第70話 説明のつかない並び
朝の事務所は、古いエアコンの低い唸りと、電気ケトルが湯を沸かす微かな気泡の音に包まれていた。
雑居ビルの三階、かつて設計事務所が入っていたこの部屋の窓からは、迷宮管理公社の巨大な本部ビルが朝靄の向こうにぼんやりと見えている。
給湯スペースから戻った十和田結が、湯気の立つマグカップを製図台の脇に置いた。
「志賀さん、ほうじ茶です」
「悪いね、ありがとう」
「桑原さんが郵便受けを見てから上がるそうなので、もうすぐ来ると思います」
十和田はそう言ってデスクに戻り、手帳を開いた。
十九歳の新人探索者だった彼女を助手として正規雇用してからまだ日も浅い。月給二十二万円。事務所の台所事情は決して裕福ではないが、手帳にびっしり書き込まれた浅層の観測記録や現場での働きを見るたび、給与以上の価値をもたらしてくれていると実感する。
階段を上がる重い足音が響き、ドアが開いた。
「おはようございます、先生」
桑原巧が、やや右足を引きずるようにして入ってきた。二十五歳、膝の故障で前線を退いた元探索者で、経理と渉外を一手に引き受けてくれている。
「おはよう、桑原くん」
「先生、先日の件、正式に来ましたよ。クラン『アズール』の阿久津団長からです」
桑原は手にしたクリアファイルを机に置いた。
先月、俺が第十二層で予測を外した直後、公社へ提出した「新様式」の安全審査所見――確率と誤差幅、未確認項目を包み隠さず記載したあの書類を見て、最初にコンタクトを取ってきたのがアズールだった。
「内容は?」
「第三層の巡回経路設計です。新人が入ったので、落石と小規模沈降の起きやすい東側回廊を避け、安全に魔石を回収できるルートを一本引いてほしいと。料金は規定通り浅層の基本額で十二万円。前金で半額振り込む用意があるそうです」
「十二万……」
第十二層の一件以来、大手からの依頼は三件がキャンセルや延期になった。事務所の固定費は月額約八十万円。公社特別技術顧問の報酬四十万円と巡回同行で黒字を維持している状態だ。十二万の案件は小さくない。
「第三層か。午後から俺が入って――」
「あの、志賀さん」
澄んだ声が言葉を遮った。
十和田が両手を膝に置き、真っ直ぐに俺を見ていた。
「その案件、私一人に任せていただけませんか」
室内の空気が止まった。桑原が丸眼鏡の奥で目を瞬かせる。
「十和田さん、一人で?」
「はい。見積書の作成から現地の予備観測、設計図の納品まで、全部一人でやりたいんです」
指先がスカートの生地を握りしめていた。緊張しているが、瞳は揺れていない。
喉の奥に反射的な言葉がせり上がってくる。『まだ早い』、あるいは『自分が見る』。
先日、俺自身が予測を外したばかりだ。無謬の神話が崩れ、事務所の成果物に一つのミスも許されないという防衛本能が思考を縛ろうとする。
だが、思いとどまった。十和田の手帳の端は擦り切れるほどめくられている。ただ守るだけでは人は育たない。何より「自分一人の勘」で回すやり方に限界を感じていたはずだった。
「……条件がある」
俺は静かに言った。
「阿久津団長に出す見積書と経路設計図を、すべてうちの新様式で作ることだ。巡回可能時間帯を確率で出し、退路寿命には幅を持たせ、不確定要素を未確認項目として一覧化する。外れたときにどう外れるかを正確に書くのが今の看板だ。それを一人でまとめられるなら任せる」
十和田の表情が引き締まる。
「……分かりました。夕方までに初稿を作ってお見せします」
「ああ。見せてもらおう」
十和田は一礼すると席に戻り、猛烈な勢いで計算機を叩き始めた。
◇
昼過ぎ、二人が昼食に出ている間、部屋には俺一人だけの静けさが戻っていた。
俺は製図台の上に数枚の記録用紙を並べていた。
先月の第十二層潜行で得られた実測データだ。潜行前の事前観測三日分と、撤退後に第十一層の恒久基準点から四日間にわたり取り直した再観測ログ。
紙面には黒いインクで曲線が引かれている。第十二層の変形圧推移。組み替えの際、壁面にかかる圧力の周期的変動を示す波形だ。
通常、第十二層規模の深層であれば、組み替え周期は十四時間から十六時間で安定する。それが過去の定説だった。
だが手元の波形は歪んでいた。周期が最短で十一時間二十分と短く、周期の波そのものが本来のタイミングより早く押し寄せる『位相の前倒し』が起きていた。
俺はこの短縮周期と位相ズレを自分のミスと誤認し、幅を消して『十四時間』と断定した結果、降下口の生成失敗と早期閉塞を引き起こしたのだ。
「……どうして合わないんだ」
報告書は公社に提出し、汐見技官からの追及も正面から受けた。外れは公的記録となり、顧問職も事務所の信用も紙一重で残った。終わった潜行のデータに拘る実務上の理由はない。
俺は心の中で、『報告書に書いた責任上、原因の輪郭くらいは掴んでおかないと経費が無駄になる』と誰に対するでもない言い訳を呟いた。
ただ、この説明のつかない波形が、喉に刺さった小骨のように引っかかっていた。
俺は資料棚の最下段から段ボール箱を引き出した。アルゴノート時代を含む過去七年分の野帳だ。三十冊以上の黒い手帳には、足を踏み入れたあらゆる階層の測量値が鉛筆で記録されている。
見たいのは、過去に『測り間違い』として処理した記述だ。現場で理論値と合わない数字が出た際、二重線で消し『再測により棄却』とメモした特異値。
「……第一層、なし。第三層、方位計の三度ズレ……普通の局所磁気だな」
浅層にはほとんど二重線がない。
次に中層から深層の手帳を開く。
「第七層、周期が四十分早い。二重線で消してメモ……第八層、一時間早い振動……これも消してある」
ページをめくる手が速くなる。
第九層、第十層、第十一層。深層に近づくにつれ、明らかに二重線の数が増えていた。
しかも傾向が一致している。すべて理論値より周期が短く、波形が前倒しになっているのだ。
四年前、アルゴノート主力隊で第十一層に入った日の記録には、こう書かれ太い線で消されていた。
『周期が合わない。三時間以上前倒しで波が来ている。自分の時計が狂ったか?』
背筋を冷たいものが駆け抜けた。
「……俺は、ずっと前からこれを消していたのか」
第十二層の件は突発的な異変でも勘の鈍りでもなかった。何年も前から迷宮の奥底で狂った周期が脈打っていたのだ。そして俺は未熟さや機材のせいにして塗りつぶしてきた。
だが、これだけでは何も証明できない。野帳は個人の手控えに過ぎず、観測条件も機材の校正記録も揃っていない。『検証できないものを公的記録に載せるな』という汐見の正論が蘇る。客観的な証拠としては母数が決定的に足りない。
「……もっと揃ったデータが要るな」
◇
夕方五時を回った頃。
事務所の白い壁の前で、俺は大判の模造紙を広げていた。幅が一メートル以上ある紙は片側を留めると反対側が垂れ下がり、うまく平らにならない。
テープを口にくわえ背伸びをした瞬間、横から黒い革手袋の手がすっと伸びてきた。
無言のまま、模造紙の右上端がぴんと引っ張られ壁に押し当てられる。
「……あ」
振り返ると、いつの間にか氷室灯が立っていた。
フード付きの上着に大剣を背負った姿。足音もなく現れるのは相変わらずだ。
「……すみません、氷室さん。いつの間に」
「いま来ました。ドアが開いていたので」
「助かったよ。そこ、押さえててくれるかい」
「はい」
氷室が無言で支えてくれたおかげで、四隅をテープで固定できた。
壁一面の方眼紙。奥から顔を出した十和田が挨拶したが、氷室は軽く会釈を返しただけで壁を見つめている。彼女は何も尋ねない。なぜ紙を貼るのか、何を描くのか聞かず、ただ必要な手を貸して一歩下がった。
俺は油性ペンを取り、模造紙の左端に縦軸の目盛りを引いた。第一層から第二十層まで。下端には再編周期からの乖離時間――マイナス一時間、二時間、三時間と横軸を取る。
手元のメモを見ながら点を打った。
第十層――マイナス一時間二十分。
第十一層――マイナス二時間十分。
第十二層――マイナス四時間。
黒い点が斜めのラインを描く。だがプロットできたのはその三点だけだった。他はすべて空白だ。離れすぎていて規則的な傾きなのか偶然のブレなのか判別できない。
「……これじゃ、ただの落書きだな」
俺は息を吐いた。
「母数が、まるで足りない」
後ろから十和田が覗き込む。
「志賀さん、それ……第十二層のズレですか?」
「ああ。過去の野帳を見たら他の層でも似た前倒しがあった形跡があってね。ただ、俺のメモだけじゃ精度がバラバラで比較にならない」
「公社の記録は見られないんですか?」
十和田の素朴な問いに、俺は振り返った。
「公社なら、過去何十年分もの測量ログが同じ規格で保存されていますよね。汐見技官たちが使っているデータベースなら、確かな母数があるんじゃないでしょうか」
桑原も湯呑み片手に眼鏡の位置を直す。
「見られるんじゃないですか。先生は公社の特別技術顧問ですからね。学術的な照会申請なら無下に断る理由はないはずですよ」
公社のデータベース。何万件もの探索ログと、規格化された数値の山。あれと照合できれば、俺の個人的な疑念が思い込みなのか、迷宮全体の客観的な現象なのかが分かる。
「……そうだな。宮原さんに相談してみる価値はある」
ペンのキャップを閉めたとき、氷室が壁の三つの点をじっと凝視しているのに気づいた。瞳の奥に微かな揺らぎが見えたが、すぐに元の静けさに戻った。
「氷室さん?」
「……何でもありません。宮原さんに連絡するなら早い方がいいと思います。公社の手続きは時間がかかりますから」
「ああ、そうするよ」
俺はパソコンに向かい、区画測量課宛てのデータ照会申請書を作成し始めた。
壁に残された三つの黒い点。その先に広がる空白に何が描かれるのか、この時の俺はまだ測りかねていた。




