなく、迷宮そのものの変動だった」
氷室は無言で俺の言葉を聞いている。その視線は、第十二層の先にある白い空間に注がれていた。
「だが、公社の記録は第十二層までしかない。その先の深層で何が起きているのか、既存のどんな文献にも載っていないんだ。……氷室さん」
俺は一度息を吸い、静かに問いかけた。
「君は以前、単独で第十九層まで到達して、そこから二度撤退しているね。……あの時、第十二層から先で、何を見たんだ?」
室内の空気が、わずかに冷えたような気がした。
十和田の鉛筆の音が止まる。
氷室の黒い瞳が、わずかに揺れた。嘘をつくような目ではない。ただ、何かに固く蓋をするような、冷たい沈黙が二人の間に落ちた。
「……必要ですか」
返ってきたのは、問いに対する答えではなく、静かな問い返しだった。
「私の過去の撤退記録が、志賀さんの地図作りに必要でしょうか」
「ああ。もし第十九層でも同じような周期のズレが起きていたのなら、この空白を埋めるための唯一の手掛かりになる」
俺は二度目の問いを重ねた。
「君が何を感じ、なぜ引き返したのか。その時の状況を教えてほしい」
氷室は視線を壁から外し、自分の革手袋の縫い目をじっと見つめた。
「……私は、負けただけです」
「負けた?」
「深層の魔獣の圧と、空間の歪みに耐えきれず、自分の力が足りなくて引き返しました。それ以上の情報はありません。……志賀さん、午後の模擬戦の予約が入っていますので、失礼します」
氷室は頭を下げると、それ以上の言葉を待たずにきびすを返し、事務所のドアを開けて出ていった。
バタン、と静かに閉まるドアの音。
十和田がおずおずと顔を上げ、「志賀さん……」と声をかけてきた。
「いいんだ」
俺は三度目の問いを口にすることなく、ペンを握り直した。
仕事の場であれば、契約の履行や安全確保を理由に、情報を出せと迫ることもできたかもしれない。だが、氷室が今見せた拒絶は、探索者としての誇りや、誰にも触れさせたくない傷口のようなものだった。
無理にこじ開けて手に入れたデータなど、何の価値もない。
◇
夕方四時過ぎ。事務所の黒電話がけたたましく鳴った。
受話器を取ると、聞き覚えのある事務的で涼やかな女性の声が耳に届いた。
『お世話になっております。エージェントの七尾です』
「七尾さん。いつも氷室さんがお世話になっています」
七尾佳奈。三十五歳、氷室のマネジメントを担当する公社系エージェントだ。合理的で隙がなく、不当な契約を徹底して嫌うプロフェッショナルである。
『手短に本題に入ります。志賀さん、氷室さんの次の深層潜行――第十三層への降下口確定日程ですが、目処は立ちそうでしょうか』
「それが……申し訳ないが、まだ日程を切る段階にはないんです。先日の周期異常について公社データと照合している最中でしてね。確実な退路寿命が計算できないうちは、潜行届を出すわけにはいきません」
受話器の向こうで、微かに紙をめくる音がした。
『……志賀さん。お気持ちは分かりますが、こちらとしても無制限にお待ちするわけにはいかない事情があります。スポンサー各社との兼ね合いもあり、年内の最深記録更新に向けたスケジュールを、そろそろ確定させなければなりません』
「年内、ですか」
カレンダーに目をやる。秋も深まり、年内となれば残された猶予は二ヶ月あまりしかない。
『ええ。遅くとも来月半ばまでには、第十三層および第十四層へのアタック計画を公社に提出する必要があります。志賀さんの新様式――確率と誤差を明記する方針は理解していますが、日程そのものが白紙のままでは、エージェントとしてクライアントを守れません』
七尾の口調は冷静だったが、その背後には決して譲れない締め切りが存在していることが伺えた。
俺は息を整え、受話器を握り直した。
「七尾さん。お立場は理解します。ですが、うちの事務所は先日の様式改定以降『確率と誤差幅が算出できない潜行は請けない』という基準で動いています。数字が揃わないうちに焦って日程を決め、現場で命を落としては元も子もない。年内という期限は頭に入れておきますが、準備が整うまでは動かせません」
受話器の向こうで、長いため息が漏れた。
『……頑固ですね、志賀さんも。分かりました。ですが、年内というデッドラインだけは動かせない前提で進めてください。氷室さんにも伝えておきます』
「よろしくお願いします」
電話が切れた。
受話器を置くと、どっと疲労が押し寄せてきた。外の世界の都合が、じわじわとこの小さな事務所を包囲し始めている。
◇
夜八時。十和田がアズールの資料を抱えて帰宅し、事務所には俺と桑原の二人だけが残っていた。
桑原は帳簿を閉じると、給湯室から熱い番茶を二つ淹れて持ってきた。
「七尾さんからでしたか」
「ああ。年内に記録更新の潜行を組めとさ」
「厳しいですねえ。大手スポンサーがついてる最強探索者ともなると、個人の都合だけじゃ動けないってわけですか」
桑原は茶をすすり、製図台の脇に腰を下ろした。
「さっき、昼間の氷室さんとのやり取り、十和田さんから聞きましたよ」
「……十和田さんが?」
「ええ。『志賀さんが氷室さんに冷たくされた』って、半泣きで心配してました」
俺は苦笑した。
「冷たくされたわけじゃないさ。ただ、話したくないことを無理に聞き出そうとした俺が悪い」
「先生」
桑原が眼鏡を外し、疲れたように眉間を揉んだ。
「人間ってのはですね、身体の痛いところを触られると、誰だって反射で手を払いのけるんですよ。俺だって、膝が壊れた時のレントゲン写真なんて、誰にも見せたくないですからね」
桑原の視線が、自分の右足に向けられていた。
「氷室さんにとって、あの二度の撤退は、人生で初めて味わった『限界』だったんじゃないですか。人類最強だのなんだのと持て囃されて、一人で深層まで潜らされて……そこで引き返したことを、周りから『逃げた』とか『やっぱり女じゃ無理だ』とか言われたのかもしれない。そんなもん、他人にペラペラ喋れるわけがないでしょう」
桑原の言葉が、胸に重く突き刺さった。
「聞かれたくないことを聞き出すには、どうすればいいと思う?」
俺の問いに、桑原は眼鏡をかけ直し、薄く笑った。
「聞かないことですよ」
「聞かない?」
「ええ。聞かれたくない相手に質問責めにしたって、頑なになるだけです。……先生、先日のアズールの阿久津団長や、公社の汐見技官に何をやりました?」
俺はまばたきをした。
「……何をやったって、手元にあるデータを全部そのまま出しただけだが」
「それですよ」
桑原はポンと自分の膝を叩いた。
「先生は『信じてくれ』とも『契約してくれ』とも頼まなかった。ただ、自分が持っている確率と、誤差と、分からないことを全部机の上に並べて、『判断するのはそっちだ』って渡したんじゃないですか。だから相手も、自分の頭で考えて選んだんです」
桑原の言葉が、頭の中でカチリと音を立てて噛み合った。
そうだ。俺は何をやろうとしていたんだ。
氷室から情報を「聞き出そう」としていた。相手の懐に手を突っ込み、隠しているものを差し出せと要求していたのだ。
それは、俺が捨て去ったはずの、古い傲慢な専門家のやり方そのものだった。
「……そうか。聞き出すんじゃないな」
「ええ。先生の持っているものを、全部先に渡せばいいんです。嘘も隠しもせずに、手元の限界を全部並べて見せる。それを見て、話すか話さないかを決めるのは、氷室さん自身ですよ」
俺は立ち上がり、壁の模造紙の前に立った。
第十層、第十一層、第十二層。
俺の手元にある、みっともない失敗の記録と、狂った波形と、六つの未確認項目。
「桑原くん、手伝ってくれ」
「はい?」
「俺の持っている再観測データを、一枚の資料に全部まとめる。誤差も、ブレ幅も、分からない項目も、全部だ」
桑原は茶碗を置き、ニッと笑った。
「了解です、先生。残業代、しっかりつけておいてくださいよ」
夜の事務所に、再び紙を擦るペンの音が響き始めた。




