第56話 配分
作戦卓の上に広げられた第七迷宮の断面図には、四つの赤い円が残酷な現実を突きつけていた。
卓を囲むのは、本部長の相馬克巳、宮原、汐見、そして俺の四人だった。
「救助隊の編成は、先ほど確定した」
相馬がホワイトボードにマグネットを貼りながら、低い声で言った。
「即時進入可能な認可救助隊は、第一隊、第二隊、第三隊の計三隊だ。そして区域Aの第三層に関しては、公社の一般避難誘導班を充て、志賀事務所の十和田君が技術担当として帯同する。これで浅層の十一名はカバーできる」
「はい。区域Aの退路は比較的安定しています。十和田さんなら、十七項目の基準通りに安全な退出路を選べるはずです」
俺は頷いた。だが、問題はその先だった。
「残る認可救助隊は三隊。対して、救助を待つ区域は三つだ。……区域B、区域C、そして区域D」
宮原が額の汗を拭いながら、早口で言った。
「一隊ずつ、均等に投入することはできないのか? Bに一隊、Cに一隊、Dに一隊だ。そうすれば、どの区域も見捨てることにはならない。形式上も筋が通る」
「それは不可能です」
汐見が即座に端末の画面を向けた。
「区域Bは第八層です。アルゴノートの部隊を含め、二十名もの探索者が孤立しています。道中の崩落土砂の撤去と、二次崩落への防護隔壁の展開を考慮すれば、最低でも二隊を同時に突入させなければ、救助隊自体が閉塞に巻き込まれます。一隊だけで進入した場合の共倒れ確率は四十二パーセントです。二十名全員を地上へ引き上げるには、二隊による交代制の搬送ラインが不可欠です」
「……じゃあ、区域Cはどうだ。シルフィードの一隊、七名だ」
「区域Cは第六層です」
俺は鉛筆で作戦図の第六層西側をなぞった。
「負傷者一名を抱え、防壁を展開して籠城しています。ここは一隊を送り込めば、三時間以内に確実に全員を救出できます。退路寿命の余裕は三時間半。今すぐ部隊を突入させれば、確実に間に合います。だが、一隊も送らなければ、防壁のエネルギーが尽きた時点で全滅する」
「なら、区域Dはどうなるんだ」
宮原が呻くように言った。
「第七層下部。個人探索者が三名いる。……あそこには、誰を行かせる?」
作戦卓の上に、重苦しい沈黙が落ちた。
三隊の救助隊。
区域Bに二隊。区域Cに一隊。
それですべての戦力が尽きる。
「もし、区域Dへ一隊を割けばどうなる」
相馬が俺を見た。
「区域Bから一隊を削るか、区域Cへの進入を取りやめることになります」
俺は野帳に記した計算式を指でなぞりながら、感情を交えずに答えた。
「区域Bから一隊を削れば、第八層の二十名と救助隊が共倒れになる危険が跳ね上がります。区域Cへの進入を見送れば、防壁が尽きてシルフィードの七名が確実に呑まれます。そして何より――」
俺は区域Dの円を指先で叩いた。
「区域Dの三名は、正確な位置の裏が取れていません。第七層下部は地質が脆弱で、退路寿命の予測幅は一時間半から五時間と、極端に広い。もし一時間半の最短ルートで崩落が起きていれば、救助隊が第七層へ降り立った瞬間、すでに退路は消滅しています。位置を探すだけで数時間を空費し、救助隊自身が戻れなくなる危険性が極めて高い」
「……つまり」
相馬が冷徹な瞳で俺を射抜いた。
「最も多くの人間を生還させるための配分は、区域Bへ二隊、区域Cへ一隊。そして区域Dへの進入は……当面見送り。そうだな、志賀顧問」
見送り。
それは官僚的な表現だったが、意味するところは明白だった。
誰かを切り捨てる。
助かる見込みの高い二十名と七名を確実に拾い上げ、助かるかどうかも分からない三名を後回しにする。
数字がそう言っていた。迷宮の構造力学と、確率の計算が、冷徹にその答えを弾き出していた。
「……はい」
俺の喉の奥から、乾いた声が絞り出された。
「最も多く帰す配分は、これしかありません」
◇
午前十一時過ぎ。対策本部の奥にある小会議室に、俺と相馬の二人はいた。
机の上には、一枚の公文書が置かれていた。
『第七迷宮広域構造再編事案における救助隊初期投入計画・技術所見書』
相馬が万年筆を置き、腕を組んだ。
「本計画の決裁は、本部長である私が下す。全責任は公社保安課が負う。……だが、区域Dへの進入を見送り、区域BおよびCへ戦力を集中させた技術的根拠として、顧問の署名が必要だ」
書面には、俺が説明した通りの文言が並んでいた。
各区域の退路寿命の推計値。二次遭難リスクの比較。そして、区域Dにおける観測の不確実性と、進入見送りの判断。
ここに俺の名前を書けば、救助の順番を決め、三名の救助を後回しにしたのが誰であるかが、公の記録として永久に残る。
もし区域Dの三名が命を落とせば、遺族からも世間からも、「あの男が切り捨てた」と指を差されることになる。
「志賀顧問。断っても構わん」
相馬が静かに言った。
「君は民間人だ。制度の外から助言をしているに過ぎない。この所見書を本部の単独判断として処理することもできる」
逃げ道は用意されていた。
署名を拒否すれば、俺は「公社に意見を求められただけの専門家」として、傷を負わずに済む。
だが、俺は首を横に振った。
「いいえ。署名します」
「いいのか。これは君がこれまで背負ってきた『正確な地図』とは違うぞ。人の命の順番だ」
「判断の根拠を残さなければ、後で誰も検証できません」
俺は相馬の万年筆を手に取った。
「なぜその順番にしたのか。どんな誤差があったのか。現場で何が分かっていて、何が分かっていなかったのか。それを正確な記録として残さなければ、もし失敗したとき、次の誰かが同じ間違いを繰り返します。検証できない判断は、将来の誰かを殺すことになります」
壁の時計は十一時二十分を指していた。俺は所見書の末尾に、万年筆の先を落とした。
迷うことなく、自らの氏名を楷書で走らせる。
『公社外部特別技術顧問 志賀道久』
そしてその横に、注記として書き添えた。
『※区域Dの退路寿命推定における不確実性(誤差幅三・五時間)、ならびに現地座標の未確認項目を付記する』
インクが紙に吸い込まれていく。
俺自身の名前で、三人の救助を後回しにした。
その冷たい契約が、俺の魂の奥底に、決して消えない烙印として刻み込まれた。
◇
午前十一時半。地上管理棟の通用口から外へ出ると、湿った冷たい外気が頬を打った。
建物の陰にある自動販売機の青い光の下で、俺は立ち止まった。
ポケットから小銭を取り出し、投入口へ入れる。温かい缶コーヒーのボタンを押した。
ガコン、と重い音を立てて缶が落ちてくる。
取り出し口から缶を拾い上げた。
熱いアルミの感触。俺はプルタブに指をかけた。
だが――指先に力が入らない。
いくら指を引っ張ろうとしても、爪が滑り、プルタブがピクリとも動かなかった。
指先が小刻みに震えていた。
疲れているからじゃない。寒さのせいでもない。
――怖かったのだ。
自分の書いた一枚の紙で、今この瞬間も、地下深くで誰かが暗闇に取り残されている。その事実が、恐ろしくてたまらなかった。
「……志賀さん」
横から、静かな声がした。
振り向くと、大剣を背負った氷室灯が立っていた。
氷室は何も言わず、俺の震える手から缶コーヒーを抜き取った。
パキリ、と小気味よい金属音を立ててプルタブが開き、白い湯気が立ち上る。
氷室は開いた缶を、そっと俺の手のひらに戻してくれた。
「……ありがとう、氷室さん」
「私は、区域Bの突入隊に同行します。第八層の二十名を、必ず連れて帰ります」
「頼むよ。榊を……頼む」
そこへ、通路の奥から走ってくる足音が響いた。
「先生!」
息を切らせて駆け寄ってきたのは、ヘルメットを小脇に抱えた十和田結だった。浅層避難誘導班の装備を身につけている。
「十和田さん。もうすぐ出発か」
「はい! 第三層の避難口前まで、公社の警備班と一緒に入ります」
十和田は緊張で強張った顔をしていたが、その目は逃げていなかった。バインダーをしっかりと抱きしめている。
そして、十和田はすがるような目で俺を見上げた。
「先生……区域Dの三人は、あとで行くんですよね?」
その問いが、胸の奥深くに突き刺さった。
十和田も知っているのだ。区域Dが後回しにされたことを。
俺は湯気の立つ缶コーヒーを握りしめ、十和田の目を真っ直ぐに見つめた。
「……ああ。行くよ」
声が震えないように、それだけを答えた。
「区域BとCを片付けたら、すぐに救助隊を再編して入る。だから十和田さん、君は目の前の区域Aだけに集中してくれ」
「はい!」
十和田は力強く頷き、誘導班の待つゲートへと駆け出していった。
その後ろ姿を見送りながら、俺は空を見上げた。
日の差さない、鉛色の空だった。
必ず行く。そう口にした言葉の重みが、暗い迷宮の底へと沈んでいくようだった。




