第53話 差し戻しの印
事務所のデスクには、公社の青い角印が押された書類綴じが、正確に十二冊積まれていた。
表紙に並ぶのは、業界で名を知られた認可クランの紋章と、来月度の『深層潜行計画書』という表題だ。
先週、公社の測量基準改定検討会で答申が採択され、俺がまとめた十七項目の手順書が標準参照として組み込まれた。その先行運用に伴い、公社特別技術顧問である俺の『安全確認所見』がなければ、どの認可隊も第十層のゲートをくぐる許可が下りないことになったのだ。
「先生、お茶です。あと、区画測量課から届いた第七迷宮の最新ログを印刷しておきました」
十和田結が湯呑みを置き、バインダーを添えてくれた。
「ありがとう、十和田さん」
「根を詰めすぎないでくださいね」
「そうですよ志賀先生。肩でも揉みましょうか?」
丸テーブルで名簿を整理していた桑原巧が笑いかけてくる。
「大丈夫だよ。……それにしても、他人の計画書に判を押す側になるとは思わなかったな」
俺は苦笑しながら、山の一番上にあるファイルをめくった。
大友健吾の移籍した『蒼天騎士団』の計画書だ。事前の測量計画にはうちの事務所の踏査日程が組み込まれ、行程の余白も十分に確保されている。十七項目の照合欄も丁寧に埋められていた。俺は所見欄に『基準適合・潜行承認』と記入し、万年筆で署名した。
続くシルフィードの計画書は、久我山が隊員の安全に配慮して綿密に練り直した痕跡があった。第七層の迂回路に関する記述に一部古い座標が残っていたため、赤ペンで修正指示を書き添え、『条件付き承認』とした。
そうして順調に確認を進め、十一件目のファイルを開いた瞬間、俺の手が止まった。
表紙に刻まれていたのは、強気な攻略で知られる大手クラン『天狼会』の紋章だった。
「……十和田さん、天狼会の添付図面、これだけか?」
「え? はい、公社から届いたのはそれが全てです」
俺は眉間を揉みながら、ページを指し示した。
「第九層から第十一層にかけての行程計画で、変形圧の観測ポイントが三箇所しかない。しかも未確認区画の通過判定が『直前AI測量による自律回避』とだけ書かれている」
それだけではなかった。行程全体の予備時間――余白が、全行程を通じてわずか二時間しか取られていなかった。
「……シルフィードの宇佐美くんが巻き込まれたあの事故と、全く同じ形だ」
「天狼会は来期の攻略レースで序列二位を狙っているはずです。日程を無理に詰めているんじゃないでしょうか」
桑原の言葉に、俺は頷いた。
「だろうな。だが、迷宮の壁は人間の興行都合に合わせて待ってはくれない。第七項目『未確認区画における盲目進行の禁止』、ならびに第十三項目『退路遮断リスクに対する余白時間の下限規定』に完全に抵触している」
これを承認すれば、何事もなく帰ってくるかもしれない。だが中層以深で中規模な再編が起きれば、二時間の余白など一瞬で吹き飛ぶ。
かつての俺なら、危うい計画書の隙間を埋める図面をただ黙って描いていた。だが今の俺には、公社から預けられた権限と、所見を書く責任がある。
俺は引き出しから朱肉を取り出し、木製の角印をとった。
所見欄の余白に、万年筆で淡々と理由を書き連ねる。観測点の不足、余白時間の欠落、十七項目の該当条文。そして最後に、太い赤字の角印を書類の中央へ真っ直ぐに押し込んだ。
『差し戻し――要再提出』
朱の印が紙面にくっきりと焼き付いた。
俺自身の手で、他人の潜行を止めた。その冷たい感触が、掌の奥に重く残った。
◇
夕暮れ時、事務所の電話が鳴り響いた。受話器を取った十和田が、相手の声を聞いた瞬間に肩を強張らせ、俺を見た。
「先生……天狼会の渉外担当、牧瀬様からです」
「代わるよ」
俺は受話器を受け取った。「お電話代わりました。志賀です」
『――おい、地図屋さんよ。どういう了見だ』
受話器の向こうから、苛立ち混じりの声が響いた。
『さっき公社から連絡が来たぞ。うちの深層計画書に「差し戻し」を食らわせたそうだな。遠征準備にどれだけの費用を動かしてるか、分かってんのか?』
「ええ、承知しています。ですが牧瀬さん、計画書を拝見した上で――」
『承知してるなら、なんで判を押さねえんだよ! たかが数箇所の観測漏れと、半日の日程のズレだろうが! うちには最新鋭のオルタマップ第四世代を積んだナビが二人も帯同するんだ。多少の誤差なんざ現場でリカバリーできる。紙切れ一枚で差し戻すたあ、随分と偉くなったもんだな!』
隣で十和田が拳を握りしめ、桑原が身構えていた。だが俺の心は静かだった。ただ机の上のログの事実だけがあった。
「牧瀬さん。十七項目の第七項と第十三項の記述をご確認いただけましたか」
『ああん? そんな細かい内規なんざ知るか! うちは長年このスケジュールでやってきてんだよ!』
「現在の第七迷宮中層における変形圧の変動係数は、平常時の約一点四倍まで上昇しています。二時間の余白では、小規模な通路閉塞が一度発生しただけで退路の確保が不可能になります」
俺はデスクのログを指で追いながら続けた。
「AIの自律回避は、接続が確定している通路でしか機能しません。再編途中の未確定区画に突入した場合、隊員が退路を見失う確率は三十パーセントを超えます。これは感情論ではなく、汐見技官が検証した事故ログに基づく統計です」
『……チッ』
「俺の署名は、現場の安全を担保するためのものです。数値を満たしていない計画書を承認することはできません。日程を三日延ばし、第九層以深の観測点を四箇所追加していただければ、再提出の当日にでも再審査を行います」
『一週間、遠征が遅れるんだぞ! スポンサーへの違約金と待機費用、あんたが補償できんのか!』
「補償はできません」
俺は即座に答えた。
「ですが、人が戻ってこられなくなるよりは、ずっと安い損失のはずです」
電話の向こうが張り詰めた沈黙に包まれた。荒い息遣いのあと、牧瀬は吐き捨てた。
『……クソが。覚えてろよ、地図屋』
ガチャリと乱暴に電話が切れた。ツー、ツーという乾いた電子音が流れる。
俺は受話器を置き、息を吐いた。
「先生、大丈夫でしたか?」
「ああ。大丈夫だよ、十和田さん」
俺は自分の右手を見つめた。自分の書いた所見と押した印鑑が、他人の金と生活を実際に止めてしまった。正しさを主張したつもりはない。基準に従っただけだ。それでも、他人の足を踏みとどまらせる責任の輪郭が、生々しい手触りとなって皮膚に張り付いていた。
◇
日付が変わる少し前。第七迷宮のゲートを、俺と氷室灯の二人は潜った。
公社への事前届出を済ませた定期の基準点観測だ。氷室隊への常設帯同登録と中層可登録の範囲内での行動で、目的地は第五層の入域点までに設定されている。
静まり返った第三層の回廊を、二人の足音が刻んでいく。先頭を歩く氷室は黒い防刃コートを羽織り、背に大剣を背負った軽装だった。時折、斜め後ろの俺を振り返る。
「志賀さん。さっきから、歩幅が狭いです」
「あ、すまない。ちょっと考え事をしていてね」
「天狼会の件ですか」
「……耳が早いな」
「七尾さんから聞きました。無理な日程を押し通そうとして、志賀さんに弾かれたと。当然の判断です。あのクランは前衛を消耗品扱いしすぎます」
感情を交えない氷室の言葉に、少しだけ救われる思いがした。
「ありがとう。でも、気にしてるのはそれだけじゃないんだ」
俺は立ち止まり、側壁の黒ずんだ岩肌に素手を当てた。
ひやりとした石の冷たさの奥から、迷宮の鼓動のような微細な震えが掌に伝わってくる。
変形圧の波形。
通常、迷宮の区画再編は各層の魔素だまりや構造特性に応じて独立して発生する。第三層が動く時と第四層が動く時では、周期も周波数も全く異なるはずだった。
だが――。
「……やっぱり、揃っている」
俺は野帳を取り出し、鉛筆を走らせた。
一昨日の深夜に観測した第三層中央通路の立ち上がり時間。昨日の第四層連絡路の立ち上がり時間。そして今、目の前にある第三層南側壁面の数値。
波の振幅の立ち上がり速度、周期の位相が、寸分の狂いもなく完全に同期していた。
「志賀さん?」
氷室が首を傾げた。
「氷室さん、第五層の入域点まで急ごう。あそこの継ぎ目を確認したい」
「了解です」
氷室が前衛の速度を上げ、闇の中を進んだ。
第四層を抜け、第五層へと続く縦穴のテラス――中層との境界点に辿り着いた。金属ステップの上で、深紅の警告灯が点滅している。
俺はステップに膝をつき、第四層の岩盤と第五層の基盤が交わる『継ぎ目』に両手を強く押し当てた。目を閉じ、呼吸を整える。
――ト、ト、ト、ト……。
浅層の岩肌で感じたあの同期波が、この第五層の境界岩盤からも、全く同じタイミング、同じピッチで跳ね返ってきた。
本来なら浅層と中層は構造的に絶縁されている。二つの階層にまたがる変形圧が同時に立ち上がることなど、通常の組み替えサイクルではあり得ない。
「……あり得ないな」
思わず声が漏れた。
「何が起きているんですか」
氷室が剣の柄に手を添えたまま、俺の横顔を覗き込んだ。
「まだ分からない。ただ……別々に動くはずの場所が、まるで一つの巨大な生き物が息を吸い込むみたいに、同じタイミングで縮んでいる」
「組み替えが近い、ということですか」
「ああ。それも、単一フロアで起きるような局所的なものじゃない。第三層、第四層、そしてこの第五層……下手をすれば、もっと深い場所まで連動している可能性がある」
だが、手元にあるデータは昨日と今日のわずか二日分しかない。公社が認める観測基準では、最低でも一週間以上の継続的なログと有意差が求められる。この二日分の数字だけで「広域再編が来る」と訴えたところで、まともな根拠として扱ってもらえるはずがなかった。
俺は野帳を閉じ、胸のポケットに収めた。
「戻ろう、氷室さん。明日の朝一番で、宮原さんにこの数字を見せる」
「はい」
暗い坑道の奥を見つめながら、俺は冷え切った指先をぎゅっと握りしめた。
まだ見ぬ災厄の輪郭が、静かに、だが確実に迷宮の闇の中で膨れ上がっていた。




