第64話 予定どおりの二十時間
午前六時。第七迷宮第十層への降下孔。
垂直に百メートル以上も穿たれた巨大な竪穴の縁に立ち、俺と氷室灯は最終装備の点検を行っていた。
胸元の作業用端末のアンテナ表示が、三本から二本、一本へと減り、やがてピッと短い電子音とともに完全に『圏外』へ切り替わった。
第九層までは、迷宮管理公社が巨額の予算を投じて敷設した有線光ケーブルと中継増幅器によって、地上とのリアルタイム音声通信や探索配信が可能だ。しかし第十層以深――いわゆる『深層』と呼ばれる領域には、その文明の恩恵は一切届かない。
深層では、空間の再編周期が短縮し、迷宮固有の変形圧によって電波も光ファイバーも物理的に寸断される。外部からの修正指示も、遭難時の即時救助要請も通らない。ここで行われるすべての探索は、機材の内部ストレージにログを蓄積し、生還した後に『記録アーカイブ』として公社や動画サイトへ提出・公開されるだけだ。
足を踏み入れた瞬間から、完全に外界から切り離された二人きりの閉鎖空間になる。
「志賀さん」
背負い袋のチェストストラップを締め直した氷室が、静かに声をかけてきた。
「こちらの準備、すべて完了しています」
「よし。降りる前に、基準点の初期同期を取るぞ」
俺は携帯用の高精度変位計を取り出し、第十一層に設置してある恒久基準点一番から三番に向けてスキャニングパルスを放った。数秒後、液晶画面に三つの青いインジケータが点灯し、地下深くに打ち込んできた真鍮標の固有共鳴周波数と完璧に合致した。
「同期完了。恒久基準点三箇所、すべて健在だ。……降りるぞ」
「はい」
自動巻き取り式の降下機が軋んだ音を立て、二本の超高張力ワイヤーが暗闇へと吸い込まれていく。俺たちは冷たい魔素の濃霧の中へ身を投じた。
◇
正午。第十一層の主幹通路。
頭上から垂れ下がる無数の巨大な鍾乳石の間を、湿った冷気が吹き抜けていく。黒泥に覆われた足元には、時折、空間変形の前兆を示す青白い燐光が脈打つように走っていた。
この階層は、二ヶ月前の潜行で俺たちが徹底的に測量し、三箇所の恒久基準点を定礎した場所だ。どこに壊れない岩盤があり、どこが組み替えの断層線になるか、すべて俺の頭の中に叩き込まれている。
「前方、変異種二。距離四十」
十歩先を歩いていた氷室が、低く鋭い声で警告を発した。
「右回りの側道へ迂回するな、氷室さん」
俺は立ち止まらず、手元の測量端末の数値を読み上げながら即座に指示を出した。
「あと三分で右側の天井が七十センチ沈降して通路が絞られる。正面を突っ切るぞ。左手の段差を踏み台にして、一頭目を三十秒以内に処理してくれ。二頭目は踏み込みに合わせて足元を払えば、傾斜の落差で自滅する」
「了解」
氷室の身体が、重力を感じさせない滑らかさで加速した。
背中の鞘から抜き放たれた大剣が、燐光を浴びて青く閃く。
待ち構えていた体長三メートルを超える節足変異種が、鎌のような前脚を振り下ろした瞬間、氷室は俺が指示した左の段差を蹴り、空中へ身を躍らせていた。刃が肉を断つ嫌な手応えすら残さず、変異種の急所である頸部を一撃で両断する。
着地と同時に身を沈め、突進してきた二頭目の前脚の関節部を、撫でるような足払いで薙ぎ払った。巨体はバランスを崩し、俺が予告したとおり、まさにその瞬間に沈降を始めた亀裂の底へと滑落していった。
戦闘時間、わずか二十五秒。
「……クリアです」
氷室は大剣を払って背の鞘に納め、何事もなかったかのように俺の隣へ戻ってきた。呼吸の乱れ一つない。
人類最強の単独探索者。深層の魔物すら、彼女にとっては進路上の障害物を片付けるルーチンワークにすぎない。
「見事な腕だ。……だが、少し変だな」
俺は測量儀の液晶画面に目を止めた。
「通路の沈降が、計算より五分ほど遅れて始まった。誤差の範囲内だが……」
「進行に支障はありますか」
「いや。変形圧の絶対値は合っている。局所的な地質の硬さによるタイムラグだろう。問題ない」
俺はその五分の遅れを、野帳の端に小さく走り書きしただけで、深くは掘り下げなかった。
なぜなら、それ以外のすべての要素――通路の分岐、魔物の出現パターン、足場の崩落限界時刻――が、恐ろしいほどの精度で的中し続けていたからだ。五分のズレなど、完璧に組み上げられた行程表の上の微小なノイズにしか思えなかった。
◇
体感時刻で午後八時。第十二層、安全区画。
厚さ数メートルの天然の花崗岩で守られた小空洞で、俺たちは腰を下ろして休息を取っていた。
今回組んだ全行程二十時間のうち、実際に歩行や戦闘へ充てる予定なのは約六時間にすぎない。残りの十四時間は、要所要所での精密測量、変位計の再キャリブレーション、恒久基準点の信号捕捉、そして迷宮の再編波形が安定するのを待つための待機と休憩に割り振ってある。
深層探索の成否は、どれだけ速く歩くかではなく、どれだけ正確に止まるかで決まる。
携帯コンロの青い炎で湯を沸かし、真空パックの乾燥肉と固形パンを戻す。味気ない塩気と脂の匂いが、冷え切った洞窟に静かに満ちていった。
「どうぞ、氷室さん」
「いただきます」
氷室はスプーンを受け取り、淡々と口に運んだ。感情を交えない、ただ燃料を補給するかのような手慣れた所作だった。
「……志賀さん」
固形パンを飲み込んだ氷室が、ふと視線を上げて俺を見た。
「志賀さんの図面があると、とても楽です」
「楽?」
「はい。以前、一人で深層へ潜っていたときは、常に四方八方の音と気配を探り、退路が塞がっていないか、壁が迫ってこないかを自分で計算し続けなければなりませんでした。頭の中が常に熱を持って、焼き切れそうでした」
氷室は、無表情な横顔のまま言葉を続けた。
「でも今は、志賀さんが『ここを歩け』と言った道だけを見て、目の前の敵を斬るだけで済みます。志賀さんの言う時刻と数字を信じていれば、退路の心配をする必要がありません。……自分で考える手間が、ほとんどなくなりました」
「それは……地図屋冥利に尽きるよ」
俺は缶の茶を一口すすり、笑って答えた。
「探索者に余計な頭を使わせず、剣と足先だけに集中させるのが、ナビゲーターの仕事だからな」
だが、そのときの俺は気付いていなかった。
彼女が口にした『自分で考える手間がなくなった』という言葉の、本当の恐ろしさに。
それは無条件の信頼であると同時に、現場の探索者が持っていなければならない最後の防衛本能――「本当にこの道で合っているのか」「何か見落としはないか」という生存のための疑いの放棄でもあった。
俺が提出した幅のない単一の確定値が、彼女の研ぎ澄まされた警戒心を麻痺させ、確認の手間を奪い去っていたのだ。
◇
入域から二十時間後。午前二時。第十二層東側支道。
狭く曲がりくねった通路を抜けた先で、空間がぷつりと途切れていた。
幅十メートル、高さ五メートルほどの長方形の空間。その正面には、黒々とした巨大な一枚岩の壁がそびえ立っていた。
「ここが、東側支道の突き当たりだ」
俺は背負い袋を足元に降ろし、岩壁の前に立ち止まった。
手元の時計は午前二時三分。公社へ提出した潜行届に記載した予定時刻から、わずか三分しか狂っていなかった。
「完璧だ。予定どおり二十時間で折返し起点に到達した」
「この壁の向こうに、第十三層への降下口が開くんですね」
氷室が岩壁にそっと手を触れた。壁面は氷のように冷たく、微細な振動が皮膚を伝わってきている。
「ああ。四日間の事前観測データによれば、この壁の変形圧が閾値を超えるのが午前二時十五分。そこから空間の裂け目が広がり、第十三層への安定した竪穴が生成される」
俺は野帳を開き、提出した潜行届の控えの数値を指先でなぞった。
「降下口が開いている時間は、約二時間。その間に孔の深度、魔素濃度、足場の安定度を計測する。そして――」
俺は背後の暗い通路を振り返った。
「折返し起点であるこの場所に到達した時点から、退路寿命は十四時間。今が午前二時だから、今日の午後四時までは、第十一層の恒久基準点へ続く退路が完全に維持される。計測に二時間使ったとしても、復路の移動には十二時間の余裕がある」
「十二時間……充分すぎる時間ですね」
「そうだ。慌てる必要はまったくない」
俺たちは壁の前に腰を下ろし、測量機器の三脚を展開した。
すべてが予定どおりだった。入域からここまでの二十時間、何一つ狂いは生じなかった。俺の計算は完璧で、迷宮は俺の描いた図面どおりに呼吸していた。
午前二時十五分。
降下口が生成されるはずの時刻の針が、音もなく重なった。
俺は測量儀のファインダーを覗き込み、黒い岩壁を見つめた。
確信に満ちた静寂の中で、二人は、新たな深層への扉が開く瞬間を待っていた。




