第59話 間に合わなかった
夜が明け、現地対策本部の窓から白々とした朝の光が差し込んできた。
卓上には何十枚もの紙コップと、冷え切った弁当の空き箱が積み上がっている。徹夜の職員たちの目は充血し、無線のスピーカーからは地上に引き上げられた探索者たちの処置状況が流れていた。
区域A、十一名生還。
区域B、二十名生還。
区域C、七名生還。
八隊四十一名中、三十八名がすでに家族や仲間の待つ地上へ帰った。公社広報室は「未曾有の広域再編における奇跡的な救助成果」として第一報をマスコミ各社に流し始めている。
だが作戦卓の前に立つ俺の神経は、張り詰めたままだった。
第七層最下部、区域D。
二次崩落の危険が最も高く、位置の特定が遅れていた最後の区画だ。そこには個人探索者三名が取り残されている。
「……志賀顧問」
汐見技官が端末の画面を俺に向けた。
「第七層の変形圧ログ、安定領域に入りました。第八層からの吹き返しも沈静化しています。……区域Dへの進入路、確保可能です」
「分かった」
俺は手元の推計図に赤いペンで進入ルートを引いた。区域BとCを片付けたら救助隊を再編して入る。昨日、十和田にそう答えた約束の消化だった。夜通しで装備を換装し、待機に入っていた公社第三救助隊が、ようやく動かせる。
「相馬本部長、公社の第三救助隊を投入してください。第七層南側回廊から保守用通路を経由すれば、二次崩落の余波を避けて三十分で現場へ到達できます」
「了解した。第三救助隊、発進。区域Dの捜索を開始せよ」
相馬本部長が短く指示を下した。
宮原が俺の隣に歩み寄り、冷めた缶コーヒーを一口すすった。
「これで全員揃うな、志賀さん。三十八名が無傷か軽傷で生還だ。公社設立以来、前例のない数字だぞ。上層部もあんたの手描き図面に完全に白旗を揚げてる」
「……まだ、三人が残っています」
俺は画面に表示された救助隊の生体センサーを見つめたまま答えた。
区域Dの進入見送り。昨日の午前、俺が自分の署名で決めた配分だ。
認可救助隊は三隊しかなかった。退路寿命が残り四時間を切っていた区域BとCに隊を割り当て、位置未確定でリスクの高かった区域Dへの突入は見送るほかなかった。当時の情報と計算において、それ以外の選択肢は存在しなかった。
だがそれは机上の正しさに過ぎない。待たされた側の三人が暗闇と冷気の中でどんな時間を過ごしていたのか、俺はまだ何も背負っていなかった。
救助隊の投入から二十八分後。
ノイズ混じりの無線が響いた。
『――本部! 第三救助隊、隊長の長谷川だ! 第七層下部・旧資材集積所の奥で要救助者三名を発見! ……二名は生存! 低体温症と脱水症状がありますが意識は清明、担架で搬送します!』
「よし!」
宮原が小さく拳を握りしめた。職員たちからも安堵のため息が漏れた。
だが長谷川の声は沈痛だった。
『……本部長。もう一名ですが』
長谷川の声が一瞬途切れ、室内のざわめきが凍りついた。
『――すでに心肺停止状態です。全身打撲および頸椎損傷による即死と見られます。崩落時に足場を失い、十メートル下の岩棚へ転落した模様です。蘇生措置を試みましたが反応はありません。……死亡を確認しました』
静寂が、作戦室を支配した。
四十一名という数字が、音を立てて砕けた。
四十名と、一人。
生きて帰った三十八名、今救出された二名。そして、冷たい岩棚の上で動かなくなった、顔も名前も知らない一人の人間。
「……遺体の収容を優先しろ。生存者二名の搬送を開始せよ。二次災害に注意して退出せよ」
相馬本部長の声は硬質だった。
通信が切れた。モニタの数字が四十名生存、一名死亡と書き換えられていく。喉の奥が異常に渇き、冷たい鉛を流し込まれたように胸が重くなった。
◇
午前十時。生存者二名は病院へ搬送され、遺体は管理棟の臨時安置所へ運ばれた。
相馬本部長が一枚の検視記録と救助隊の行動ログを持って俺のデスクへやってきた。宮原も無言で後ろに立つ。
「志賀顧問。現場の検視官から推定死亡時刻が出た」
相馬が書類を置いた。紙面に印字された黒い数字。
――推定死亡時刻:昨夜、二十二時三十分から二十三時頃。
息が止まりそうになった。
昨夜の二十二時半。第八層で榊たち二十名の生還を見届け、地上エントランスで氷室から「指示どおりにすれば、誰も死なない」と言われていた、まさにその時間だった。
そして何より――俺が区域Dへの進入見送りを判断し、所見書に自ら署名した昨日の十一時二十分より、十一時間以上も後の時刻だった。
もし。
もし俺が、区域Bへの割り当てを一隊削り、区域Dへ突入させていたら。その隊が二次崩落をすり抜けて辿り着けていたら。
二十二時三十分より前に、彼を引き上げることができたのではないか。
激しい動悸が胸を打った。指先が微かに震え、冷たい汗が額に滲む。
「……志賀」
相馬が平坦な、しかし有無を言わせぬ声で言った。
「考えるな。これは現地の本部長である私の判断だ。認可救助隊は三隊しかなく、二次崩落の兆候があった区域Dへ部隊を入れれば救助班そのものが全滅する危険があった。君の出した退路寿命の推定幅と危険度評価に基づき、私が命令を下した。君の責任ではない。本部の判断だ」
「相馬さん――」
「君が背負う必要はないと言っている。君の予測がなければ第八層の二十名は確実に死んでいた。四十名を生還させたのは紛れもない事実だ」
宮原も痛ましげな表情で口を開いた。
「相馬さんの言う通りだ、志賀さん。あの状況で、あのデータだけで区域Dへ行かせる選択なんざ、誰にもできん。後から時刻を照らし合わせて悔やむのは、ただの結果論だ」
二人の言葉は制度としても論理としても完全に正しかった。公社の顧問として俺は免責されている。法的な責任も職務上の過失も一切問われない。誰も俺を責めないし、誰も俺を罰しない。
だが俺は口を開かなかった。弁明も、自責の言葉も、何一つ出せなかった。
免責されたところで、二十二時三十分にその人間が死んだという事実は消えない。俺の書いた「見送り」の二文字が、その人間の最後の時間を、誰も助けに来ない暗闇の中に閉じ込めたのだ。
俺は震える指で野帳を開き、鉛筆を走らせ始めた。
昨日の所見書に書いた区域Dの退路寿命推定値――「最短一時間半、最長五時間。誤差幅三時間半」。その隣に、実際には翌朝まで退路が保たれていたという実測データと、検視官が記録した死亡時刻を書き込んでいく。
「……志賀さん。何をしてる」
宮原が訝しげに尋ねた。
「記録です」
俺は掠れた声で答えた。
「俺の引いた線のどこに誤差があったのか。どの観測項目が欠落していたから予見できなかったのか。……全部書き出しておかなければならない」
「今そんなことをしなくても――」
「今やらなきゃ消えてしまう」
俺は顔を上げずに言った。
「感情で処理して、運が悪かったとか、本部の責任だから仕方がないで済ませてしまったら、次も同じ形で誰かを死なせることになります。俺が間違えた数字と拾えなかった兆候を、全部紙の上に残さなきゃいけないんです」
相馬はそれ以上何も言わなかった。ただ、野帳に数字を刻み続ける俺の手元を静かに見つめていた。
◇
午後四時。撤収作業が始まり、がらんとした部屋の隅で俺はパイプ椅子に腰掛けていた。
廊下から足音が二つ近づいてきた。氷室灯と、十和田結だった。
十和田の顔は青白く、手帳を胸の前で固く握りしめている。氷室はいつもの無表情で黒のジャケットを羽織っていた。
「……先生」
十和田が恐る恐る声をかけてきた。
「区域Dの報告、聞きました。二人が助かって、一人が……亡くなったって。……先生、その人……」
十和田は唇を噛み締め、何かを言いかけた。
浅層で十一名を無事に帰した安堵など欠片もなかった。自分たちが救助に沸いていたその裏で、救助を後回しにされた区域で人が死んでいたという事実に、激しく怯えていた。
だが十和田は言葉を喉の奥で飲み込み、深く俯いた。
氷室は何も言わなかった。ただ俺の横に歩み寄り、パイプ椅子の脇に静かに立った。
「……名前が分かったよ」
俺は手元の野帳を見つめたまま言った。
「篠塚諒さん。二十三歳。公社に登録して二年の個人探索者だ。普段は浅層を中心に素材採取をしていたらしい。昨日たまたま知人に誘われて第七層まで降りていたそうだ」
二十三歳。十和田と四歳しか変わらない若者だ。俺とは何の一面識もない。
ただ迷宮に潜り、突発的な組み替えに巻き込まれ、そして見知らぬ中年男が書いた「見送り」という所見書の通りに、暗闇の中で助けを待ちながら息を引き取った。
区域Dという無機質な記号が、篠塚諒という一人の青年の名前に変わった瞬間だった。
「……志賀さん」
氷室が小さく呼んだ。
「何か」
「……いいえ」
氷室は首を横に振った。慰めの言葉も、同情の視線もなかった。ただ冷え切った部屋の隅で、彼女は俺の隣に立ち続けていた。
窓の外では夕闇が第七迷宮の巨大な外壁を黒く塗りつぶし始めていた。
俺の手の中には、篠塚諒の名前と、俺が外した計算の誤差が書き殴られた、冷たい野帳だけが残されていた。




