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追い出された地図屋のおっさん、暇つぶしの迷宮探索配信で人類最強に専属ナビを頼まれる〜元クランが深層で迷子になり「戻ってこい」と懇願してきた〜  作者: さくらろ
第6章 握り潰された報告書

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第48話 写しを持っていた男

 事務所の窓から差し込む茜色の夕日が、製図台の上に長い影を落としていた。


 十和田が公開した客観的な事実の時系列ページは、ネット上の雑音を確実に押し留めていた。大手の熱狂的なファンによる無根拠な中傷は次第に勢いを失い、現場の探索者たちからは「冷静で誠実な対応だ」「手順書の更新を応援している」といった温かい声が再び届き始めていた。


 桑原が浅層の踏査報告書を几帳面にファイルへ綴じ込み、右膝を庇いながら「お先に失礼します」と帰途についた直後のことだった。


 コツコツと、事務所のドアをノックする乾いた音が響いた。


「はい、どなたですか?」


 十和田が応対に向かい、ドアを少しだけ開けた。


 だが次の瞬間、十和田の背筋がピシリと強張り、警戒を露わにして息を呑んだ。


「……何の、ご用でしょうか」


 冷たい拒絶を含んだ十和田の声に、俺は製図台から顔を上げた。


 ドアの隙間に立っていたのは、擦り切れた革ジャケットに身を包んだ大柄な男――アルゴノート副団長の榊久史だった。


「十和田さん、いいよ。ドアを開けてくれ」


「志賀さん……! でも、この人はアルゴノートの副団長ですよ……!」


「大丈夫だから。入ってもらおう」


 俺が静かに促すと、十和田は唇を噛み締めながらドアを全開にした。


 榊は無言で会釈し、重い足取りで事務所の中へと入ってきた。その頬はこけ、顎には無精髭が目立っていた。大友の移籍問題や公社からの深層調査指名枠取り消し、スポンサーからの追及により、名門クランの内部がいかに混乱を極めているかが、そのやつれ具合から痛いほど伝わってきた。


「……道久」


 低く嗄れた声で、榊が俺の古い名を呼んだ。


「久しぶりだな、榊。まあ、座ってくれよ。十和田さん、温かいお茶を淹れてもらえるかい」


「あ、はい……」


 十和田はまだ警戒を解かない目つきのまま、給湯スペースへと向かった。


◇


 応接用のテーブルを挟み、俺と榊は向かい合った。


 榊は十和田が置いた湯呑みに手を触れようともせず、ただ膝の上に置いた黒いブリーフケースをじっと見つめていた。


「何の用だ、榊。大友さんの移籍の件なら、この前話した通りだぞ。俺は引き抜きなんてしていないし、深層のリスクと判断材料を渡しただけだ」


「……その件じゃねえよ」


 榊は掠れた声で言った。それから震える手でブリーフケースの金具を外し、中から茶色く変色した一束の書類を取り出した。


 四十枚近い厚みのある紙の束。綴じ紐の結び目には、古い埃がうっすらと付着していた。


 榊がその書類を、テーブルの上に静かに滑らせてきた。


 表紙に並ぶ手書きの文字に、俺の息が止まった。


『第七迷宮深層における構造再編周期と参照地図の失効に関する所見』


 間違いなく、四年前に俺が自らの手で書き上げ、団長室に提出した報告書そのものだった。


「……これ、原本の写しか」


「ああ。カーボン複写の控えだ」


 榊はテーブルを見つめたまま言った。


「公社がお前の報告書の欠落を調べてるって聞いた。……公社に届いてねえのは当然だ。団長室から外に出てねえんだからな」


 俺は震える指先で、書類の表紙をめくった。


 薄いカーボン紙には、当時の俺の几帳面な文字が克明に転写されていた。


 第十層から第十二層にかけての通路の変形圧ベクトル、魔素流の乱れ、壁面吸着圧の急変ログ。今公開している十七項目+補遺三項目の原型となる観測データが、精緻な手書きグラフとともに並んでいる。


 そして表紙の右上に印刷された回覧欄には、二つの印鑑だけが押されていた。


『団長:鷺沼恭平』

『副団長:神埼剛(当時)』


 それ以降の『遠征隊長』『現場運用課』『公社提出』の欄は、すべて空白のまま斜線すら引かれていなかった。


「当時、俺はまだ副団長じゃねえ。第十層遠征の現場隊長だった」


 榊が重い口を開いた。


「遠征から戻ったお前が、目の下に隈を作ってこの分厚い報告書を持ってきた日を覚えてる。神埼副団長はお前の意見を重く見て、鷺沼に提出した。だが鷺沼は……オルタマップの導入で公社から巨額の補助金を引き出す計画を進めていた最中だった。『この報告書が公社に渡れば、新機材の安全審査がやり直しになる。余計な波風を立てるな』と突っぱねて、原本を金庫に放り込みやがったんだ」


「……」


「神埼さんは鷺沼と激しく衝突してクランを去った。俺はその後任として副団長になった。神埼さんが私物を引き払う時、俺にこの写しを託したんだ。『いつか現場が破綻した時、道久の正しさを証明する証拠になる。持っておけ』ってな」


 榊は両手で顔を覆い、深く息を吐き出した。


「だが俺は……出せなかった。クランの立場を守るため、鷺沼の顔色を窺って、四年間ずっと自分のロッカーの底にこの写しを隠し続けていた。お前が首を切られたあの日だってそうだ。俺は……何一つ言い出せなかった」


 重い沈黙が応接スペースを満たした。


 十和田が息を呑み、胸元を押さえて榊を見つめている。


 四年間、組織の重圧に押し潰されながら、捨てられずに抱え込み続けてきた紙の束。


 俺は表紙にそっと手を触れ、ゆっくりと息を吸い込んだ。


「……ありがとう、榊」


「なっ……」


 榊が弾かれたように顔を上げた。その目には驚愕と困惑の色が浮かんでいた。


「なんで……なんで礼を言うんだよ、道久! 俺はお前を裏切って黙っていたんだぞ! 四年もお前を泥の中に置き去りにして、今さら保身のためにこんなものを持ち出してきた卑怯者だぞ……!」


「なぜ今持ってきたのかなんて、俺には関係ないよ」


 俺は穏やかに首を横に振った。


「四年前に捨てられていてもおかしくなかった俺の仕事が、こうして残っていた。榊が捨てずに持っていてくれたから、あの時俺が現場で測った数字が嘘じゃなかったって、公社に証明できる。それだけで、俺には十分すぎるくらいありがたいよ」


「道久……」


「これは、公社の宮原さんに届けていいかい」


「……いや」


 榊は拳を固く握り締め、力強く首を振った。


「俺が持っていく。公社の区画測量課に、俺自身の足で提出する。アルゴノートの副団長として、当時の隠蔽の事実を認めて、正式に証言する」


「榊、それはクランにとって……」


「もう、手遅れなんだよ」


 榊は自嘲気味に口元を歪めた。


「大友ももう出ていく気だ。公社の指名枠は失って、遠征は延期続き。オルタマップにすがりついて現実を見ない鷺沼についていける奴は、もう現場には一人も残っちゃいねえ。……せめて、これ以上誰かが死ぬ前に、俺がこの手でケジメをつける」


◇


 夜の帳がすっかり下りた頃、榊は立ち上がった。


 事務所のドアを出て、外の階段を降りる榊を、俺は一階の路地まで見送った。


 冷え込んだ秋の夜風が、二人の間を吹き抜けていく。


「……道久」


 街灯の薄暗い光の下で、榊が立ち止まり、背中を向けたまま言った。


「本当に、すまなかった」


 絞り出すような、掠れた謝罪だった。


 俺はポケットに手を突っ込んだまま、静かに夜空を見上げた。


「あの時さ」


「え……?」


「四年前、団長室の前の廊下で待っていた時さ。ドアの向こうから、榊の怒鳴り声が聞こえてたよ」


 榊の肩が、びくりと跳ねた。


「『道久の地図がなきゃ俺たちは深層で死んでたんだ、あいつの書いたものをちゃんと読め』って。鷺沼さんに必死で食い下がってくれてた声、ちゃんと届いてたんだよ」


「……っ」


「だから俺は、榊のことを恨んだことなんて一度もないよ」


 俺の穏やかな言葉を聞いた瞬間、榊の大きな背中が、音を立てるように丸まった。


「ああ……あああ……っ」


 大柄な四十過ぎの男が、街灯の柱に額を押し当て、子供のように声を殺して号泣し始めた。


 四年間、胸の奥で自分を責めさいなんできた後悔と呪縛が、解き放たれた瞬間だった。


 俺はその背中を叩くことも、抱きとめることもせず、ただ静かに一歩後ずさりした。


「風邪を引くよ、榊。……俺は明日も朝から測量があって早いんだ。もう戻るよ」


 返事を待たずに踵を返し、俺は階段を上り始めた。


 背後で鼻を啜り、何度も頭を下げる友の気配を感じながら。


 隠された過去の紙切れが、ついに表舞台へと姿を現した。


 そしてそれは、四年間止まっていた時間を、取り返しのつかない速度で動かし始めようとしていた。

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