第67話 値崩れ
月曜日の朝九時。志賀迷宮測量事務所の空気は、淹れたての茶の湯気にも温まらず、冷え切っていた。
板張りの床に置かれた事務デスクで、助手の桑原巧が帳簿と予約バインダーを開いている。その横では、十和田結が湯呑みを両手で握りしめたまま、板戸の隙間を見つめていた。
「……先生。先ほど、二件続けて連絡が入りました」
桑原が眼鏡のブリッジを押し上げ、抑揚のない声で言った。
「中堅クラン『白銀の風』から、来月の第七層西側迂回路の事前測量について、キャンセルの申し出です。『公社の事故報告書を拝見し、安全管理委員会で見送りを決定した』とのことでした」
「……そうか」
「もう一件は『トワイライト』です。第九層巡回ナビの日程を一度白紙に戻し、無期限の延期としたいと。実質的な解約です」
金曜日に公社へ提出した報告書と、週末に業界内へ回覧された事故ログ。その余波が、週明けの業務開始とともに正確な請求書となって届き始めていた。
先週末のクラン『ヴェルテクス』に続き、これで累計三件。解約が二件、無期限延期が一件。
「来月の予定表から大口案件が三つ消えました。失注による減収は約百十万円です」
桑原が電卓を叩く。硬い衝突音が静かな事務所に響いた。
「先生、失礼を承知で申し上げます。料金表の見直しと、受注基準の緩和を検討していただけませんか。現在の当事務所の料金は浅層一日十二万、中層日当十八万、深層は五十万から。相場の倍近いです。これは『志賀道久は外さない』という無謬の前提があったから通っていた価格です。看板に傷がついた以上、相場並みに戻し、十七項目の検証期間を短縮して枠を増やすのが商売の定石です」
「桑原さん!」
十和田が椅子を引いて立ち上がった。
「そんなのおかしいです! 先生は降下口が消えたあともすぐに迂回路を見つけて、氷室さんを無傷で連れ帰ったんですよ!? 誰も死んでないのに!」
「十和田さん、感情論じゃない」
桑原は帳簿から目を離さずに返した。
「客が買っていたのは『絶対に外れない安心』だ。外れても逃げ切れる技術じゃない」
「十和田さん、座りなさい」
俺は静かに割って入った。十和田は悔しそうに唇を噛み、腰を下ろした。
「桑原くん。計算はありがたいが、価格は下げない。受注基準も緩めない」
「……先生」
「事務所を作ったときに決めた基準だ。同時受注は三件まで、最低三日間の事前検証、十七項目の安全基準を満たさない短縮日程は受けない。苦しいからと安全マージンを自ら削れば、次は本当に誰かを殺すことになる」
桑原は数秒沈黙し、息を吐いた。
「……分かりました。では現状の数字で回す試算です。十和田さんの給料が二十二万、俺が二十万。家賃と通信費、機器消耗品と公社維持費で固定費は月約八十万円」
「ああ」
「三件消えても、公社の特別技術顧問料が四十万、講習の主任手当が月四回で計二十万。残った浅層定期巡回が二件。……今月の収支は、かろうじて三万円の黒字です」
「飯は食えるな」
「ええ。飢え死にはしません」
「なら十分だ。安全のための手順だけは、一円も値引きしない」
◇
だが、事務所の内輪で筋を通そうと、外の審判は容赦がなかった。
昼過ぎ、十和田がデスクの画面を睨みつけ、肩を震わせていた。
「……ひどすぎます、これ」
画面には、迷宮探索の掲示板と動画サイトのコメント欄が映っていた。深層は電波が届かないため生配信はできないが、提出カメラログを編集したアーカイブが昨夜公開されていた。
『結局、おっさんの勘なんてこんなもん』
『降下口すら当てられないのに五十万とかぼったくりだろ』
『氷室選手が一人で無双して逃げ切っただけ』
さらに十和田が開いたSNSには、かつて短縮案件を断った大手クラン『天狼会』の渉外・牧瀬篤の投稿があった。
『職人の経験則(笑)に大金払うとか正気を疑うわ。データに基づかないナビがいかに危険か公社報告書が証明してくれたね。うちが契約見送って正解だった』
露骨な当て擦りに同調が何千件も重なっている。
「先生、公社から反論を出してもらいましょうよ! 変な波形が出てたって報告書に書いてるのに!」
「反論してどうする。牧瀬さんの言う通り、幅を削って外したのは俺なんだからな」
そのとき電話が鳴った。桑原が取り、眉を寄せて保留にした。
「先生。『ダンジョンウオッチ』の相良さんからです」
かつて公社答申を報じた記者だ。俺は受話器を取った。
「志賀です」
『志賀先生。……単刀直入に伺います。今回の第十二層の予測外れについて、当誌で独占インタビューをお受けいただけませんか。「神話崩壊」と騒がれていますが、先生の報告書には重要なデータが含まれているように見えます。弁明の場を提供したいのです』
世間の風向きを変える好機だった。だが俺は首を横に振った。
「相良さん、取材はお受けできません」
『なぜです。今沈黙すれば、悪評が定着しますよ』
「弁明することなど何一つないからです。公社の報告書に、俺が見た事実と誤認の全量を書きました。あれが今の俺の全てです。再観測の前に紙面で言い訳を並べるような真似は、地図屋のやることじゃありません」
相良は絶句し、やがて重い溜息をついた。
『……相変わらず頑固ですね。分かりました。ですが観測結果が出たら、真っ先に取材させてください』
「ええ。正確な数字をお渡しします」
受話器を置くと、十和田が泣きそうな顔で言った。
「……先生って、本当に損な生き方ですよね」
「損くらいがちょうどいいさ」
◇
午後三時。公社近くの純喫茶『ルポ』。
薄暗い店内にジャズが流れる中、向かいの席の七尾佳奈がアイスティーのストローを静かに回していた。
「志賀さん。お呼び立てしてすみません」
氷室灯のマネジメントを担う公社系エージェント。その表情はいつものように事務的で端正だった。
「いえ。氷室さんの件ですね」
「ええ。単刀直入に申し上げます。灯を無傷で連れ帰っていただいたことには深く感謝しています。……ですが、次の潜行日程について調整が必要です」
七尾は手帳を開いた。
「再観測に四日、データ照合に二日。潜行は来週半ば以降と伺いました」
「ええ。波形の再現性を確かめるため、これ以上の短縮は不可能です」
七尾は視線を落とし、それから真っ直ぐ俺を見た。
「志賀さん。日程をこれ以上、後ろ倒しにし続けることは難しいのです」
「……どういうことですか」
「外部的な事情です。彼女ほどの探索者になると、スポンサー各社との契約や公社内外へのプレゼンス維持が絡みます。一定期間内に目に見える前進を示すことが、彼女を取り巻く環境を維持するために不可欠なのです」
七尾の言葉に微かな引っ掛かりを覚えたが、俺には「トップ探索者ゆえの周囲の期待と重圧」としか映らなかった。その背後に具体的な期限があるとは思わなかった。
「事情は分かります」
俺は姿勢を正した。
「ですが、確認を怠って潜ればまた退路を失います。焦って氷室さんを死なせたら、スポンサーどころの話じゃなくなる。それだけは譲れません」
七尾は静かに目を閉じ、小さく息を漏らした。
「……分かりました。では再観測直後――来週木曜の午前八時入域。これが私どもで確保できる最も遅いリミットです」
「……分かりました。木曜朝、第十層入口で」
七尾は立ち上がり、頭を下げて店を出ていった。手帳に『木曜・入域』と書き込みながら、俺は時間のない現実を噛み締めた。
◇
夜八時過ぎ。事務所奥の小さな台所。
インスタントの味噌汁を啜り、塩むすびのパックを開けていると、引き戸が静かに開いた。
「……こんばんは」
黒いタートルネック姿の氷室灯だった。腕の包帯は外れ、打撲痕も引いている。
「氷室さん。飯は食ったか」
「まだです」
「ならこれ食うか」
皿を差し出すと、氷室はパイプ椅子に座り、おにぎりを一口ずつ静かに食べ始めた。戦闘の鋭さは消え、ただの無口な娘に見えた。
「七尾さんと会ってきたよ。来週木曜に潜行を決めた。……だが、本当にいいのか」
氷室が手を止め、俺を見た。
「何がですか」
「俺の図で、もう一度潜るのかと聞いているんだ。報告書は見たんだろう。世間じゃ値崩れだの散々言われて、大口の依頼も切られた。……契約を解除して別の確実なナビを探すなら、今が一番いいタイミングだ」
氷室は咀嚼を終え、お茶を一口飲んだ。
「志賀さん。外した日も、戻れる道はありました」
「……え?」
「第十二層で道が崩れたとき、志賀さんは一秒も迷わず第三支流区画の迂回路を指差しました。四時間半、ずっと前を歩いて、私たちは第十一層の基準点に戻れました」
「あれは……ただの逃走だ。予測を外したことに変わりはない」
「違います」
氷室の声には鋼のような強さがあった。
「前のクランでは、道が消えたら終わりでした。パニックになって、怒鳴り合って、誰かが食われて、運良く助かるか見捨てるかでした。……志賀さんの図には、逃げる道が最初から描いてありました」
彼女は自分の掌を見つめた。
「私は外れない魔法を買いに来たんじゃありません。深層で生き残るために契約しています。あの日、私たちは生きて帰ってきました。……それ以上の理由が、何か必要ですか」
胸の奥を熱い杭で貫かれた気がした。
俺は自分が売っているのは「外さない予言」だと思い込んでいた。だが迷宮で本当に必要なのは、どんな変異が起きても泥に塗れて退路を拓き続ける地図屋だったのだ。
「……そうか。ありがとう、氷室さん」
「お礼は要りません。木曜、朝八時に行きます」
氷室は立ち上がり、空の皿を流しに置いた。
「……ごちそうさまでした。お味噌汁、温かかったです」
夜の闇へ消える彼女の後ろ姿を見送り、俺は製図机へ向かった。
引くべき線の輪郭が、確かに見え始めていた。




