第63話 合わない数字
午前四時。第七迷宮第十一層、恒久基準点二番。
頭上数十メートルの岩盤が、鈍い青紫色の燐光を放っていた。地上では夜明け前だが、深層に昼夜の境はない。ただ冷たい魔素の風が、絶え間なく皮膚を撫でていくだけだ。
この基準点二番は、先々月に俺と氷室が第十一層へ下りた際、四日間の観測を経て「組み替えの影響を受けない不変構造」として確保したテラス状の岩棚だった。背後には堅牢な花崗岩の柱がそびえ、足元には公社公認の真鍮製測量標が打ち込まれている。
「……志賀さん」
岩棚の縁に立ち、下方を見下ろしていた氷室灯が、短く声をかけてきた。
「変形圧の気流、変わりました」
「ああ。拾っている」
俺は岩棚の中央に三脚を立て、特殊測量儀のファインダーを覗き込んでいた。
ここから谷底のように深く切れ込んだ亀裂の底が、第十二層の天井部に当たる。第十二層で空間再編が起きる際、圧縮された魔素が細い通路を通り抜け、この第十一層の観測点へと噴き上がってくる。その波形を捉えることで、下の階層で何が起きているかを遠隔で推計できるのだ。
三脚の横に置いた野帳には、すでに三日分の波形グラフが赤と黒のインクで記録されていた。
だが――その数字の並びが、どうしても合わなかった。
「一日目の立ち上がりが午前四時十二分。二日目が午後六時四十五分。間隔は十四時間三十三分。……ここまではいい」
俺は呟きながら、三日目の数値を書き込んだ。
「だが、三日目のピークが午前四時五分に来ている。間隔が十一時間二十分しかない。既知の理論値より三時間以上も短い」
第七迷宮の深層における空間再編の周期は、公社の過去二十年の統計ログでも、俺自身の身体的な感覚でも、平均十四時間から十六時間とされてきた。これほど極端に短い周期で圧縮が繰り返されることは、計算上あり得ない。
「波形そのものは、どうですか」
氷室が静かに尋ねてきた。黒い前髪が、下からの風に微かに揺れている。
「立ち上がりの角度は正常だ。ただ、位相が狂っている。……波の頂点が前に倒れ込んでいるように見える」
「魔物の群れの移動による干渉でしょうか」
「いや、魔物の移動なら波形に細かなノイズが混ざる。これは完全に滑らかな単一波だ。空間そのものが、この周期で波打っている」
俺は自分の眉間を強く揉んだ。
ここ数週間、審査業務と講習で寝不足が続いていた。桑原の言ったとおり、行程表から休息が消えていた自覚はある。自分の眼が疲労で狂っているのか。あるいは、測量儀のレンズの校正が狂ったのか。
「……氷室さん。悪いが、もう一日付き合ってくれ」
俺は顔を上げた。
「三日分のデータで確定させる予定だったが、これじゃ潜行日を割り出せない。四日目の観測を追加させてほしい」
「分かりました」
氷室は一切の疑問を差し挟まずに頷いた。
「明日も同じ時刻に、ここへ入ります」
そして翌日の午前四時。
再度同じ手順で第十二層からの噴出圧を測定した結果は――無情にも、三日目と全く同じだった。短縮された周期と、前方へずれた位相。四日間の並びは、俺の知るいかなる公式にも当てはまらなかった。
◇
深夜一時。志賀迷宮測量事務所。
製図机の上に、四日分の観測データをプロットした大型のグラフ用紙が広げられていた。
机の向かい側には、十和田結が座っていた。彼女が手元のノートパソコンで清書した観測データの一覧表には、赤字でいくつかの異常値がマークされている。
「……先生」
十和田が画面を指差した。
「四日間の平均を取ると、再編の間隔は十二時間五十分になります。でも、最も短い区間は十一時間二十分で、最も長い区間は十四時間三十三分です。差が三時間以上あります」
「ああ。見ている」
「これだと、降下口の生成時刻に大きな幅が出ちゃいますよね。第十二層東側支道に到着してから、早い場合だと十時間で退路が塞がり始めます。遅い場合だと十四時間は維持できる計算になりますけど……」
十和田は真剣な表情で俺を見上げた。
「公社に提出する潜行届の退路寿命欄、どう書きますか? 『十時間から十四時間』って幅で出しますか」
俺は手元の万年筆を握りしめた。
十時間から十四時間。その四時間の幅を書類に書けば、公社は安全審査で難色を示すだろう。何より、現場で一緒に潜る氷室を迷わせることになる。
十時間しか持たないかもしれないと思いながら歩けば、行動が焦り、踏み込むべき場所で踏み込めなくなる。逆に十四時間あると信じ込ませれば、退路の寿命を見誤る。
俺は四日間の波形をもう一度見つめ直した。
十一時間二十分という短い周期が出たのは、観測時の気流の乱れか、俺の読み取り誤差である可能性が高い。過去二十年、第十二層でそんな短い周期が定着した前例はないのだ。俺の手元のブレを、そのまま迷宮の性質として書類に載せるわけにはいかない。
「……十四時間で出す」
俺は言った。
「え?」
「退路寿命は、折返し起点――第十二層東側支道への到達時点から十四時間と記載する。降下口の生成位置は東側支道の突き当たり。生成時刻は潜行開始から二十時間あまり、翌日午前二時十五分だ」
十和田は目を見張った。
「でも、先生……! もし十一時間のほうが本当だったら、三時間も早く退路が閉じちゃいます! せめて『十時間から十四時間』って幅を残して、未確認項目の欄にも波形の乱れを書くべきじゃないですか? 先月の先生なら、絶対にそうしていました!」
十和田の言葉が、胸に突き刺さった。
だが俺は、首を静かに横に振った。
「十和田さん。迷宮の深層で人を殺すのは、外れた数字じゃない。『どっちか分からない数字』だ。幅を渡された探索者は、極限状態で必ず都合のいい解釈を選んで死ぬ。……俺が責任を持って十四時間と言い切る。その時間内に氷室さんを連れて戻ってくるのが、俺の仕事だ」
「先生……」
「未確認項目欄には『該当なし』と書く。俺の手元のブレで、公社の審査を止めるわけにはいかない」
十和田は唇をきつく噛みしめ、それ以上は何も言わなかった。
だが彼女は、俺が指示した提出用の書類とは別に、四日間の観測データの詳細な差分をまとめた自分用の記録表を、手帳の間にそっと挟み込んでいた。
◇
翌朝九時。迷宮管理公社、区画測量課の窓口。
開庁直後の窓口は、潜行届や観測報告書を提出しに来た探索者たちで混み合っていた。カウンターの奥から、宮原怜が書類の束を抱えて現れた。
「あら、志賀さん。珍しいわね、自ら窓口まで来るなんて」
「宮原さん。来週の深層潜行届を持ってきた」
俺はカウンター越しに、完成した潜行届を差し出した。
宮原は受領印の入ったトレイに書類を置き、手慣れた仕草でページをめくった。
「氷室さんとの合同潜行ね。目的地は第十二層東側支道……第十三層への恒久降下口の特定。行程は移動と測量を合わせて往復約三十時間。……相変わらず綺麗な計画書ね」
だが、最後のページに目を落とした瞬間、宮原の指がピタリと止まった。
彼女は細いフレームの眼鏡を押し上げ、眉をひそめて俺を見つめた。
「……志賀さん。これ、本気?」
「何がだ」
「第七条の三の欄よ」
宮原は爪先で書類の最下段をコツコツと叩いた。
「『退路寿命:折返し起点から十四時間。想定誤差:なし。未確認項目:該当なし』……。あなた、自分で手順書に作らせた記載欄を、完全に無視してるじゃない」
「無視はしていない。該当がないから、なしと書いた」
「深層の第十二層で、誤差がゼロなんてあり得ないでしょ! あなた先月、事後検証会でなんて言ったか忘れたの? 『誤差を隠して絶対安全な神話を作るな』って、柏木課長や汐見くんに啖呵を切ったのは誰よ」
宮原の口調は鋭かったが、そこには純粋な危惧が含まれていた。
「他人を行かせる所見書と、自分が入る潜行届は違う」
俺は落ち着いた声で返した。
「他人に幅を渡せば現場が迷う。だが今回の潜行は、俺自身が氷室さんの隣で歩く。十四時間という数字は、俺が四日間の事前観測から導き出した確信だ。もし外れたら、その責任は現場にいる俺がすべて取る」
「責任を取るって……命を落としたら責任も何もないのよ」
宮原は呆れたように息を吐いた。
だが、現行の公社規則では、特別技術顧問の資格を持つ上級ナビゲーターが提出した潜行届を、記載不備以外の理由で窓口が不受理にすることはできない。形式上、「該当なし」と埋められている以上、受理せざるを得ないのだ。
「……わかったわよ。届出自体は受理する。形式要件は満たしているから」
宮原は備え付けの受領印を押し、控えを俺に返した。
そして、受付簿の備考欄に、万年筆で小さな文字を走らせた。
『所見欄、幅表記なし。顧問本人による単一確定値の申告』
「宮原さん?」
「公的な記録よ」
宮原は顔を上げず、淡々と言った。
「あなたが自分で背負うって言うなら、その背負った事実を記録に残しておくのが私の仕事よ。……絶対に無事で戻りなさいよ、志賀さん」
「ああ。分かっている」
控えを鞄にしまい、俺は公社のロビーを後にした。
手元に残った数字は「十四時間」。
四日間の観測データに刻まれていた奇妙なズレは、俺自身の確信という名のやすりで、綺麗に削り落とされていた。
答え合わせの時間は、目前に迫っていた。




