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追い出された地図屋のおっさん、暇つぶしの迷宮探索配信で人類最強に専属ナビを頼まれる〜元クランが深層で迷子になり「戻ってこい」と懇願してきた〜  作者: さくらろ
第8章 外れた日

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第62話 外さない男

 第七迷宮の広域組み替え事故から一ヶ月。


 十一月半ば、朝の事務所の窓ガラスには薄く霜が降りるようになった。石油ストーブの上でやかんが低く鳴っている。


 俺は製図机に向かい、公社から回ってきた来月度の「深層潜行計画書」をめくっていた。特別技術顧問の安全審査業務だ。各クランが提出した第十層以深への侵入経路と退路を書類上で点検する。


 机の脇には、先週改訂されたばかりの『迷宮潜行安全手順書』があった。


 表紙をめくると、第二章末尾に俺が提案した条文が太字で並んでいる。


『第七条の三(不確実性の記載義務):深層における構造予測および退路寿命の推計を行う者は、予測値とともに想定される誤差の幅、ならびに観測データの欠落項目を明記しなければならない。不確実性の記載なき所見は、潜行指揮官が採用してはならない』


 篠塚諒という二十三歳の青年が第七層で命を落とした。俺が見積もった時間の誤差のせいで死んだ。二度と同じ事故を起こさせないために作った規則だった。


 だが、今俺が審査書類の最下段「顧問所見欄」に書き込んでいる文面は、それとは裏腹のものだった。


『退路寿命:第七層東部連絡路において、変形圧ピーク到達後、五時間四十分を維持。未確認項目:該当なし』


 インクの乾きを待ち、角印を押す。


「……先生」


 背後から声がした。十和田結が湯気の立つマグカップを盆に乗せて立っていた。


「ありがとう、十和田さん」


「あの……先生」


 十和田はカップを置き、俺が印を押した所見欄に目を落とした。


「その書類……先月までは『五時間から六時間三十分、周辺区画の魔素滞留データ未確認』って書かれていましたよね」


「ああ」


 俺は書類を揃えて留めた。


「そう書いていたな」


「どうして幅を消しちゃったんですか? 手順書にも、誤差を書くようにって決まったばかりなのに」


 純粋な疑問だった。俺はコーヒーを見つめ、静かに息を吐いた。


「現場の人間はな、幅を書くと都合のいい数字しか見ないんだ」


「え……?」


「『五時間から六時間半』と書けば、焦るクランは六時間半まで持つと思い込んで奥へ踏み込む。慎重すぎる隊は五時間しかないと慌てて引き返し、怪我をする。人が迷うのは数字がないからじゃない。選べる幅があるからだ」


 篠塚のときがそうだった。区域Dの退路を幅つきで見積もったから、本部はまだ時間があると判断し救助の優先順位を後回しにした。


「幅を残すのは書き手の逃げ道だ。外れたときの言い訳にすぎない。現場の命を預かるなら、最初から限界の底を一つだけ提示して引き返させなきゃいけない。……俺が外さなければ、誰も死なない」


 十和田は唇を引き結び、何かを言いかけてやめた。


「……はい」


 彼女は小さく頷き、作業机へ戻っていった。


◇


 午後。公社本館地下の特別講習室。


 ホワイトボードの前には、「深層ナビゲーター育成講習」第二期生の若手探索者たちが座っていた。


 教室の隅の操作卓には桑原巧が座り、シミュレータの数値を淡々と切り替えている。


「――この事例を見てくれ」


 俺はホワイトボードに第七迷宮第八層の断面図を描き、等高線を引いた。


「亀裂幅が二ミリ拡大し、床面の魔素流速が秒速〇・四メートルを超えた。手順書に従えば計測誤差が十五パーセント発生し、退路寿命は『三時間二十分から四時間』と算出される」


 受講生が一斉にメモを取る。その一人が手を挙げた。


「志賀先生。現場で幅を出されると困るんです。結局、俺たちは何分で退却を決めればいいんですか? 先生ならどっちを信じますか」


 受講生の視線が俺に集まる。後ろで桑原の手が止まった。


 以前の俺なら「迷宮に絶対はない。最悪の三時間二十分を基準に、さらに引いて退け」と答えたはずだ。


 だが、今の俺の口から出たのは別の言葉だった。


「三時間二十分だ」


 俺は淀みなく言い切った。


「四時間という数字は忘れろ。この波形が出たら三時間二十分で閉塞が始まる。迷うな。その時刻になった瞬間、背中を蹴っ飛ばしてでも反転させろ。俺の言った時間どおりに動けば、絶対に閉じ込められない」


 教室の空気が弛緩した。青年は安堵して笑った。


「わかりました! 先生がそう言ってくれると腹が決まります」


『外さない男』。


 最近、公社やクランの連中が俺をそう呼ぶのを耳にしていた。広域組み替え事故で四十名を生還させたことで、「志賀の数字は絶対に外れない」という神話が一人歩きを始めていた。


 操作卓の桑原が、静かに手元に目を落としていた。その顔に晴れやかさはなかった。


◇


 夕方十七時。講習を終え、駅へ向かう商店街の道中。


 西日が赤く差し込み、冷たい風が落ち葉を巻き上げていた。俺と桑原は惣菜屋の軒先で唐揚げ弁当を待っていた。桑原は時折、右の太ももを拳で軽く叩いている。階段で痛むのだろうが、口には出さない。


「桑原くん、講習の進行、助かったよ」


「いえ、仕事ですから」


 桑原は前を向いたまま言った。


「……先生。最近のスケジュール、詰まりすぎてませんか」


「そうか? 新規依頼は同時に三件までという基準は守っているし、公社の審査も週に一度、講習も月四回だ。規則の範囲内だよ」


「規則の範囲内なのは知ってます」


 桑原は立ち止まり、俺を見た。


「でも、先生の行程表から休む場所が消えてます。前は潜行の合間に最低二日の完全休養日を入れてました。今は審査の翌日に講習を入れて、翌日には事前観測を入れている。頭がずっと迷宮に浸かったままです」


「動けるうちに動いておきたいんだ」


 俺は笑って誤魔化そうとした。


「固定費も毎月八十万かかる。二人に給料を払って家賃を払って機材を維持しなきゃいけないからな」


「俺たちの給料を理由にしないでください」


 桑原の声は硬かった。


「一番危ないのは、自分が疲れていることに気付いていない職人です。……先生の図面、最近すごく綺麗なんですよ。綺麗すぎて余白がない。現場の迷いが全部削ぎ落とされてるみたいで」


「お待たせ、唐揚げ弁当二つね」とおかみさんが袋を差し出した。


「ほら、できたぞ」


 俺は代金を払い、袋を渡した。


「心配してくれてありがとう。でも大丈夫だ。俺は現場で剣を振るわけじゃない。頭の中で線を引くだけだからな」


 桑原は袋を見つめ、それ以上は何も言わなかった。


◇


 夜二十一時。志賀迷宮測量事務所。


 大テーブルには、第七迷宮第十層から第十二層にかけての広域測量図が広げられていた。


 奥のパイプ椅子に氷室灯が腰掛けていた。黒いハイネックに厚手のジャケットを羽織り、膝の上に両手を重ねている。いつもの無駄のない佇まいだった。


「お待たせしました、氷室さん」


 十和田が湯呑みを差し出すと、氷室は「ありがとうございます」と頭を下げた。


「志賀さん」


 氷室の涼やかな声が響いた。


「第七迷宮、第十二層から第十三層への降下口の件です」


「ああ」


 俺は製図机から潜行計画書を持ってきた。


「今回の目的は、第十二層東側支道において、第十三層へ通じる恒久的な降下口の位置と生成時刻を確定することだ」


 氷室はかつて単独で第十九層まで到達した実績を持つ。だが深層の組み替えと空間錯乱により二度の撤退を余儀なくされていた。


 今回の潜行は彼女の最深記録を塗り替えるためのものではない。二人で確実に歩いて戻ってこられる安全な経路を、一層ずつ足元から固めていく長期計画の一段階にすぎない。


「第十二層は組み替え周期が中層より格段に速い」


 俺は図面の一角を指で叩いた。


「降下口は開きっぱなしにはならない。変形圧が閾値に達した瞬間に数時間だけ開き、その後は完全に壁へ戻る。場所を特定するだけでは駄目だ。何時何分にそこへ行けば開いているか、生成時刻を完璧に当てる必要がある」


「はい」


 氷室は迷いのない目で俺を見つめた。


「志賀さんの所見どおりに動きます。前回の第十層でも、志賀さんの指定した時刻に退路が開きました」


「……今回は、事前観測を三日取る」


 俺は言った。


「第十一層の恒久基準点二番から、第十二層へ伝播する変形圧の波形を三日間連続で拾う。その波を重ね合わせれば、降下口が開くピーク時刻を分単位で割り出せる」


「観測の開始はいつにしますか」


「明後日の未明だ。午前四時に第十一層に入る。三日分のデータを持ち帰り、解析して潜行日を決める」


「承知しました。準備しておきます」


 氷室は立ち上がった。


 そこには疑いや確認の余地が一切なかった。「もし波形が乱れたら」「時刻がずれた場合の退路は」といった安全マージンの確認が、彼女の側から完全に脱落していた。


 彼女は俺が絶対に外さないと信じ切っている。そして俺自身も、三日間のデータを取れば正確な一つの数字を出せるという確信を疑っていなかった。


「十和田さん、機材のバッテリーチェックを頼む」


「あ、はい! すぐやります」


「桑原くんは、公社へ提出する事前潜行届の書式を準備しておいてくれ」


「……わかりました」


 事務所の明かりの下で、それぞれの作業が始まる。誰も間違ったことはしていない。ただ、手順書から誤差が消え、行程表から休息が消え、言葉から迷いが消えていただけだった。


 外さない男という重い信頼を背負ったまま、俺たちは、狂い始めた深層へと向かおうとしていた。

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