第65話 外れた
午前三時十五分。第十二層東側支道、突き当たり。
生成予定時刻であった午前二時十五分から、すでに一時間が経過していた。
正面の黒々とした岩壁には、亀裂一つ入っていなかった。空間の裂け目も、第十三層へ通じる竪穴の輪郭も現れない。ただの冷たい石の壁が、変わらぬ威圧感をもって立ち塞がっているだけだった。
「……志賀さん」
背後で警戒態勢を取っていた氷室灯が、短く声をかけてきた。
「変形圧の波形はどうなっていますか」
俺は測量儀の液晶画面から目を離せなかった。指先が、冷え切っていた。
「おかしい。……数値の上がり方が、事前観測のどのモデルとも一致しない」
画面上の変形圧グラフは、閾値を超えて水平に安定するはずの線が、予測の二倍以上の傾斜で垂直に跳ね上がっていた。それだけではない。波の頂点が異常な速度で崩れ落ち、周囲の空間へ魔素が逆流している。
降下口が開かないのではない。
空間歪曲のエネルギーが、この支道の壁ではなく、まったく別の――俺たちの予測の埒外にある場所へ逃げているのだ。
「生成されない」
俺は喉の奥から絞り出すように言った。
「降下口は開かない。外した」
口にした瞬間、心臓が冷たい氷水に浸されたような感覚が走った。
外れない男。絶対に迷わせない数字。篠塚諒の死を背負い、二度と誰も死なせないために研ぎ澄ましたはずの俺の計算が、今、完全に瓦解した。
「志賀さん」
氷室の声には、動揺も非難もなかった。
「指示を」
俺は測量機器の三脚を蹴り倒すようにして畳み、背負い袋へ押し込んだ。
「即時撤退だ。退路を戻るぞ!」
「了解」
二人が背を向け、支道を駆け出した瞬間だった。
ゴゴゴゴゴッ、と胃の腑を揺るがすような重低音が洞窟内に響き渡った。
背後数十メートルの天井から、数トンはあろうかという巨岩が崩落し、俺たちが先ほどまで立っていた突き当たりの空間を完全に埋没させた。衝撃波が背中を叩き、粉塵が視界を白く染める。
「走れ、氷室さん! 主幹通路へ出るぞ!」
◇
午前四時三十分。第十二層、撤退路。
暗闇の中を、二つのヘッドライトの光軸が激しく揺れていた。
足元の黒泥を蹴り飛ばしながら走り続ける俺の視界で、携帯端末の変位計が異常な速度で警報音を鳴らしていた。
「……嘘だろ」
俺は走りながら画面の数値を二度見した。
折返し起点である東側支道に到達したのが午前二時三分。そこから退路寿命は十四時間――今日の午後四時までは維持されるはずだった。
だが、手元の変形圧ログは、往路で通ってきた第一退路がすでに崩落・閉塞したことを告げていた。
折返し起点からの経過時間は、わずか二時間半。
「志賀さん、前方の分岐です!」
先行する氷室が立ち止まった。
予定していた最短の帰還ルートである『中央縦坑道』の入口は、天井から落ちてきた無数の巨石とねじ曲がった空間歪曲によって、完全に塞がれていた。
「第一退路、閉塞……! 十四時間もつはずの退路が、この崩れ方なら六時間ももたない……!」
午前二時に支道へ到達してから、最悪でも午前八時前には第十二層の全域が再編の圧力で圧殺される。残された時間は、三時間半を切っていた。
「志賀さん。第二退路への迂回は可能ですか」
氷室が剣を抜き、闇の奥を睨み据えた。
彼女の息は乱れていないが、両眼には鋭い戦慄が宿っていた。
「駄目だ」
俺は即座に叫んだ。
「第二退路も最短路と同じ地層を通っている! あそこも間もなく圧壊する! 自分の予測を信じるな……今の俺の計算は全部狂っている!」
頭の中で、何かが焼き切れる音がした。
十四時間という数字を公社に提出し、「未確認項目:該当なし」と書き切った自分の傲慢さが、氷室を死地へ引きずり込んでいる。
だが、絶望に浸っている暇は一秒もなかった。
俺は野帳をむしり取るように開き、ペンライトで照らした。
そこにあるのは、予測の計算式ではない。二ヶ月前にこの階層を歩き回り、泥と汗にまみれて測量した『壊れない構造の実績値』だった。
「西側の古層へ回る!」
俺は指を走らせた。
「花崗岩の連続柱が連なる『第三支流区画』だ! 通路は狭く、高低差が百五十メートルある。魔物も湧く。だが、あそこは三年前の広域組み替えでも崩れなかった実績がある! 距離は二倍以上、遠回りになるが……壊れない構造だけを繋いで第十一層へ這い上がるぞ!」
「分かりました。道を開きます」
氷室は迷うことなく、西側の暗い亀裂へ身を躍らせた。
そこからの三時間あまりは、地獄のような撤退戦だった。
狭い岩盤の裂け目を這い進み、崩落しかける天井を氷室の剣が支え、湧き出る変異種の群れを彼女が血路を切り拓いて突破する。俺は測量儀を胸に抱きかかえ、転倒して肩と膝を岩肌に強打しながらも、足元の変形圧の波形を記録し続けた。
予測は捨てた。ただ、過去に壊れなかった岩盤の記憶と、足裏から伝わる振動のリアルタイムな手触りだけを頼りに、二人で暗闇を這い上がった。
◇
午前七時五十分。第七迷宮第十一層、恒久基準点三番。
ドサリ、と音を立てて、俺たちは冷たい岩棚の上へ倒れ込んだ。
背後で、第十二層へと続く竪穴が、凄まじい地鳴りとともに完全に閉塞した。巨岩同士が擦れ合う轟音と噴き上がる粉塵が、竪穴の底から吹き抜けていく。
時計を見た。
午前七時五十三分。
折返し起点である東側支道に到達した午前二時三分から、ちょうど五時間五十分。
十四時間もつと豪語した退路寿命は、実測五時間五十分で完全に潰え去っていた。
遠回りを選び、全速力で駆け抜けた四時間半の逃走劇。もし最短路に固執していれば、あるいは撤退の決断があと十分遅れていれば、俺たちは確実に第十二層の底で圧殺されていた。
「……はぁ……はぁ……」
俺は荒い息を吐きながら、血の滲んだ掌を岩棚についた。肩が激しく痛み、擦りむいた膝から生ぬるい血が流れていた。だが、骨は折れていない。軽傷だった。
隣で、氷室が壁に背を預けて座り込んでいた。
彼女のジャケットも泥と魔物の体液で汚れ、右腕の袖が裂けて青あざが覗いていた。それでも、彼女の双眸は澄み切っていた。
「……外した」
俺は搾り出すような声で言った。
「降下口の生成時刻も、位置も、退路寿命も……全部外した。十四時間なんて時間はどこにもなかった。俺が……間違えたんだ」
言い訳は一つも浮かばなかった。
機材のせいでも、地質のせいでもない。合わない数字を観測しておきながら、それを自分の手元のブレとして丸め、「該当なし」と幅を削って提出した、俺自身の過信が招いた結果だった。
氷室に罵倒される覚悟はできていた。「話が違う」「殺されるところだった」となじられても、頭を下げるしかなかった。
だが。
氷室は乱れた黒髪を払い、静かに息を整えると、淡々と言った。
「戻れました」
「え……?」
「志賀さんが選んだ西側のルートで、私たちは生きて第十一層の基準点まで戻れました」
彼女は自分の裂けた袖口を見つめ、それから俺を見た。
「降下口が開かなかったのは事実です。退路が早く塞がったのも事実です。でも、志賀さんが即座に撤退を決めて、崩れない道を選んだから、私たちは怪我だけで生きています。……違いますか」
その瞳には、恨みも失望もなかった。ただ、冷徹な事実の確認があるだけだった。
責められないことが、これほど苦しいとは思わなかった。
怒鳴られたほうが、まだ救われた。彼女の無条件の信頼は、傷つくどころか、ボロボロになって生還したこの瞬間すら、俺の退路設計に向けられていた。
◇
午後一時。第十層入口、地上への昇降機前。
ここまで戻ってくれば、もう空間崩落の危険はない。公社の緊急中継設備が設置されており、通信端末のアンテナが再び微弱に点灯し始めていた。
昇降機のゴンドラを待つ間、俺は壁際に座り込み、泥だらけの野帳を開いた。
撤退の最中、死に物狂いで記録し続けた第十二層の変形圧ログ。
震える指で数値を拾い、グラフに点を打っていく。
そこには――四日間の事前観測で見たものと全く同じ波形が、より凶暴に、より明確な形で刻まれていた。
再編の間隔が極端に短縮し、位相が前へ大きくずれている。
そして、退路が閉塞する直前の五分間、変形圧の波形がまるで別の意思を持ったかのように、規則正しい振動を刻んでいた。
「……俺の手元のブレじゃない」
俺は呟いた。
レンズの狂いでも、寝不足の錯覚でもなかった。
迷宮そのものが、俺たちが知っている規則とは違うリズムで動き始めている。
だが、それがなぜなのか、原因はまったく分からなかった。仮説を立てるための材料も、理論的な裏付けも、今の俺の手元には何一つ存在しない。
残ったのは、ただ一つ。
志賀道久の予測が初めて完璧に外れ、公社に提出した「十四時間・誤差なし」という所見が、完全な虚偽の記録になったという、冷酷な事実だけだった。
ガタガタと音を立てて、地上からの昇降機が降りてきた。
俺たちは立ち上がり、泥まみれの身体でゴンドラへと乗り込んだ。
地上へ戻れば、待っているのは現実の精算だった。




