第51話 頭を下げに来る
公開ヒアリングから三日が過ぎた。
業界メディア各紙の紙面は、相良記者が宣言した通り『現場の安全を握り潰した制度の空白』という見出しで埋め尽くされていた。
志賀道久という測量士が、四年前の段階ですでに深層の空間錯乱とAIの限界を正確に見抜いていたこと。そして名門アルゴノートが目先の補助金と体面のためにその警告を握り潰し、結果として現場に数々の事故をもたらしていたこと――それはもはや個人の揉め事ではなく、探索者業界全体を揺るがす構造問題として認識され始めていた。
夕暮れ時。事務所で図面の整理をしていると、階段を上がってくる複数の足音が聞こえた。
ノックの音に十和田がドアを開けると、そこには四人の男たちが所在なさげに身を縮めて立っていた。
先頭に立つ初老の男の手には、デパートの包み紙が巻かれた菓子折りが握られている。
「……あ、あの。志賀、いるか」
俺は製図台から顔を上げた。
かつてアルゴノートで同じ遠征部隊の釜の飯を食った、元同僚たちだった。先頭にいるのはベテラン前衛の山下。後ろに控えているのは中堅斥候の佐伯と、補給係の二人だ。
「山下さん、佐伯……みんなどうしたんだ」
俺が声をかけると、四人は顔を見合わせ、それから深々と頭を下げた。
「道久……すまなかった!」
山下の絞り出すような声が、廊下に響いた。
「あのヒアリングの中継を見たよ。お前が四年前、あんな報告書を上げていたなんて、俺たちは何も知らなかった。いや……知ろうともしなかったんだ。鷺沼団長が『これからはAIの時代だ、アナログな地図屋は不要だ』と言った時、お前が一人で荷物をまとめて出ていくのを、俺たちはただ黙って見送った」
「山下さん……」
「オルタマップを疑って団長に目をつけられるのが怖かったんだ。自分たちの生活を守るために、お前を切り捨てた空気に加担した。本当に……本当にすまなかった!」
佐伯たちも額を擦り付けるように腰を折っていた。
かつての仲間たちが、自分たちの沈黙の罪を認めて頭を下げている。
だが、俺はこの手の空気がひどく苦手だった。嬉しさなど欠片も湧かない。ただ猛烈に気まずく、逃げ出したいような居心地の悪さが背中を走る。
俺は謝罪を受け入れるでもなく、許すでもなく、ただ小さく息を吐いた。
「……まあ、階段で立ち話も何だからさ。中に入って座ってくれよ」
十和田が素早く丸椅子を並べ、桑原が「お茶、すぐ淹れますね」と給湯室へ走った。
◇
事務所の応接スペースに腰掛けた元同僚たちは、桑原の淹れた茶を啜りながら、ぽつりぽつりと今のアルゴノートの惨状を語り始めた。
「大友が抜けて、バルド重工が降りて……現場はもうバラバラだ」
佐伯が膝の上で拳を握りしめて言った。
「若手は次々に移籍先を探し始めてる。鷺沼団長は部屋に閉じこもって、スポンサーの弁護士と怒鳴り合ってばかりだ。……なあ、道久。お前、アルゴノートに戻ってきてくれないか」
山下がすがるような目で俺を見た。
「今のお前が戻ってきてくれたら、クランの信用だって少しは持ち直せる。現場のナビゲーションだって、お前が仕切ってくれれば誰も文句は言わない。昔みたいに、またみんなで深層へ行こうじゃないか」
その言葉を聞いた瞬間、俺は静かに首を横に振った。
「ありがたい話だけど、山下さん。俺は戻らないよ」
「どうしてだ……? まだ鷺沼団長への恨みが消えないのか?」
「恨みなんて最初からないよ」
俺は事務所を見渡した。
壁に掛けられた黒板には、十和田の几帳面な字で書かれた今週の予定表がある。デスクの上には、桑原が集めてくれた浅層の測量野帳が積み重なっている。
「俺には今、この事務所がある。十和田さんや桑原くんを雇っているし、氷室さんとの専属契約もある。俺が勝手に古巣へ戻ったら、この子たちの生活を放り出すことになるだろう」
山下は言葉を失い、それから力なく視線を落とした。
「……そうか。そうだよな。お前はもう、一人で自分の足で立ってるんだもんな」
その時、カチャリとドアが開き、大きな影が滑り込んできた。
手にした紙袋から酒瓶の首を覗かせた榊副団長だった。
「お前ら、道久に無理な頼み事してんじゃねえよ」
「榊副団長……!」
榊は無骨な手で一升瓶を机の上にドンと置いた。地元の銘酒『七ツ星』の純米大吟醸だった。
「道久、邪魔するぞ。……十和田の嬢ちゃん、すまねえが湯呑みをもう一つ貸してくれ」
「あ、はい!」
榊が自ら一升瓶の栓を抜き、俺の湯呑みにトクトクと琥珀色の酒を注いだ。
「道久。……ヒアリング、見事だったな」
榊は自分の湯呑みにも酒を満たし、ぐいと一息に煽った。
「鷺沼を糾弾する言葉なんて、一言も吐かなかった。お前は、あれで本当に良かったのか。あいつを叩き潰す絶好の機会だったんだぞ」
俺も酒に口をつけた。芳醇な米の香りとピリッとした辛みが、喉を滑り落ちていく。
「俺は地図を渡すのが仕事だからね」
「あ?」
「地図を描いて、ここに危険がある、ここは通れると数字を渡す。それが俺の役目だ。その地図を信じて歩くか、それとも丸めて捨てるかは、受け取った人間が決めることだよ」
俺は榊の目をまっすぐに見つめた。
「だから俺は、捨てられたことを怒る筋合いはない。ただ、捨てた結果として道に迷ったなら、それは歩いた人間の自己責任だ。……俺が言えるのは、それだけだよ」
榊はぽかんと口を開け、それから天井を仰いで激しく肩を揺らした。
「ハ……ッ、ハハハ! 敵わねえなあ、おい! 本当にお前ってやつは……職人馬鹿のまんまだ!」
山下たちも苦笑し、やがて事務所の空気は穏やかな懐旧の酒盛りへと変わっていった。
昔の失敗談や、若い頃の無茶な探索の話。酒が進むにつれ、四年前の解雇から続いていたわだかまりが、淡い煙のように夜の闇へと溶けていった。
志賀道久という人間が、過去の呪縛から完全に解き放たれた夜だった。
◇
日付が変わる頃、山下たちと榊は千鳥足で階段を降りて帰っていった。
十和田と桑原に「もう遅いから帰りなさい」とタクシー代を握らせて送り出し、散らかった机の上を片付けていると、部屋の隅のパイプ椅子からすっと人影が立ち上がった。
いつの間にか事務所の奥に座っていた氷室灯だった。
「氷室さん。残っていたのか」
「はい。酔っ払いが騒がしかったので、裏で本を読んでいました」
氷室は手にした文庫本をポケットにしまうと、空になった湯呑みを給湯室へ運ぶのを手伝ってくれた。
蛇口から流れる水の音だけが、深夜の事務所に静かに響く。
「これで……少しは静かになるかな」
俺はふと、独り言のように呟いた。
報告書の件も公の場で明らかになった。古巣の仲間たちとも酒を酌み交わし、過去の整理はついた。これからはまた、目立たず騒がれず、淡々と現場の測量だけをしていられる日常が戻ってくるのではないか――そんな淡い期待が、胸をかすめたのだ。
だが、氷室は洗い終えた湯呑みを布巾で拭きながら、容赦のない声で即答した。
「なりません」
「……え?」
「静かになど、なるはずがありません」
氷室は淡々とした調子で、スマートフォンを取り出して画面を俺に向けた。
「先ほど公社から届いた明日の日程です。朝八時から基準改定の最終答申案に関する顧問確認。十時から蒼天騎士団との合同ブリーフィング。午後は他三つのクランから提出された深層潜行計画書の安全評価審査が四件入っています」
「……四件も?」
「はい。志賀さんの手順書が公的に認められた以上、業界の誰もが『志賀顧問のお墨付き』を欲しがっています。志賀さんが誰を行かせて、誰を止めるのか。業界の全クランが注視しています」
氷室の冷徹な指摘に、俺は思わず苦笑いを浮かべ、天を仰いだ。
名誉も地位も、正当な評価も手に入れた。
だがその代償として失ったのは、「静かに誰にも知られず、ただ自分の仕事だけをしていられる気楽な立場」だったのだ。
「……まいったな。寝る暇もなさそうだ」
「寝てください。明日の朝、迎えに来ます」
氷室はそれだけ言うと、軽く会釈して事務所のドアを開け、夜の帳の中へと消えていった。
一人残された事務所で、俺は製図台の上の鉛筆を握り直した。
静かな日常は戻らない。
だが、俺の引く一本の線が、これから多くの探索者たちの命を左右する。
その重みを噛み締めながら、俺は短くなった鉛筆を静かに置いた。




