第52話 前提が変わる
秋晴れの光が差し込む公社本部ビルの大会議室で、区画測量基準改定検討会の最終審議が行われていた。
長机の上に配られた分厚い答申書案の表紙を、俺は指先でめくった。
第四章『深層区画における測量および進行管理基準』。そこに印刷された新たな条文に、目が留まる。
『第十層以深への進入を伴うすべての認可隊は、構造再編周期に伴う変形圧動態の事前観測、ならびに人による組み替え予測手順の配備を必須の前提条件とする』
そしてその直下には、標準参照資料として、俺の名と事務所の手順書が明記されていた。
『参考規格:志賀迷宮測量事務所公表「迷宮変形圧観測および退路判定基準(十七項目ならびに補遺三項目)」』
「……本当に、入ったんですね」
思わず隣の宮原に呟くと、宮原はネクタイを緩め、小さく肩を竦めた。
「汐見くんが出した詳細な比較ログと、あんたがヒアリングで証言したブレない事実が決定打になったのよ。委員の誰も反対できなかったわ。四年間、現場を危険に晒し続けてきたツケを、公社としてもこれ以上放置するわけにはいかないもの」
やがて議事進行役の委員長がマイクを取り、正面の俺を見据えた。
「志賀特別技術顧問。公社としては、この手順書を公的規格として正式に採用するにあたり、著作権やライセンス料について協議したいと考えております。所定の特許出願や、クラン各社からの独占使用料をお支払いする用意がありますが」
大会議室の全員の視線が俺に集中した。
これだけの業界標準に自分の名を冠した規格が採用されれば、巨額の権利収入が転がり込んでくるのは確実だった。一生遊んで暮らせるだけの富が、目の前に差し出されている。
だが、俺は迷うことなく首を横に振った。
「いいえ。権利化も独占使用料も必要ありません」
「な……よろしいのですか?」
委員長が目を丸くし、他の委員たちも顔を見合わせた。
「この手順は、迷宮の中で誰かが死なないための安全弁です。もしこれに高い使用料をかけたり、権利で縛ったりすれば、資金のない中小クランや若い探索者が使えなくなってしまう。それじゃ本末転倒です。これまで通り、誰でも読める無償公開のままでお願いします」
静まり返った会議室で、汐見技官が眼鏡の位置を直し、深く感服したように息を吐いた。
「……徹底していますね。ですが現実問題として、人による変形圧の観測を行える技術者が、業界全体で圧倒的に不足しています。AI測量を補助として組み込むにしても、最終的な判定を下す技術者の育成が急務です」
汐見の指摘は的を射ていた。いくら基準を作っても、現場で壁の振動を読み、数値を弾き出せる人間がいなければ、基準は絵に描いた餅になる。
「それについては、公社主導で技術者の育成講習を立ち上げる方針だ」
口を開いたのは、課長の柏木だった。
「志賀顧問には、その主任講師としてカリキュラムの監修と実地指導をお願いしたい。報酬は公社の規定に基づき別途計上する。……受けていただけますね、志賀さん」
「……はい。俺のできる範囲でなら、喜んでお手伝いします」
こうして、二週間にわたる基準改定の議論は、満場一致で答申案の採択という形で幕を閉じた。
◇
数日後。業界最大手の情報誌『ダンジョンジャーナル』に、相良記者が執筆した大特集が掲載された。
『制度が遅れた四年――現場の職人知と迷宮安全の夜明け』
記事は、かつてアルゴノートが目先の補助金と独占欲のために握り潰した四年前の報告書を起点とし、一個人の職人が現場で積み上げてきた観測ログが、いかにして公社の強固な制度の壁を突き崩したかを、克明に描き出していた。
そして記事の結びには、こう記されていた。
『四年前、アルゴノートが志賀道久を「AI時代に不要な旧弊」として切り捨てた判断は、探索者業界の歴史において最悪の経営失策として記憶されるだろう。解雇されたのは彼の能力不足によるものではなく、組織が自らの誤りを直視できなかった結果に過ぎない』
その報道は瞬く間に業界中へ波及した。
大手から中堅に至る各クランの安全管理部門が、公社の正式施行を待たずに、自社の内規へ志賀式十七項目を取り入れ始めた。
志賀道久という人間は、もはや「たまたま運良くバズった、クランを解雇されたおっさん配信者」などという安っぽい枠組みでは、誰一人として語れなくなっていた。
業界のルールそのものが、彼が歩んできた足跡に合わせて書き換えられたのだ。
◇
夜の事務所。外はすっかり冷え込み、ストーブの上のやかんがシュンシュンと白い湯気を上げていた。
「志賀さん、見てくださいこれ!」
十和田が目を輝かせながら、パソコンの画面を指差した。
「公社の答申案が報じられてから、うちのチャンネルの登録者数が十万人を突破しました! 過去の踏査アーカイブの再生数も全部跳ね上がってます!」
「すごい反響ですね」
桑原も笑顔で温かい缶コーヒーを配りながら言った。
「中堅クランからの講習申し込みも、枠が一瞬で埋まりましたよ。先生の無償公開の理念に賛同して、自発的に受講料を上乗せして寄付したいという団体まで出てきています」
「ありがたい話だけど……ちょっと目が回りそうだな」
俺が苦笑いしながらコーヒーのプルタブを開けると、事務所の奥から氷室灯が歩み出てきた。
その手には、公社の角印が押された青表紙の分厚いファイルが握られていた。
「志賀さん。喜んでいる暇はありません」
「氷室さん?」
「公社から正式に送られてきた、来月度の深層潜行計画書です。全十二件」
氷室はファイルをデスクの上にドサリと置いた。
「大友さんの移籍した蒼天騎士団をはじめ、シルフィードなど各クランの申請書です。答申基準の先行適用に伴い、公社特別技術顧問である志賀さんの『安全確認所見』がなければ、どのクランも深層への潜行許可が下りないことになりました」
「……え? 俺が、他のクランの潜行を?」
「はい。志賀さんが計画書の測量データを確認し、承認印を押した隊だけが、第十層のゲートをくぐることができます。危険だと判断すれば、差し戻して潜行を止める権限が志賀さんにあります」
俺はファイルを見つめ、思わず息を呑んだ。
これまでは、自分と氷室の二人で、目の前の通路をどう安全に通るかだけを考えていればよかった。
だがこれからは違う。
他人が深層へ潜るのを、行かせるのか、それとも止めるのか。その重い判断を、俺自身の責任において下さなければならないのだ。
「……俺はただの地図屋だと思っていたんだがな」
「地図を描くということは、他人の進む道を指し示すということです。志賀さんがやってきたことは、最初からそういう仕事でした」
氷室の涼やかな瞳が、まっすぐに俺を射抜いた。
「行きましょう、志賀さん。次は、深層です」
彼女の言葉に、俺はゆっくりと頷いた。
世界の前提が変わった。そして俺の足元もまた、新たな領域へと踏み出そうとしていた。
◇
同時刻。アルゴノート本部ビルの最上階、団長室。
かつて栄華を極めたその部屋は、重苦しい静寂と荒れた書類の山に埋もれていた。
「……団長、公社からの最終通達書です」
事務局長がおずおずと差し出した書面を、鷺沼恭平は血走った目でひったくった。
書面には冷酷な通告が並んでいた。
『新測量基準への不適合に伴い、認可隊資格を暫定保留。公認AI測量未配備扱いによる保険料率の三倍引き上げ、ならびに公社発注の深層調査入札資格の剥奪』
「馬鹿な……! なぜだ! なぜあの男の書いた紙切れ一つで、我がクランがここまで追い詰められねばならんのだ!」
鷺沼は通達書をくしゃくしゃに握り潰し、執務机に叩きつけた。
「オルタマップは最新鋭のシステムだ! 深層でのエラーは、単に魔素ノイズの学習データが一時的に不足していただけの話だ! 次世代バージョンのアップデートさえ完了すれば、あんな時代遅れのアナログ測量など一瞬で駆逐できる!」
「ですが団長、大友に続いて第二部隊の前衛たちも移籍届を出してきております。このままでは来期の遠征部隊の編成すら――」
「補充しろ! 他からいくらでも引っ張ってくればいい! 潜行回数を倍にして、第十三層の未踏破ログを先に持ち帰るんだ! 成果さえ出せば、スポンサーも公社も手のひらを返す!」
狂気じみた叫び声を上げる鷺沼を、事務局長は冷え切った目で見つめ、無言で一礼して部屋を出ていった。
崩れゆく足元を見ようともせず、ただ数字と過去の栄光にすがりつく男の背中に、秋の冷たい月光が無慈悲に降り注いでいた。




