第68話 二度目の入口
第七迷宮、第十一層。冷え切った玄武岩の岩盤に、水銀柱の気圧計とレーザー距離計が並んでいた。
恒久基準点二番。岩肌に打ち込まれた真鍮のプレートに触れながら、俺は野帳に数字を書き留めた。
「……先生、変形圧の数値、出ました」
ヘッドランプの明かりの下、十和田結が息を白く弾ませながら端末のモニターを指差した。
「第十二層東側支道の周期データ……やっぱり、合っていません。通常なら十四時間から十六時間の間隔で訪れるはずの沈降波形が、今回は十時間五十分で立ち上がっています。前回よりもさらに早い」
「位相のズレは?」
「プラス二時間十五分です。完全に前倒しで波が来ています」
四日間の再観測。俺たちは同じ計測器を用い、同じ手順で第十一層と第十二層の境界を測り続けた。
結果は残酷だった。前回の外れは、俺の体調不良でも、手元のブレでもなかった。迷宮側の周期そのものが、教科書通りの理論値から大きく乖離していたのだ。
しかも、前回と今回でズレの幅が一定していない。短縮される時間も、位相が前倒しになる度合いも、測るたびに揺らぎを示していた。
「……規則性がないな」
俺は野帳を閉じ、暗闇の奥を見つめた。
「波形が縮んでいるのは確実だが、次にいつ、どの深さで再編が起きるのか、一本の線で予測できない。幅が……前回よりも広がっている」
「先生、何か新しい仮説とか……迷宮の奥で何が起きているか、見当はつきませんか」
十和田がすがるように尋ねてきた。かつての俺なら、経験則を総動員して「おそらく下層の魔素滞留が原因だろう」などと、もっともらしい理由をつけて安心させていただろう。
だが、俺は首を横に振った。
「分からない」
「……え」
「分からないものに、勝手な理屈をくっつけちゃいけない。それをやったのが、前回の『十四時間・該当なし』だ。数字が暴れているなら、暴れているそのままを図面に残すしかない」
事務所に戻った俺は、製図机に向かってペンを走らせた。
方眼紙の上に描かれたのは、いつものような「絶対に通れる一本の線」ではなかった。
降下口の生成確率――東側支道で四十二パーセント、北側迂回路で二十八パーセント、未生成の可能性三十パーセント。
退路寿命の上下幅――最短で四時間二十分、最長で九時間四十分。中央値七時間。
そして図面の右下には、かつて「該当なし」と書き殴った欄に、十和田の記録から抽出した六項目の未確認事項がびっしりと書き込まれていた。
答えを教える図ではない。判断の材料を差し出すための図だった。
◇
潜行前夜。事務所の製図室。
机の上に並んだ二枚の図面を、十和田が複雑な面持ちで見つめていた。
「先生……本当に、この図を氷室さんに渡すんですか」
「ああ」
「でも、こんなに確率とか幅が書かれていたら、氷室さんが迷っちゃいませんか? これじゃ、行けるかどうかも、いつ戻ればいいかも、全部氷室さんが自分で決めなきゃいけなくなります」
「その通りだ」
俺は図面をクリアファイルに収め、公社提出用の潜行届に印鑑を押した。
「俺が一本の数字を出せば、氷室さんはその通りに動く。前回の潜行で、氷室さんは『志賀さんの図だと考えなくていいから楽』と言った。……それは信頼じゃなく、判断の丸投げだったんだ。俺が間違えれば、氷室さんはそのまま死ぬ」
「……」
「篠塚さんの事故のあと、俺は公社に『不確実性の記載義務』を作った。現場に幅を知らせずに単一の数字で人を誘導するのは、欺瞞だ。自分が作った義務を、都合よく引っ込めるわけにはいかない」
翌朝、公社本部の区画測量課。
窓口で潜行届を受け取った宮原怜は、書類に目を落とした瞬間、目を丸くして顔を上げた。
「……志賀さん、これ」
提出された書類の『安全審査所見』の欄には、びっしりと数字と注釈が並んでいた。
『第十二層東側支道における降下口生成確率:推定四割。退路寿命:四時間二十分から九時間四十分の幅あり。中央値七時間。未確認項目:短縮周期の連続性、位相ズレの波及範囲、境界壁面の歪み係数等、計六点』
「前回と打って変わって、ものすごい幅ね」
宮原は眼鏡を外し、少し呆れたように息を漏らした。
「前の時は『十四時間・該当なし』って言い切っておいて、今度はこんなに不確定要素を並べるわけ? これを見た審査官がどう思うか、分かってるの?」
「ええ。ですが、これが再観測で得られた正確な事実です」
「……汐見くんが見たら、なんて言うかしらね」
宮原は苦笑し、手元の受付印を力強く押した。
「でも、これが手順書本来の姿よ。……行ってらっしゃい。無茶だけはしないでね」
「ありがとうございます、宮原さん」
◇
木曜日の朝七時半。第七迷宮の地上エントランス。
灰色の防壁に囲まれた昇降機ホールの前には、潜行準備を整えた探索者たちが行き交っていた。その中に、桑原巧と十和田結の姿があった。
「先生、予備のバッテリーと補給用ゼリー、多めに入れておきましたから」
十和田が俺の背嚢を整えながら言った。
「桑原くん、留守中の連絡は頼む」
「はい。講習の資料作成は進めておきます。……先生、無理だと思ったら、十層で引き返してくださいね」
桑原の言葉に頷いたとき、人混みを分けるようにして氷室灯が現れた。
黒いインナーの上に軽量の強化装甲を纏い、背中には一振りの大剣を背負っている。肌の露出を抑えた実戦装備。その佇まいは、周囲の探索者たちが思わず道を空けるほどに冷たく研ぎ澄まされていた。
「志賀さん。準備、できています」
「ああ。行こう」
俺たちは十和田と桑原に見送られ、大型昇降機へと乗り込んだ。
ガタガタと金属がきしむ音を立て、昇降機が暗黒の地下へと沈んでいく。第一層から第四層、中層を抜け、やがて第九層の終端へ。
「氷室さん。第十層の安全区画に着いたら、一度足を止めて話をしたい」
「分かりました」
氷室は短く答え、目を閉じて呼吸を整えていた。
第九層の終端で昇降機を降り、連絡通路をたどって第十層への進入路を歩く。
壁面を覆う青白い苔の光が消え、空気の密度が一気に増した。ここから先は、迷宮管理公社の通信中継も、地上への生配信も届かない。完全なる孤立無援の深層領域だった。
◇
午前八時四十分。第十層、恒久基準点一番の安全区画。
分厚い玄武岩で四方を囲まれた小さな石室に、俺たちの足音が響いた。
背嚢を下ろし、壁に背を預けた氷室が、静かな視線を向けてくる。
「志賀さん。今回の潜行ルートはどうしますか。予定通り、第十二層の東側支道まで直行しますか」
いつもの氷室だった。大剣の手入れを終え、俺が指し示す方角へ迷わず進む準備を整えている。
これまでなら、俺は即座に「東側支道へ向かう。所要時間は五時間、退路は確保してある」と答えていただろう。
だが、俺は背嚢からクリアファイルを取り出し、一枚の方眼紙を広げた。
「氷室さん。これを見てほしい」
石室の平らな岩肌に広げられた図面。そこに刻まれた赤と黒の数字を見て、氷室の眉がわずかに動いた。
「……これは?」
「再観測の結果をまとめた図だ」
俺は膝をつき、図面の数値を指差した。
「第十二層の変形圧を四日間測り直した。だが、周期の乱れは収まっていなかった。それどころか、前回の潜行時よりもさらに波形が崩れている」
「崩れている、とは」
「降下口が予定通りに生成される確率は、せいぜい四割だ。残りの六割は、前回のように穴が現れないか、全く別の場所に開く」
氷室は黙って俺の言葉を聞いていた。
「さらに、退路の寿命だ。前回は十四時間と見積もって、実際には六時間弱で塞がった。今回の観測値から計算すると、退路が保つ時間は最短で四時間二十分、最長で九時間四十分。振れ幅が五時間以上ある」
「……五時間」
「ああ。最悪の場合、東側支道に到達した時点で、すでに退路が塞がり始めている可能性がある。その場合、前回のように迂回路を走っても、生還できる保証はない」
重苦しい沈黙が、石室の空気を満たした。
天井から滴る水滴の音だけが、ポツリ、ポツリと響く。
氷室は視線を図面から上げ、俺の顔をじっと見つめた。
「……志賀さんは、どうすればいいと思いますか」
その問いは、無意識の依存だった。これまでの潜行で積み重ねてきた、「志賀の言う通りにすれば生き残れる」という確信の表れだった。
俺は喉の奥を締め付けるような渇きを覚えながら、唇を開いた。
「……分からない」
その五文字を口にした瞬間、心臓が跳ね上がった。
専門家として、ナビゲーターとして、絶対に言ってはならない禁句だと思っていた言葉。
だが、一度吐き出してしまうと、不思議なほど視界が澄み渡っていった。
「俺には、この先で何が起きるか分からない。降下口が開くかどうかも、道が何時間保つかも、言い切ることはできない。……俺が持っているのは、この四割という確率と、五時間の誤差幅、そしてこの六つの未確認項目だけだ」
俺は図面を両手で持ち、氷室の前に差し出した。
「志賀さん……」
「俺は、氷室さんに『行け』とも『退け』とも言わない。判断するための材料は、全部この紙の上に書いた。……これを読んで、氷室さんが自分で決めてくれ」
判断を奪わない。神話で人を動かさない。
それが、篠塚諒を死なせ、氷室灯を殺しかけた俺が、二度目の入口で選んだ唯一の仕事だった。
氷室は息を呑み、差し出された図面を見つめた。
やがて、彼女の細い指先が、方眼紙の端を静かに掴んだ。
大剣の柄から手を離し、両手で図面を持ち直す。その瞳が、紙面に並んだ無数の数字と確率の列を、一語一語、自分の頭で咀嚼するように追い始めた。




