第55話 広域組み替え
注意報の発令から三日目の朝。冷え込みの厳しい早朝の事務所で、固定電話のベルが鋭く鳴り響いた。
受話器を取った十和田が、相手の第一声を聞いた瞬間に血の気を引かせた。
「……え? はい、すぐ代わります! 先生、公社の区画測量課、宮原さんからです!」
俺は即座に受話器をひったくった。「志賀です」
『――来たぞ、志賀』
受話器の奥から聞こえる宮原の声は、怒号とサイレンの音にかき消されそうになっていた。
『午前六時十二分、第七迷宮の第五層から第九層にかけて、観測史上最大規模の構造再編が発生した。公社の入域管理システムが完全にダウン、通信中継網が第七層以深で途絶した』
頭の芯が、氷水を浴びせられたように冷え切った。
「中にいる隊の数は」
『予定通り入域していた八隊、計四十一名だ。ゲートへの帰還者はゼロ。現在、公社保安課が第七迷宮管理棟に現地対策本部を設置している。志賀、今すぐ来られるか』
「すぐに行きます」
通話を切ると、俺は上着を掴み、デスクの引き出しから最新の測量野帳と計算用紙を鞄に詰め込んだ。
「先生、私も行きます!」
十和田がコートを羽織り、記録用バインダーを抱え込む。
「桑原くん、事務所の電話番と、各クランの留守部隊への連絡確認を頼めるか」
「了解です、先生」
桑原が右膝を軽く叩きながら、力強い目で頷いた。
「地上でできる段取りは全部俺が回します。搬送車両の手配と、公社の広報ログの監視もやっておきます。気をつけていってらっしゃい!」
俺と十和田は事務所を飛び出し、公社の手配した緊急車両に飛び乗った。
予測が当たった。だが、その事実に安堵や優越感など一秒たりとも湧かなかった。胸を埋め尽くしていたのは、あの冷たい地下迷宮の底に、四十一人もの生身の人間が閉じ込められたという、圧倒的な数字の重圧だけだった。
◇
第七迷宮の地上管理棟。普段は立ち入りが制限されている大会議室は、通信機器の電子音と怒号が飛び交う戦場と化していた。
壁面の一面に投影された巨大な迷宮モニタには、ノイズ交じりのエラーメッセージが赤く点滅している。
『――オルタマップ第四世代、第六層・第八層のトポロジー再構築に失敗』
『深層中継ビーコンロスト。現在位置の推計不能』
「クソが! AIの自動測量が全く追いついてねえぞ! 再編後の通路が一本も繋がらん!」
公社の技官が叫ぶ中、中央の大型作戦卓の前に立つ屈強な男が、鋭い声でフロアを制した。
「怒鳴るな! 繋がっている回線を優先しろ。まずは入坑者の最終確認地点をリストアップだ」
公社保安課の相馬克巳。現地対策本部長に任命された男だ。白髪混じりの短髪に、感情を一切表に出さない冷徹な眼差し。
「本部長! 志賀特別技術顧問、到着しました!」
宮原の声に、相馬がゆっくりと振り返り、俺を見据えた。
「君が志賀顧問か。噂通りの男だな。注意報を出した時点で、これを見越していたのか」
「見越していたわけではありません。ただ、同期の波形から規模の拡大を危惧していました」
俺は作戦卓へ歩み寄り、鞄から手書きの変形圧推計図を広げた。
そこには、公社の最新AIが弾き出せなかった、再編後の第七迷宮の骨格が、鉛筆の濃淡で鮮明に描き出されていた。
「汐見技官、公社が最後に拾った第六層と第八層の音響歪みログを貸してくれ」
「は、はい! どうぞ!」
汐見から受け取った端末の波形データを、俺は即座に自分の図面と照合した。
「……やはりそうだ。今回の広域組み替えは、第五層の主脈断層を支点とした『連鎖的横ずれ』だ。第六層から第九層までの岩盤が一斉に時計回りに三十度歪んでいる。だが、完全に押し潰されたわけじゃない。主脈の圧縮に伴い、古い断層の隙間に『逃げの空洞』ができているはずだ」
卓の周囲にいた職員たちが息を呑み、俺の手元を覗き込んだ。
AIが「崩落」として赤く塗り潰した区画に、俺の鉛筆が次々と安全な空洞と通路の線を引いていく。
「相馬本部長。現在、四十一名が取り残されている領域は、大きく分けて四つの区域に集約されます」
俺は図面の上に、四つの丸を描いた。
「区域Aは第三層。浅層ですが、階段付近が一時的に土砂で塞がれています。避難者は十一名、軽傷者が二名含まれます」
「区域Bは第八層の主回廊。アルゴノートの榊副団長が率いる隊を含め、計三隊、二十名が孤立しています」
「区域Cは第六層の西側広間。シルフィードの一隊、七名です」
「そして……区域D。第七層の下部、断層の落ち込み区画です。個人探索者三名。ですが、彼らだけは最終交信ログが途切れており、正確な座標の裏が取れていません」
相馬は卓上の図面を鋭く見つめ、腕を組んだ。
「区域ごとの退路の残り時間――退路寿命はどう見積もる」
「区域Aは浅層のため、構造は比較的安定しています。退路寿命は約六時間。区域Bは主断層の真下ですが、強固な花崗岩盤に守られているため、約四時間の余裕があります。区域Cは三時間半」
俺は一度言葉を切り、区域Dの丸を指先で叩いた。
「問題は区域Dです。第七層下部は地質が脆弱で、今回の横ずれの歪みが最も集中する。退路寿命の推定幅は、最短で一時間半、最長でも五時間。……幅が広すぎて、確定的な数字が出せません」
「最短で一時間半、最長で五時間だと? 三時間半もの開きがあるのか」
柏木課長が眉をひそめた。
「ええ。第七層下部の亀裂は、第五層の歪みエネルギーを直接逃がす逃げ道になっています。もし上層の圧力が一気に解放されれば一時間半で通路は完全に押し潰される。逆に、岩盤が噛み合って持ちこたえれば、五時間は空洞が保たれる。現地にセンサーがない以上、机上の計算でその幅を縮めることは不可能です」
室内が重苦しい静寂に包まれた。
相馬は視線を俺の図面から離さず、低く呟いた。
「志賀顧問。本部の救助指揮は、君のその図面を唯一の技術的根拠として動くことになる。もし君の見積もりが外れれば、救助隊ごと迷宮の闇に呑まれる。……それでも、この数字でいくか」
「幅を消すことはできません。ですが、この図面に書いた物理的な構造特性に、嘘はありません」
俺は真っ直ぐに相馬の目を見返した。
相馬は静かに頷き、フロア全体へ向かって通る声を響かせた。
「これより、本対策本部の迷宮構造予測を志賀顧問の所見に一本化する。通信班、区域ごとの座標を救助部隊へ転送しろ!」
◇
午前九時半。管理棟の作戦室に、雑音交じりの無線通信が飛び込んできた。
『――ザザッ……こちら……アルゴノート第八層前進拠点……副団長、榊だ……誰か聞こえるか……!』
スピーカーから流れた声に、俺は思わずマイクを掴んだ。
「榊! 俺だ、志賀だ! 怪我人はいるか!」
『――道久か! 無事だ……全員生きている! だが、昇降シャフトが完全に塞がれた。通路の壁が数分おきに軋んでやがる。オルタマップは画面が真っ赤で使い物にならん。どうすればいい!』
「動くな、榊」
俺は即座に命じた。
「お前たちがいる第八層中央回廊は、周囲の岩盤が突っ張り合って一時的な安全地帯になっている。下手に退路を探して動けば、崩落区画に迷い込む。そこで待機しろ。必ず救助を行かせる」
『……分かった。お前の言う通りにする。頼むぞ、道久……!』
通信が途切れた。
生存の確認。だが、安堵している暇はなかった。
「本部長!」
通信班員が切迫した声を上げた。
「第六層のシルフィードからも短波受信! 負傷者一名、現在防壁を展開して籠城中とのことです!」
「よし、区域Cも生きてるな」
相馬が頷いた。だがその顔は険しいままだった。
作戦卓の脇で、装備を整えた氷室灯が静かに佇んでいた。手には大剣、腰には公社の緊急搬送用アンカー。
「志賀さん。私はいつでも行けます」
「氷室さん……」
頼もしい味方だ。だが、問題は戦力ではなかった。
「本部長、救助部隊の編成状況は」
俺が尋ねると、相馬は苦い顔でホワイトボードを指した。
「現在、公社が即時投入できる認可救助隊は、わずか三隊だ。他の部隊は装備の換装と人員の招集に最短でも四時間を要する」
三隊。
そして、孤立しているのは四つの区域。
区域Aは第三層。避難者は十一名。浅層で退路は比較的安定しているため、公社の避難誘導班――認可救助隊枠を使わない一般警備班が対応可能だ。十和田が技術担当として同行することがすでに決まっている。
だが、残る三つの区域――区域B、区域C、区域D。
中層に跨るこの三つの危険区域に対して、投入できる認可救助隊は、わずか三隊しかなかった。
「三隊を、どう割り振るかだ」
相馬が低く唸った。
「区域Bには二十名。区域Cには七名。そして区域Dには三名。……全区域に均等に部隊を配分することはできない」
区域Bは二十名もの命があり、中層の要衝だ。二隊を投入して確実に対処しなければ二次遭難の危険がある。
区域Cのシルフィードは負傷者を抱えており、一隊が必須だ。
そうなれば、残る部隊の数は――ゼロになる。
区域Dの三名。位置の裏すら取れておらず、退路の寿命の予測幅が最も広いあの場所の人間たちが、暗闇の底で取り残されようとしていた。
誰を行かせ、誰を待たせるのか。
冷たい決断の時が、刻一刻と迫っていた。




