第54話 注意報
翌朝、午前九時。俺は公社本部ビルの四階にある区画測量課のドアをくぐった。
フロア内は朝の慌ただしい空気とキーボードの音に満ちていた。デスクで端末を睨んでいた宮原怜が、俺の姿を認めるなり眉を上げた。
「早いな、志賀。今日は定例の協議日じゃなかったはずだが」
「宮原さん、汐見技官。これを見てほしい」
俺はバインダーを宮原のデスクに置いた。昨夜と一昨日の深夜、第七迷宮の第三層、第四層、そして第五層入域点で記録した変形圧ログのグラフだ。
隣の席から汐見が立ち上がり、丸眼鏡を押し上げながら身を乗り出してきた。
「これは……第三層と第五層の変形圧ですか? 波形が完全に重なっていますね」
「ああ。周期の立ち上がりと振幅の位相が、四十八時間にわたって寸分の狂いもなく一致している。浅層と中層が連動して同時に収縮しているんだ」
俺の説明に、宮原は煙草の吸殻を灰皿に押し込み、鋭い視線を向けた。
「連動だと? 構造絶縁されている浅層と中層が同時に動くなんて前例はないぞ。計器のエラーじゃないのか」
「公社の計器ではなく、俺の手による触診と、持ち込みの圧力計三機によるクロスチェックだ。計器のエラーじゃない」
「……汐見、公社の過去ログと照合しろ。有意差は出るか?」
「少々お待ちを」
汐見が端末を叩いた。十数秒後、画面の散布図を見て、汐見は首を横に振った。
「有意差検定は……棄却域に入りません。公社のモデルでは、この程度の同期は『魔素の偶発的循環による誤差範囲』として処理されます。データが二日分しかありませんから、統計的な有意性を示すにはサンプル数が足りません」
「そうなるよな」
宮原が息を吐き、腕を組んだ。
「志賀、お前の感覚を疑うわけじゃない。だが制度を動かすには数字の積み上げが要る。で、お前はこの紙で何を言いたいんだ」
俺は胸ポケットから、あらかじめ用意してきた書面を取り出した。
『公社外部特別技術顧問所見書』
表題の下には、俺の署名が黒インクで刻まれていた。
「第七迷宮全域に対する、認可隊の入域制限の勧告だ。中層以深への進入を一時的に凍結してほしい」
フロアの空気が一瞬で凍りついた。
近くで書類を運んでいた職員たちが足を止め、驚愕の面持ちでこちらを振り返る。
「……本気か、志賀」
宮原の声が低くなった。
「入域制限となれば、第七迷宮の潜行計画がすべて止まる。一日で数千万円の経済損失だ。もしお前の勘が外れたら、先週通ったばかりの答申も、お前の顧問契約も吹き飛ぶぞ」
「勘じゃない。ただ、外れる可能性はある」
「何?」
「観測データは二日分しかない。だから所見書には、確実に来るとは書いていない。誤差の幅はプラスマイナス四十パーセント。発生時期も今夜から五日後までの幅を持たせてある」
俺は視線を逸らさずに宮原を見つめた。
「断定はできない。だがこの数字が出ている以上、黙って見過ごすことはできないんだ」
宮原は所見書を見つめていたが、やがて乱暴に髪を掻き回した。
「……クソが。ついてこい。課長に直談判する」
◇
区画測量課の最奥、パーティションで区切られた課長席の前に、俺と宮原は立っていた。
課長の柏木隆は老眼鏡を外し、俺が提出した所見書をデスクの中央へ置いた。
「志賀さん。気持ちは分かります」
柏木の声は穏やかだったが、その奥には堅固な官僚の防壁があった。
「ですが結論から申し上げれば、入域制限をかけることはできません」
「課長!」
宮原が食ってかかった。
「志賀の手順書はすでに答申で標準参照として採択されています! その顧問がここまで危険を指摘しているんですよ!」
「宮原君、落ち着きなさい」
柏木は手で宮原を制した。
「入域制限をかけるには、客観的な危険の発生が『明白』である必要があります。明白とは、公社の観測網において規定の閾値を超える異常値が継続して検知された場合を指す。志賀顧問の所見は極めて貴重ですが、データは二日分、公社のモデルでも有意差が確認できない。この状態で法的強制力を持つ制限をかければ、潜行を止められたクラン各社から公社へ巨額の損害賠償請求が上がります」
「賠償金の心配をしてる場合ですか! もし本当に広域組み替えが起きたら、中にいる人間が――」
「だからこそ、行政としての限界があるのです」
柏木は淡々と言った。だがその表情には、組織を背負う者特有の重圧が滲んでいた。
「公社が独断で止められる権限には限界がある。ですが、顧問からの正式な所見書を受領した以上、これを無視するわけにもいきません」
柏木はペンを執り、内申書の決裁欄に判を押した。
「区画測量課の権限において、本日付で第七迷宮に対する『広域構造再編注意報』を発令します」
「注意報……ですか」
「はい。入域者に対する安全喚起と、行程の見直しを促す公的なアナウンスです。ただし強制力はありません。潜行するかどうかの最終判断は、各クランの現場責任者に委ねられます」
「……分かりました」
俺は頭を下げた。
柏木の判断を責める気にはなれなかった。彼は彼で、法律の枠組みの中で取れるギリギリの手段を取ってくれたのだ。
だが、人を止めることの難しさが、鉛のように胃の底へ沈み込んでいた。
どれほど正しい危険を察知しても、制度が人を止めるためには膨大な手続きと担保が必要になる。そしてその間にも、迷宮の壁は刻一刻と歪みを増していくのだ。
◇
夜。事務所に戻った俺は、デスクのパソコンに向かい、一本の動画を録画していた。
公社の注意報発令に合わせて、事務所の公式配信チャンネルで公開するための緊急報告だ。
『志賀迷宮測量事務所より、第七迷宮の観測データに関する注意喚起』
画面に向かって、俺は淡々と事実だけを語った。
「本日、公社より第七迷宮全域に対して広域組み替え注意報が発令されました。当事務所の実地観測において、第三層から第五層にかけて変形圧の同期現象が確認されています。ただし観測日数は二日分に留まり、誤差の幅は最大で四十パーセント存在します。確実に大規模な再編が起こると断定できるデータではありません。ですが、現在潜行中、あるいは潜行を予定している隊は、行程の余白を通常の二倍以上確保し、いつでも退路へ引き返せる態勢を整えてください」
誇張も煽りも入れず、ただ手元の数値をそのまま公開した。
録画を終えてアップロードボタンを押すと、十和田が温かい紅茶を持ってきてくれた。
「先生、お疲れ様でした」
「ありがとう。……結局、注意報止まりだったよ」
「でも、先生の配信を見て、潜行日程を延期した探索者さんも大勢コメント欄に書き込んでくださっていますよ」
「そうですよ」
桑原もデスクから顔を上げた。
「個人探索者や中小クランは、かなり敏感に反応しています。無駄足になっても命には代えられませんからね」
「そうだといいんだがな」
俺が苦笑いしたとき、事務所のドアが開いた。
黒いコート姿の氷室灯だった。
「志賀さん」
「氷室さん。どうしたんだい」
「明後日に予定していた第十一層への潜行テストですが、取りやめます」
氷室は迷いのない口調で言った。
「七尾さんにはすでに連絡しました。志賀さんが首を縦に振るまで、私は第七迷宮へは入りません」
「……いいのかい? 君のスケジュールも詰まっているだろうに」
「死んでしまっては、スケジュールも記録もありません。私は志賀さんの判断に従うと決めて契約しています」
氷室の言葉に、胸が静かに温かくなった。
そのとき、デスクの電話が短く鳴った。十和田が受話器を取り、すぐに俺へ差し出した。
「先生、アルゴノートの榊様からです」
俺は受話器を受け取り、耳に押し当てた。「もしもし、榊か」
『――道久か。公社の注意報と、お前の配信を見た』
受話器の向こうの榊の声は、酷く低く張り詰めていた。背後から遠征部隊の荷物の積み込み音が漏れ聞こえる。
「榊。明日から第八層への遠征だったはずだな」
『ああ。第二部隊と合同で、計十二名だ』
「やめておけ。第八層の変形圧の歪みは浅層の比じゃない。もし連動して崩れたら、退路が何日間も閉塞する恐れがある」
俺の警告に、榊は長い沈黙を落とした。
『……すまねえ、道久。上は止めない』
「鷺沼さんか」
『ああ。大友の離脱とスポンサー撤退で、団長は焦ってる。公社の強制制限が出てねえ以上、遠征を中止すりゃ莫大な違約金が発生するって一点張りだ。「あいつのデマに踊らされるな」と叫んで、部隊の出発を前倒しにしやがった』
「そんな……!」
『俺が現場責任者として帯同する。お前の十七項目は頭に叩き込んだ。怪しいと思ったら引き返してくるよ。……悪かったな、わざわざ忠告してくれたのに』
「榊、無理はするな。何かあったら――」
『ああ。じゃあな』
通話が切れた。ツー、ツーという音が事務所に虚しく響く。
俺は受話器を持ったまま立ち尽くした。
注意報は出た。だが、大手クランを中心に、予定されていた八隊、四十名を超える探索者たちが、明日から第七迷宮の深部へと足を踏み入れていく。
数字だったものが、榊の顔、シルフィードの隊員たちの顔、名前のある生身の人間の姿となって頭に焼き付いていた。
止められなかった。
その無力感の重さが、冷たい夜の闇とともに、深く重く降り積もっていた。




