第66話 弁明しない
帰還の翌日、午前四時。志賀迷宮測量事務所。
製図室の白熱電球の下、俺は机に向かってボールペンを走らせていた。左肩と両膝には湿布が貼られ、身体を動かすたびに鈍い痛みが走る。
卓上に置かれているのは、公社指定の『深層潜行事後観測報告書』の用紙だった。
常設帯同登録を持つナビゲーターは、深層から帰還後四十八時間以内に、全観測ログと行動記録を提出する義務がある。
一般的なクランの報告書であれば、ここは無難な文言で埋められるはずだった。『第十二層東側支道において予期せぬ局所地殻変動が発生したため、安全確保を最優先とし、指揮官判断により恒久基準点三番へ計画的撤退を実施』――そう書いておけば、公社の形式審査は何の問題もなく通過する。
だが、俺が書いたのはそんな当たり障りのない弁明ではなかった。
『事前所見:第十二層東側支道突き当たりにて午前二時十五分に降下口生成と予測。退路寿命は折返し起点より十四時間と断定。想定誤差および未確認項目は「該当なし」として届出』
『実測結果:予定時刻における降下口の生成は確認されず(完全な未生成)。第一退路は折返し起点から二時間半で閉塞。全退路の閉塞完了時刻は折返し起点から五時間五十分。所見の十四時間に対し、実測値は約八時間十分の早期閉塞を記録』
『要因分析:事前観測四日間において、既知の理論値から逸脱する短縮周期(最短十一時間二十分)および位相の前方遷移が観測されていた。しかし提出者はこれを自身の観測誤差および疲労による手元のブレと断定し、所見から誤差幅を削除して単一値として申告した。判断の完全な誤認である』
ペンを置き、長く息を吐く。
「……先生」
製図室の引き戸が開き、十和田結が入ってきた。まだ夜も明けきらぬ時刻だが、すでに身支度を整え、手にはクリアファイルを持っていた。
「十和田さん、早いな」
「先生こそ、傷の手当てをしたばかりなのに……」
十和田は痛ましそうに俺の肩を見つめ、それから机の上の報告書に視線を落とした。赤裸々に書かれた誤認と外れの記録に、彼女は息を呑んだ。
「ここまで……書くんですか? 事前観測で合わない数字が出ていたことまで書いたら、先生が分かっていて隠したみたいに受け取られちゃいます」
「隠したんじゃない。傲慢だったんだ」
俺は首を静かに横に振った。
「自分が外すはずがないと思い込み、幅を消した。そのせいで氷室さんを死なせかけたんだ。篠塚さんの事故のあと、俺は公社に『不確実性の記載義務』を作らせた。作った本人が、自分だけ例外にして失敗を糊塗するわけにはいかない」
十和田は静かに目を伏せ、持っていたクリアファイルを机の上に差し出した。
「……これ、使ってください」
中に入っていたのは、彼女が潜行前に整理していた観測記録表だった。
「四日間の波形の生データと、日ごとのズレをまとめたグラフです。先生の計算式と、実際の観測値の差分を全部並べてあります。……先生の判断が間違っていたとしても、この数字自体は、嘘をついていませんから」
「……ありがとう、十和田さん」
俺はその記録表を受け取り、報告書の末尾にホチキスで留めた。
◇
午前十時。迷宮管理公社、第二打合せ室。
長テーブルの向かい側には、区画測量課の宮原怜と、AI測量運用担当の汐見航技官が座っていた。
二人の前には、提出したばかりの事後観測報告書が広げられていた。
部屋を支配していたのは重苦しい沈黙だった。宮原は眉間に深い皺を刻んで唇を噛みしめ、汐見は一語一語を噛み締めるように書類を精読していた。
「……驚きました」
最初に口を開いたのは汐見だった。淡々としていたが、硬く研ぎ澄まされた声だった。
「志賀さん。あなたほどの専門家が、ここまで初歩的なバイアスに囚われていたとは思いませんでした」
「汐見くん!」
宮原が遮ろうとしたが、汐見は手を挙げてそれを制した。
「宮原さん、これは技術の話です。感情論で庇うべきじゃありません」
汐見は報告書を指先でトントンと叩き、真っ直ぐに俺を見据えた。
「事前観測で十一時間台という明らかな短縮周期が出ている。それを知りながら、公社の手順書が定める誤差幅の記載を怠り、『該当なし』として単一の十四時間という数字を届け出た。……これは過失ではありません。意図的なデータの棄却です」
「……そのとおりだ。弁解の余地はない」
「検証できないものを、公的記録に載せるな」
汐見の言葉は容赦がなかった。
「自分たちが扱っているのは人間の命がかかった迷宮のデータです。主観的な確信や職人のプライドで数字を丸められたら、自分たち制度側の人間は何を信じて手順を組めばいいんですか。あなたが幅を削ったその所見書を、もし他のクランが信じて同じ階層に潜っていたら、全員が圧殺されていましたよ」
「……ああ」
「なぜ、幅を書かなかったんですか」
「現場を迷わせたくなかった」
俺は静かに答えた。
「幅を渡せば、都合のいい数字を拾って死ぬ人間がいると思った。だが……それは俺の傲慢だった。現場に判断の材料を渡さず、俺一人の断定で人を動かそうとした結果が、このざまだ」
汐見は数秒間、俺の顔を見つめていた。職人に対する技術者としての失望と、自らの非を一切誤魔化さずに認める俺への奇妙な戸惑いが、その双眸に揺れていた。
「……報告書は、このまま正式に受理します」
汐見は書類をファイルに綴じた。
「訂正は求めません。あなたが書いた反省と全誤差のデータを、そのまま公社の測量データベースへ登録します。……柏木課長には自分から伝えておきます。今回の件で、特別技術顧問の解任動議が出ることはありません。ただし、あなたの予測が外れたという事実は、公的記録として残ります」
「分かった。ありがとう、汐見さん」
部屋を出ると、宮原が足早についてきた。
「覚悟しておきなさいよ。公社の報告書は、閲覧権限を持つ大手クランやメディアにもいずれ開示されるわ。『外さない男』の神話が崩れたって、連中が騒ぎ出すのは時間の問題よ」
「覚悟はできているよ、宮原さん」
◇
夕方十六時。志賀迷宮測量事務所。
事務所に戻ると、事務デスクの電話が鳴り響いていた。桑原巧が受話器を置き、苦い顔で振り返った。
「……先生。来月、第九層の巡回測量を予約されていた中堅クランの『ヴェルテクス』から、キャンセルの連絡です」
桑原の声には悔しさが滲んでいた。
「理由は『公社に提出された事故報告書を拝見した。深層で予測を外すようなナビゲーターに、うちの隊員を預けることはできない』と。……先方の一方的な都合なので違約金を請求できますが、どうしますか」
「違約金は要らない」
俺は上着を脱ぎながら言った。
「正規のキャンセル手続きで処理してくれ。……当然の反応だ」
耳が早すぎる。だが、それだけ界隈で俺の動向が注視されていた証拠でもあった。無謬のナビゲーターという看板が剥がれ落ちた瞬間、客が潮を引くように離れていく。記録を残すという選択には、相応の値段がつくのだ。
「先生……本当にこれでよかったんですか」
桑原が俯きながら呟いた。
「これでいいんだ」
俺は桑原の肩に手を置いた。
「嘘の数字で客を繋ぎ止めても、次に同じ形で誰かを殺すだけだ。減った一件分は、俺が講習のコマを増やして補うよ」
◇
夜二十時。
事務所の製図机には、氷室灯が静かに腰掛けていた。右腕には新しい包帯が巻かれていたが、姿勢の良さも静謐な佇まいも、昨夜と何一つ変わっていなかった。
「氷室さん。腕の怪我は大丈夫か」
「ただの打撲です。二日で治ります」
氷室は迷いなく答えた。
「志賀さん。次の予定について相談に来ました」
「……次?」
俺は驚いて彼女を見た。
「今回の潜行で、俺の予測が完全に外れたのは知っているだろう。公社にも外れの全量を提出したし、界隈では依頼のキャンセルも出始めている。俺との契約を考え直すなら、今だぞ」
「志賀さんは、嘘をつきましたか」
氷室の澄んだ瞳が、真っ直ぐに俺を射抜いた。
「いいえ。志賀さんは、現場で見た事実をそのまま記録に残しました。そして、私を生きてここまで連れ帰りました。……私は、深層で生き残るために志賀さんと契約しています。神話を買うために契約しているわけではありません」
彼女の言葉には、迷いも媚びもなかった。俺は深呼吸をし、胸の奥底の重たい塊を吐き出した。
「……分かった。再観測の段取りを組む」
俺は製図机に新しい方眼紙を広げた。
「同じ区間――第十一層から第十二層への変形圧を、もう一度、同じ手順で測り直す。分からないものに勝手な仮説を付けない。まずは数字の歪みをそのまま集める」
「はい」
十和田が隣で手帳を開き、カレンダーにペンを走らせた。
「来週の水曜日から、四日間の観測日程を押さえますね!」
「頼む」
事務所の灯りの下、俺たちは再び机を囲んでいた。
外さない男という虚飾は剥がれ落ちた。
だが手元には、狂い始めた迷宮の生々しい記録と、生き残った仲間たちの呼吸が残っていた。




