第61話 行かせる者
第七迷宮の広域組み替え事故から一週間。
迷宮管理公社本部の大会議室には、張り詰めた空気が漂っていた。長テーブルの上座には相馬本部長と柏木課長、その隣に宮原と汐見技官が座り、向かい側に俺が一人で着席していた。
卓上に並べられているのは、今回の事故に関する「事後検証報告書」の束だった。
「――では、議題の第三項に移る」
柏木課長が咳払いをし、老眼鏡の奥の目を書類に落とした。
「今回の救助オペレーションにおいて、第八層および第六層への救助隊集中配置、ならびに第七層区域Dへの突入見送りの経緯についてだ。……公社上層部および広報部としては、本件を『現地対策本部による総合的・不可抗力的決裁』として一本化し、個別の技術判断の是非には踏み込まない方針で処理したいと考えている」
柏木は両手を組み、静かに俺を見つめた。
「志賀さん。君個人に過失があったなどと世間に公表する必要はない。君の予測が四十名の生還を導いた功績は極めて大きい。一部のメディアが順位判断の遅れを騒ぎ立てているが、あれは現場の過酷さを知らない外野の雑音だ。公社が全責任を負う形で幕を引けば、君の顧問としての立場も、今後の審査業務も傷つかずに済む」
保身ではなく、公社が外部の専門家を守るための、極めて真っ当でありがたい配慮だった。
だが俺は、鞄から分厚い黒表紙のファイルを取り出し、机の真ん中へ差し出した。
「柏木課長。これを、正式な検証資料として提出します」
柏木が眉を寄せ、ファイルを手に取った。隣の汐見技官が身を乗り出して表紙を覗き込む。
そこには、俺がこの一週間、事務所で徹夜を重ねて書き上げた全記録が綴じられていた。
「……『第七層区域Dにおける変形圧推計誤差および観測欠落項目の分析報告』?」
汐見が掠れた声で読み上げた。
「志賀さん、これは……」
「俺が当日作成した所見書の全データです」
俺は静かに口を開いた。
「区域Dの退路寿命を『最短一時間半、最長五時間』と見積もった計算根拠、その誤差幅を生んだ魔素還流の未確認項目、そして実際には翌朝まで退路が保たれ、推定の上限を五時間以上超えていたという乖離。すべてを数値化して記載しました。篠塚諒さんの推定死亡時刻が、俺の見送り判断から十一時間十分後であった事実も、一切の粉飾なくそのまま記してあります」
「志賀さん!」
宮原が立ち上がりかけた。
「これを公表したら、あんたの予測に誤差があったことも、見送りの判断の後で人が死んだことも、業界中に筒抜けになるぞ! せっかく『検証可能手順』として確立した技術に、傷がつくんだぞ!」
「傷ではありません」
俺は宮原の目を真っ直ぐに見返した。
「限界です。迷宮の構造再編を人が予測する以上、誤差は絶対にゼロにはなりません。不確実性を隠して『絶対安全な神話』として手順書を運用すれば、現場の指揮官はそれを盲信し、次に同じ状況が起きたとき、また同じ形で誰かを死なせます」
俺は相馬本部長に視線を移した。
「公社の手順書に、一項目追加してください。『救助順位判断に必要な観測項目と、その不確実性の記載義務』です。予測を出す人間は、当たる見込みだけでなく、外れる幅と、観測できていない項目を必ず書面に明記しなければならない。それがない所見は、指揮官が採用してはならない。……そういう規則にしてください」
会議室が、水を打ったように静まり返った。
汐見技官がファイルをめくり、幾重にも書き込まれた計算式と反省の注記を見つめていた。その手元が、微かに震えていた。
「……再現性の検証、完了しています」
汐見が顔を上げ、絞り出すように言った。
「志賀さんのこの記録は……痛烈ですが、完璧です。どの観測が足りなかったのかが完全に言語化されている。これを手順書に組み込めば、公社のAI測量にも即座に安全マージンとして反映できます」
柏木課長は長く息を吐き、組んでいた手をゆっくりと解いた。
「……分かった。志賀顧問の提出資料を正式採用し、手順書の改定案として理事会へ上げる。公表資料にも、この誤差報告をそのまま添付する」
決定が下された。
一人の職人が自分の失敗と限界を晒した紙が、公社の硬い制度を、確実に一段押し上げた瞬間だった。
◇
正午。会議を終え、本館の長い廊下を歩いていると、後ろから硬い靴音が近づいてきた。
相馬本部長だった。
「志賀」
相馬は俺の隣に並び、歩調を合わせた。
「降りるなら、今だぞ」
感情を交えない、低い声だった。
「君の所見書に不確実性の記載義務が入れば、君が次に出す判断の重みはさらに増す。人を助ける側ではなく、誰を先に行かせ、誰を待たせるかを決める側に、君はずっと立ち続けることになる。……耐えきれなくなる前に、顧問を降りる手もある」
俺は立ち止まり、窓の外の青空を見上げた。
辞めるという選択肢は、この一週間、何度も頭をよぎっていた。
元クランを追い出され、浅層で暇つぶしの配信をしていた頃は気楽だった。自分の足元の安全だけを気にしていれば、誰も死なず、誰も傷つかなかった。
だが。
「俺が降りても、相馬さん」
俺は相馬を振り返った。
「誰かがその順番を決めなきゃならないでしょう」
相馬の目がわずかに見開かれた。
「俺が降りて、また数字しか見ない人間が机の上で順番を決めたら、篠塚さんのような人間がまた暗闇に取り残される。……決めた人間が、何を見て何を間違えたのかを記録に残して背負い続けなきゃ、現場は変わらないんです」
俺は息を吸い、はっきりと言った。
「辞めません。顧問は続けます。ただし、判断の根拠と誤差は、毎回すべて記録として残させてください」
相馬はしばらくの間、俺の顔を無言で見つめていた。
そして、わずかに口元を緩めた。
「……勝手にしろ。来週から、公社の特別講習の第二期が始まる。主任講師の席を空けて待っているぞ、志賀顧問」
相馬は背を向け、大股で去っていった。
俺は自分の両手を見つめた。
人を行かせる側になる。他人の命を天秤に乗せる責任を、自分の意思で引き受ける。
それは誇らしい栄光などではなく、重く冷たい鉛の足枷を自らはめるような選択だった。
◇
夜二十時。志賀迷宮測量事務所。
事務所の製図机には、公社から支給された新しい業務用の野帳が置かれていた。黒いハードカバーの、分厚い測量手帳だ。
台所では、氷室がやかんを火にかけていた。シュンシュンと小さな蒸気が上がり、室内に温かい湯気が満ちている。
ソファでは、桑原がパソコンに向かって来週の講習生の名簿を整理し、その隣で十和田が、まだ少し赤みの残る目で手帳の整理をしていた。
俺は製図机の前に座り、新しい野帳の表紙をめくった。
真っ白な最初のページ。
俺は万年筆を手に取り、インクを吸わせた。
そして、定規も使わず、飾り気のない丁寧な筆跡で、一番上の行に文字を書き込んだ。
『篠塚諒 二十三歳 第七迷宮第七層』
その下に、推定死亡時刻と、俺が外した計算の誤差の数値を、小さく書き添えた。
ペンの走る音が止まると、背後から微かな気配がした。
十和田がそっと机の脇に立ち、野帳の最初のページを見つめていた。
「……先生」
「これは、俺の仕事の一部だ」
俺は振り返らずに言った。
「俺たちがこれから引くすべての線の下には、この名前がある。忘れないために、ここに書いておくんだ」
十和田は何も言わなかった。
ただ自分の胸ポケットから使い古した手帳を取り出すと、その最初の余白ページを開き、俺の文字を見つめながら、同じ名前を自分のペンで静かに書き写した。
カタ、と音がして、机の上に湯呑みが二つ置かれた。
湯気の立つほうじ茶だった。氷室が、いつの間にか三人分の茶を淹れて運んできていた。
「志賀さん」
氷室が湯呑みを指差した。
「来月三日の潜行、予定どおり行きます。第十一層の基準点四番から」
「ああ」
俺は湯呑みを取り、温かい茶を一口すすった。
「分かった。準備をしておこう」
事務所に、いつもの夜の時間が戻ってきた。
桑原のキーボードを叩く音。十和田の手帳をめくる音。氷室が静かに茶を飲む音。
助けられなかった命の名前を背負ったまま、俺たちは明日もまた、迷宮へ向かうための線を引く。
行かせる者としての、俺の本当の仕事が、ここから始まろうとしていた。




