第49話 降りる側
午前六時半。第七迷宮の地上口は、夜明け前の冷え切った空気に包まれていた。
公社の入場ゲートをくぐり、転移陣を踏んで中層――第七層の安全地帯へと降り立つ。肌を刺すような湿り気と燐光苔の青白い光が、見慣れた岩肌を照らしていた。
「志賀さん、予定通り第七層北西の旧採掘路でいいですか」
背後から、一切の起伏を含まない平坦な声がかけられた。
黒の防護スーツに細身の刀を佩いた氷室灯が、周囲の警戒態勢に入っている。その表情には、ネット上の騒動や古巣の噂への関心など微塵も窺えない。
「ああ。先週の定期再編から七日経った。変形圧の溜まりが逃げ場を探しているはずだ。崩落の予兆が出る前に、側壁の数値を拾っておきたい」
「了解。先行します」
氷室は短く頷くと、音もなく足を踏み出した。
俺は計測器のゼロ点を合わせ、手元の野帳に鉛筆を走らせながら彼女の三歩後ろを進む。
かつてアルゴノートにいた頃は、怒号や機材の駆動音が常に飛び交っていた。だが今の現場にあるのは、規則正しい呼吸音と、硬い靴底が砂利を踏む微かな音だけだ。
「止まってください。前方十五メートル、天井の亀裂から微小振動」
氷室がすっと右手を掲げる。
俺は足を止め、壁面に手のひらを直接あてがった。岩肌を通して伝わる脈動を指先で数える。
「周期四・二秒。魔素滞留による膨張圧だな。亀裂の進展方向は左斜め下、幅三ミリ。落石の危険はないが、あと三日もすれば通路が三十センチ狭まる」
「迂回路は」
「右の支坑が生きている。そっちへ抜ければ問題ないよ」
手帳に数値を書き留めると、氷室は「了解」とだけ返し、歩みを再開した。
彼女は騒ぎについて何一つ触れてこない。四年前の報告書のこと、榊が事務所に来たこと、公社での調査のこと――すべて知っているはずなのに、迷宮の中に入れば、目の前の石と通路の安全以外、彼女の頭には存在しないのだ。徹底した職人気質が、今の俺にはありがたかった。
二時間の踏査を終え、安全地帯の転移門から地上へ帰還した。
事務所へ戻ると、待機していた十和田が手際よくカメラのメモリーカードを受け取り、編集ソフトを立ち上げる。
中層の踏査記録は、淡々とした判断ログのみを抽出したアーカイブ動画として正午過ぎに配信チャンネルへ公開された。
『この大騒ぎの最中に、相変わらず淡々と壁の数値を測ってて安心した』
『外野が燃えてても、このおっさんの動画だけは空気が澄んでる』
『第七層の側壁膨張ログ、現場の探索者には助かるやつだ』
過剰な主張も弁明もしない。正確な測量結果だけを世に出す。その積み重ねこそが、俺たちの唯一の足場だった。
◇
午後一時を回った頃、事務所のドアベルが鳴った。
「こんにちはー。お邪魔しますよ」
現れたのは、仕立ての良い私服を着た体格の逞しい男――アルゴノートの前衛エース、大友健吾だった。
重厚な甲冑姿とは打って変わって身軽な装いだが、表情は以前より晴れやかで、張り詰めていた肩の力が抜けているように見えた。
「大友さん。いらっしゃい」
十和田が素早く湯呑みを用意した。
「ありがとう、十和田ちゃん。……志賀さん、正式に決まりました」
大友はソファに腰を下ろすと、一通の書類のコピーをテーブルに置いた。
そこには大手クラン『蒼天騎士団』のロゴと、大友の署名が記されていた。
「蒼天騎士団への移籍が、今朝成立しました。来月一日付で合流します」
「そうか……決まったんだな」
「ええ。団長室で鷺沼に退団届を叩きつけてきましたよ」
大友は苦笑しながら言った。
「まあ、怒鳴られましたよ。『裏切り者』だの『志賀に幾ら積まれたんだ』だの。だけど俺は言ってやりました。『志賀さんからは一円も貰ってません。俺はただ、深層で死にたくないから自分の足で降りるんです』ってね」
大友の言葉に迷いはなかった。
「それでね、志賀さん。蒼天の渉外の桐生さんと契約を詰める時、俺から一つだけ条件を呑んでもらったんです。『第十層以深の作戦には、志賀事務所の事前測量データか手順に準拠した安全評価を必須とする』――これを特約に入れさせました」
大友が悪戯っぽく笑った。
「桐生さんも即答で快諾してくれましたよ。だから志賀さん、俺はこれからも志賀さんでいきます。……よろしくお願いしますね」
「……ああ。ありがとう、大友さん。うちの仕事で良ければ、いつでも正確な数字を出すよ」
俺は頭を下げた。引き抜きなどしていない。だが現場で命を張る探索者が、自らの生存のために俺たちの手順を選んでくれた。その事実が、何より誇らしかった。
◇
大友の移籍公表から二日後、俺は公社ビルの区画測量課を訪れていた。
外部特別技術顧問としての打ち合わせのため控室に入ると、宮原が険しい顔で業界紙を睨んでいた。
「来たわね、志賀さん。……これ、見た?」
差し出されたのは『ダンジョンジャーナル』の朝刊だった。一面の見出しが視界に飛び込む。
『名門アルゴノート、最大手スポンサー「バルド重工」が契約解除』
『四年前の深層安全報告書「隠蔽疑惑」を重く見て通報』
『大友健吾の移籍、遠征延期に続く大打撃――公表序列はトップ3から転落』
総合装備最大手のバルド重工が、安全対策隠蔽疑惑の本格調査を受け、年間一億円を超える機材提供とスポンサー契約を即時打ち切ったと書かれていた。
さらに公社のクラン総合序列において、アルゴノートはSランク第三位からAランク中位へと転落した。
「バルド重工が降りたか……」
「当然よ」
宮原が吐き捨てるように言った。
「所属クランの隠蔽疑惑は、装備メーカーにとっては致命傷よ。自社装備をつけた部隊が遭難すれば、欠陥を疑われるもの。大友さんが抜けて、資金源と最新装備の供給まで断たれた。鷺沼団長は今頃、違約金対応で生きた心地がしていないでしょうね」
「……」
「序列低下で、次期の深層遠征枠の優先権も他クランへ移るわ。あそこが深層へ潜る機会は、物理的に奪われたも同然よ」
俺は手元の紙面を見つめた。
自分を切り捨てた組織が音を立てて崩れていく。だが湧き上がってきたのは快感ではなく、冷え冷えとした因果の重みだった。
四年前に俺が書いた四十枚足らずの紙切れ。そこに記された警告を受け止めていれば、何一つ起こるはずがなかったのだ。他人が自ら選んだ道の果てに転落していくのを眺めるのは、決して気分のいいものではなかった。
「明後日の公開ヒアリングだけど」
宮原が言った。
「榊副団長から提出された写しと、公社受領目録の正式な照合を行うわ。志賀さんには作成者として証言してもらう。……覚悟はいい?」
「ええ。知っている事実だけを答えます」
俺は静かに答えた。
◇
その日の夕暮れ時、事務所に戻ると、慌ただしい電話の呼び鈴が鳴り響いていた。
「はい、志賀迷宮測量事務所です。……申し訳ございません。規定により同時にお引き受けできる案件は最大三件までと定めております」
受話器を握る十和田の声は落ち着き、毅然としていた。
「中層以上の測量には最低二週間の事前検証期間をいただいております。来週の潜行への同行には応じかねます。……ええ、失礼いたします」
電話を切った十和田が息を吐く。脇では外回りから戻った桑原が苦笑していた。
「先生、報道が出てから電話が鳴り止まないんですよ」
「そんなにかい?」
「ええ。正規の相談も多いですが、中にはタブロイド紙から『古巣の不正を暴く元専属測量士』として批判コメントを寄稿すれば高額取材費を払う、なんて話までありましてね」
「あんなの、言語道断です!」
十和田が憤慨した。
「志賀さんが現場の安全を第一に考えているのも知らないで、人の過去をゴシップの燃料にしようだなんて! 全部お断りしました!」
頼もしく胸を張る弟子に、俺は思わず微笑んだ。
「ありがとう、二人とも。おかげで俺は計算だけに集中できるよ」
「当たり前ですよ。それが助手の役目ですから」
桑原が右膝をさすり、笑った。
だが、二人が守ってくれる平穏の外側には、世間の好奇心が渦巻いている。
俺の沈黙すらも、世間にとっては物語として値踏みされているのだ。
明後日、公開ヒアリングが幕を開ける。
かつての団長――鷺沼恭平と同じ部屋で、公衆の面前に立つ。
成すべきことは怒りをぶつけることではない。現場で拾い集めてきた事実の数字だけを、淡々と証言することだ。
製図台の方眼紙を見つめながら、俺は鉛筆の芯を静かに尖らせた。




