第60話 責める声
第七迷宮の広域組み替え事故から三日後。
迷宮管理公社本部の二階にある面談室は、午後の鈍い日差しに照らされていた。灰色のスチール机を挟んで、黒の喪服を着た若い女性が背筋をピンと伸ばして座っていた。
篠塚沙智。二十七歳。第七層で死亡した個人探索者、篠塚諒の姉だった。
目元は赤く腫れていたが、決して涙は流していなかった。机の上に置かれた弟の遺品――泥で汚れた認識票と、画面の割れた携帯端末をじっと見つめている。
相馬本部長が公社としての弔意を述べ、補償手続きの書類について説明を終えた後、沙智は静かに顔を上げた。その視線は相馬を通り過ぎ、下座に座る俺の胸元に真っ直ぐ突き刺さった。
「……あなたが、志賀さんですか」
声は低く、震えていなかった。
「はい。志賀道久です」
「公社の特別技術顧問として、現場で救助の優先順位を判断された方ですね」
「そうです」
沙智は膝の上の黒いバッグを、両手で強く押さえた。
「弟が亡くなった時間……あの日の夜、二十二時半頃だと伺いました。……区域BやCの救助隊が引き上げた後、弟のいた区域Dへ救助班が入るのに、どうして翌朝までかかったのですか」
責めるような語気ではなかった。ただ、事実を確かめたいという乾いた問いだった。相馬が口を開こうとしたが、俺は手でそれを制した。
「俺が、区域Dへの進入を後回しにするよう所見書に書いたからです」
沙智の瞳がわずかに揺れた。俺は鞄から一枚の断面図を取り出し、机の上に広げた。
「あの日の午前十一時の時点で、公社が動かせる認可救助隊は三隊しかありませんでした。その時、第八層の区域Bには二十名、第六層の区域Cには七名が孤立していました。双方とも通路の変形圧が限界に近づいており、退路の寿命は四時間と三時間半と見積もられました」
俺は図面の上に指を置いた。
「一方、篠塚さんがいた第七層の区域Dは、主断層の余波による二次崩落の兆候があり、かつ生存者の正確な位置が特定できていませんでした。退路寿命の推定幅は、最短で一時間半、最長で五時間。最短の一時間半で崩れていれば、救助隊が第七層へ降り立った時点で、隊ごと退路を失います。位置を探すだけで数時間を空費する可能性もありました。俺は区域BとCに部隊を集中させ、区域Dへの進入を見送る判断を下しました」
沙智は図面を見つめた。鉛筆で引かれた線と数字が、整然と並んでいる。
「その結果……弟は、見送りになったのですね」
「はい」
「もし、先に弟のところへ隊を行かせていたら、助かっていましたか」
「当時のデータでは、区域Dへ進入させた救助隊そのものが二次崩落に巻き込まれて全滅する確率が四割を超えていました。ですが……結果論として、篠塚さんの推定死亡時刻は二十二時半でした。もしその危険を冒して隊を突入させていれば、間に合っていた可能性はあります」
「志賀顧問」
相馬が険しい声で制止しようとしたが、俺は視線を逸らさなかった。
謝罪はしなかった。「申し訳ありませんでした」と言えば、この場を道徳的に終わらせることができる。だがそれは、遺族の痛みを自分の免責と引き換えにする卑劣な逃げだ。
沙智は長く息を吐き、机の上の認識票を両手で包み込んだ。
「……謝らないんですね」
「俺が謝っても、篠塚諒さんは戻ってきません。俺が何を見て、何を見落とし、何を切り捨ててあの順番を決めたのか……その事実だけを説明するのが、俺の義務です」
沙智は唇を固く結び、ゆっくりと立ち上がった。
「納得はできません。……あなたを許すことも、絶対にありません」
沙智は深く一礼した。
「でも……嘘を言わずに全部答えてくださったことだけは、分かりました」
喪服の女性は、一度も振り返らずに部屋を出て行った。
◇
それから数日後。篠塚諒の密葬が都内の斎場で執り行われた。
俺は公社の関係者枠ではなく、一般の会葬者として末席に参列した。香典を納め、焼香を済ませ、遺族席に立つ沙智とは目を合わせることなく、そのまま斎場を後にした。
夜二十時。志賀迷宮測量事務所。
冷たい雨が窓ガラスを叩いていた。事務所の真ん中にある丸テーブルには、湯気を立てる大きな土鍋が置かれていた。鶏肉と白菜の水炊きだった。
俺、氷室、十和田、そして桑原の四人が席についていた。
誰も口を開かなかった。ガスコンロの低い燃焼音と、やかんの湯気、そして取り皿にポン酢を注ぐ音だけが静かに響く。
「……先生、鶏肉、火が通ってます」
桑原が立ち上がり、穴あきのオタマで具をすくって俺の鉢に入れた。右膝にサポーターを巻いた青年は、いつも通りの丁寧な手つきで四人分を取り分けた。
「ありがとう、桑原くん」
俺は箸を取り、熱い白菜を口に運んだ。出汁の味が染みていたが、喉を通るときに微かな熱さだけが残った。
向かいでは、十和田がうつむいたまま、箸の先で取り皿の豆腐を小さく崩していた。一口も口にしていない。その隣で、氷室はいつも通りの淡々とした速度で、椀の具を綺麗に平らげていた。
テレビのニュースが、小さな音量で流れていた。
『――第七迷宮の事故について、公社は四十名生還の救助成果を強調する一方、一部報道では、顧問の判断で後回しにされた区域についての疑問の声も上がっています――』
桑原が無言でリモコンを取り、テレビの画面を消した。部屋に雨音だけが戻った。
「……桑原くん。明日の公社との定例連絡、予定どおり入れておいてくれ。来月度の審査資料が届いているはずだ」
「わかりました。朝一番で取り寄せておきます」
誰も事件の話をせず、誰も死者の名前を出さない。ただ黙って飯を食い、明日の仕事を確かめ合う。その淡々とした時間がありがたく、同時にこの三人の生活を抱えている重みが肩に圧しかかっていた。
◇
夜二十二時を過ぎた頃。
片付けを終えた桑原が事務所を出て行き、室内には俺と十和田、氷室の三人が残っていた。俺は製図机に向かい、二日後の事後検証会に出す報告書にペンを入れていた。
背後で衣擦れの音がした。コートを着た十和田が、玄関の手前で立ち止まっていた。バッグの持ち手を強く握りしめている。
「……十和田さん? 忘れ物か」
十和田は答えず、肩を小刻みに震わせていた。そして顔を上げた。
その瞳には涙が溢れていた。張り裂けそうな恐怖と混乱が、その幼い顔を歪めていた。
「……どうして」
掠れた声だった。
「どうして、先に区域Dを見なかったんですか」
空気が凍りついた。十和田は言った直後に自ら青ざめて息を呑んだ。だが溢れ出した感情を止められなかった。
「区域Bも、区域Cも……大手のクランや、顔見知りの探索者がいたからですか……? 篠塚さんは、浅層の素材採取しかしていない、誰の知り合いでもない個人だったから……だから、一番最後にされたんですか……っ」
涙が頬を伝い、床に落ちた。俺を攻撃するための言葉ではない。
第三層で十一名を背負い、壁に手を当てて極限の恐怖を味わった彼女だからこそ、その裏で切り捨てられた一人の死を、自分自身の恐怖として直視してしまったのだ。
「十和田」
ソファの氷室が低く呟いた。立ち上がろうとする氷室を、俺は手で制した。
「いいんだ、氷室さん」
俺は立ち上がり、十和田の前に立った。
「大手だから優先したわけじゃない。だが……君の言うとおりだ、十和田さん」
十和田がハッと息を呑み、涙に濡れた目で見上げてきた。
「俺が図面の上で、可能性の低い区域Dを後でいいと判断した。頭の中にあったのは確率と数字だけだった。その数字の向こう側に、暗闇の中で助けを待っている生身の人間がいるということを、俺は見落としていた」
俺は十和田の目を真っ直ぐ見つめた。
「君がそうやって俺を責めるのは、完全に正しい。人を導く人間が数字だけで冷たく割り切って、誰もそれを責めなくなったら、この仕事は終わりだ。……言ってくれて、ありがとう」
十和田の目からボロボロと大粒の涙が零れた。
「……ごめんなさい……っ。私、そんなこと言いたかったわけじゃ……っ。先生が一番苦しいの、分かってるのに……っ!」
「帰って休みなさい。明日も仕事がある」
十和田は何度も頭を下げながら、逃げるように事務所を飛び出して行った。階段を駆け下りる足音が、夜の静寂に消える。
ドアを閉めて鍵をかけると、背後で微かな足音がした。氷室が隣に立っていた。
「……氷室さん。君は、俺を責めないのか」
氷室は淡い色の瞳で俺を見つめ、静かに首を横に振った。
「責めません。私は志賀さんの図面に従って、人を引き上げただけです。志賀さんが決めたから、四十人が生きています」
「だが、一人が死んだ」
「はい」
氷室は何の躊躇いもなく頷いた。
「迷宮では、人が死にます。私も、何度も仲間が死ぬのを見ました。……志賀さんが全部助けられると思うのは、傲慢です」
痛烈な言葉だった。だがそこには迷宮の最前線で命を削り合ってきた者だけが知る、剥き出しの真実があった。
氷室はそれ以上何も言わず、冷え切った事務所で俺の隣に立ち続けていた。
事後検証会まで、あと二日。俺は製図机に戻り、再びペンを握り直した。




