第69話 分からないと言う仕事
石室の冷気の中、氷室灯は黙ったまま図面を見つめていた。
その横顔には一切の感情が浮かんでいない。だが、紙面を滑る瞳の動きだけが、彼女の思考の激しい回転を物語っていた。
降下口の生成確率四割。退路寿命のブレ幅五時間以上。そして六項目の未確認事項。
俺は何も言わず、ただ静かに彼女の横に立っていた。「危ないからやめろ」とも、「行けるかもしれない」とも口にしない。背中を押すことも、腕を引くこともしない。
どのくらいの時間が流れただろうか。天井から落ちる水滴の音が十数回響いたあと、氷室が静かに息を吐いた。
「……志賀さん」
「ああ」
「今回は、引き返します」
その声には、何の迷いもなかった。
「……いいのか」
「はい」
氷室は図面を丁寧に四つ折りにし、俺に返した。
「四割の確率なら、賭ける価値はあります。敵がどれほど強大でも、私の剣が届くなら突破できます。ですが……退路が塞がる時間が読めないのは、私の戦闘力でカバーできる範囲を超えています」
彼女は自分の大剣の柄にそっと触れた。
「以前の私なら、突っ込んでいたと思います。死ぬか生きるか、確率のいい方を引けばいいと考えていました。でも……志賀さんの図を見て、分かりました。今の私には、退路が五時間縮んだときに自力で生還できる計算が立っていません」
氷室の言葉は、冷徹な自己分析に基づいていた。
誰かに止められたから諦めるのではない。渡された材料を自分の頭で検証し、自分の責任として「退く」という判断を下したのだ。
「……分かった」
俺は深く頷いた。
「戻ろう、氷室さん」
◇
第十層から第九層へ向かう連絡通路。安全区画を出てすぐの岩棚で、俺たちは腰を下ろして息を整えた。
背嚢を開け、銀色のアルミパックを取り出す。深層潜行用の非常用高カロリー携行食だ。
「……食べるか」
「はい」
氷室に一つ手渡すと、彼女は手慣れた手つきで封を切り、茶色いペースト状の塊をスプーンですくって口に運んだ。
「……相変わらず、ひどい味ですね」
眉一つ動かさずに、淡々と言った。
「深層用だからな。必要なビタミンと電解質を詰め込んだだけで、味付けなんて欠片も考えてない」
俺も自分のパックを口にし、そのあまりの不味さに苦笑した。鉄錆と大豆粉を混ぜて油で練り固めたような、喉を通るたびに顔をしかめたくなる味だ。
「本来なら、第十二層の奥で死に物狂いで胃に流し込むはずだったんだがな」
「ここで食べられて、良かったです」
氷室はもぐもぐと口を動かしながら言った。
「……みちひ……」
「え?」
不意に漏れ出た言葉に、俺は顔を上げた。
氷室は一瞬だけ口元を微かに引き結び、それから何事もなかったかのように視線を虚空へ逸らした。
「……志賀さん」
「ああ」
「次の観測データが出たら、また見せてください。私は、あの図の数字が揃うのを待ちます」
「……分かった。次はもっと読みやすいやつを用意しておくよ」
二人の間に流れる空気が、以前とは確実に違っていた。一方的に導き、一方的に従う関係ではない。過酷な暗闇を共有し、不味い飯を分け合う、対等な相棒としての手触りがそこにあった。
◇
帰還から三日後。迷宮管理公社、第一測量協議室。
長テーブルの向かい側には、区画測量課の宮原怜と、汐見航技官が座っていた。
「……以後の所見書式を、全面的に変更する?」
宮原が書類を手に取り、目を丸くした。
「ええ」
俺は二人の前に、新しい書式の見本を差し出した。
「今後、俺が公社特別技術顧問として提出する安全審査所見、ならびに当事務所が受託する全ての測量成果物において、単一の数字による断定を一切廃止します。降下口の生成予測は確率で、退路寿命は最短値・最長値・中央値の三層表記とし、現時点で判明していない未確認項目を必ず一覧として添付します」
「……馬鹿な」
宮原が眉をひそめた。
「そんな書類を出したら、現場の隊員は怖がって潜れなくなるわよ。『五時間のブレ幅がある』なんて書かれたら、どのクランだって腰が引けるわ。顧問としてのあなたのバリューも下がるんじゃないの?」
「下がって結構です」
俺は言い切った。
「篠塚さんの事故も、前回の俺自身の失敗も、すべては『専門家の断定』が現場の目を曇らせたことから始まりました。神話で人を安心させて死なせるくらいなら、怖がらせて踏み止まらせる方がよほどいい。現場に必要なのは、盲目的な安心ではなく、引き返すための正確な物差しです」
宮原は息を呑み、隣の汐見に視線を送った。
汐見は無言で書類に目を通していた。やがて、書類を机に置き、眼鏡の奥の瞳で俺をじっと見つめた。
「……自分は、賛成です」
汐見の口から出たのは、意外な肯定だった。
「検証可能なデータと不確定要素をそのまま提示する。これこそが、測量技官が取るべき本来の誠実さです。……志賀さん。あなたが以前の『外さない予言者』のままであるなら、自分はあなたを公社から排除すべきだと進言するつもりでした。ですが、この書式を採用されるのであれば、区画測量課として何ら反対する理由はありません」
「汐見くん……」
「宮原さん、これが科学です。主観的な確信ではなく、客観的な誤差を運用する。公社が目指すべき基準改定の終着点が、ここにあります」
汐見は俺に向かって、深く一礼した。
「正式に手続きを進めましょう。特別技術顧問としての報酬・月額四十万円、稼働月四日の条件はそのまま維持されます」
その日の夕方。事務所に戻ると、桑原が驚いた顔で電話を切ったところだった。
「……先生。新しい依頼です」
「どこからだ」
「中堅の探索隊『アズール』です。公社に新しく登録された先生の所見見本を見て、ぜひうちの深層遠征の事前評価をしてほしいと。『危険な幅を正直に書いてくれるナビゲーターを探していた』とおっしゃっていました」
十和田が顔を輝かせた。
「先生! 新しい依頼、入りましたね!」
「ああ」
無謬の神話は崩れた。だがその瓦礫の中から、自分自身の限界を正直に開示する専門職という、新しい信用が確かに芽生え始めていた。
◇
夜十時。静まり返った事務所の製図室。
俺は一枚の大きな方眼紙に、三つの波形を並べて書き込んでいた。
最初に見落とした事前観測データ。
第十二層で実際に直面した早期閉塞の実測ログ。
そして、先日の再観測で得られた新たな変形圧の推移。
「……合わないな」
十和田が横から覗き込みながら、首を傾げた。
「先生、やっぱりおかしいです。通常なら、沈降の波は階層ごとに一定の減衰を見せるはずなのに……この波形、まるで迷宮のどこか深い場所から、別の周期が押し寄せて干渉しているみたいに見えます」
「ああ。短縮周期と位相の前倒し。この二つが同時に起きている理由は、既存の迷宮力学では説明がつかない」
「どうしてなんでしょう」
「分からない」
俺はペンを置き、図面を見つめた。
分からないものを、分からないままにしておく。勝手な仮説で穴を埋めず、手元にただ生の事実として残しておく。
いつか、この歪んだ波形の意味が解き明かされる日が来る。その時まで、俺はこの説明のつかない数字の並びを、野帳に刻み続けていくだけだ。
◇
同じ頃。都心の一等地に拠点を構える、大手クラン『アルゴノート』の本部会議室。
重厚な円卓には、二人の男だけが残されていた。
団長の鷺沼恭平は、机の上に広げられた決算報告書と、スポンサーからの契約解除通知を冷たい目で見つめていた。その顔にはかつての余裕はなく、深い疲労と苛立ちが張り付いている。
「……主要スポンサーの撤退が、これで三社目だ」
鷺沼の絞り出すような声が、静まり返った部屋に響いた。
「大友の移籍以降、所属探索者の離脱も止まらない。界隈のランキングは十位圏外へ転落した。このままでは、次の更新期で公社認可等級すら引き下げられる」
円卓の対面に座る副団長・榊久史は、煙草を指先で弄んでいた。
「……鷺沼。現場は限界だ。ナビAI『オルタマップ』の深層フリーズが続いてから、みんな足が竦んでいる。中層の巡回で、一度態勢を立て直すべきだ」
「立て直す時間などない!」
鷺沼が机を叩いた。
「世間が求めているのはアルゴノートの完全復活だ。中層で小銭を稼いでも、ブランドの失墜は防げない。必要なのは圧倒的な成果だ」
鷺沼は立ち上がり、壁に掲げられた巨大な迷宮断面図の深部――第十五層のさらに下を指差した。
「深層への大規模遠征を敢行する。オルタマップの最新バージョンを投入し、未踏領域の開拓記録を叩き出す。それしか生き残る道はない」
「……本気か、鷺沼」
榊の眉が沈んだ。
「今のオルタマップに、そこまでの信頼性はない。深層の測量だけでも、外部の確かな専門家に……」
榊の言葉が途切れた。脳裏に浮かんだ男の名を、榊は口にしなかった。
「外部など不要だ」
鷺沼は吐き捨てた。
「我がクランの資本力と最新技術で深層をねじ伏せる。遠征計画の立案を急げ。来月中に部隊を編成する」
決定は下された。
崩れゆく巨塔が自ら破滅の深淵へと足を踏み出そうとしていることに、まだ誰も気付いていなかった。




