第45話 第七条を削る
公社本庁舎の四階にある小さな応接室で、俺は一枚の書類をテーブルの上に静かに置いた。
向かい側には、腕を組んで眉をひそめる柏木課長と、その横で手帳を開いた宮原怜が座っている。
「……修正案、ですか」
柏木課長が渋い顔で眼鏡のブリッジを押し上げ、俺が持参した紙面を指先で引き寄せた。
「志賀さん。公社が民間の専門家を外部特別技術顧問として迎えるにあたり、契約書のひな型を変更した前例はありませんよ。月額四十万円、月四日の稼働。これは課としても異例の好条件を提示しているつもりなのですがね」
「はい。その破格の条件には深く感謝しています。事務所の家賃と損害賠償保険の年間費用を、この報酬だけで完全に賄える額ですから」
俺は嘘偽りのない誠意を込めて頭を下げた。
十五坪のオフィスビル二階。家賃月十八万円、設備費、光熱費や通信費、そして探索者測量業務に不可欠な年間二十四万円の損害賠償保険。これら、人件費を除いて毎月発生する約四十万円の経費が公社の報酬だけで埋まるなら、事業主としての重圧は劇的に軽くなる。十和田と桑原に毎月きちんとした給料を払い続けるための、何より堅固な防波堤になるはずだった。
「ですが、提示していただいた契約書の第七条――『事前協議義務』の文言だけは、このままでは署名できません」
第七条の条文には、こう記されていた。
『乙(志賀)は、甲(公社)の見解と異なる測量所見または事故リスクに関する情報を対外的に公表する際、事前に甲の承認を得るものとし、甲が不適切と認めた場合は公表を留保しなければならない』
「これでは、公社にとって都合の悪い観測データが出た時、俺の口を塞ぐための契約になってしまいます」
「口を塞ぐだなんて人聞きが悪い」
柏木がわずかに語気を強め、指先でテーブルを叩いた。
「公的な基準を改定する組織の一員になる以上、対外的な発信に一定の統制が必要なのは当然のリスク管理です。根拠の不十分な情報で現場の探索者を無用に混乱させないための配慮ですよ」
「混乱させないために、現場への警告を握り潰す組織を、俺はかつて間近で見てきました」
俺の静かな言葉に、応接室の空気が張り詰めた。
アルゴノート時代、深層の危険性を何度訴えても「大手の名声に傷がつく」「新機材の導入に水を差すな」と撥ねつけられ、最後には切り捨てられたあの日の記憶。
十四年間勤めた古巣に復讐する気はない。だが、自分の自由を売り渡して他人の顔色を窺う立場に再び身を置くことだけは、絶対に選んではならなかった。
「俺が提案したいのは、第七条の全廃ではありません。修正です」
俺は持参した修正案の該当箇所を指し示した。
「『乙が甲の見解と異なる所見を公表する場合、公表の四十八時間前までに甲へ事前通知を行い、甲はその見解または反論を併記して公表する権利を有する』――これに書き換えていただきたいのです」
「事前通知だけで公表を認めるだと……? そんな勝手な真似を許したら、公社の面目が立たん」
柏木が露骨に不快感を示して首を横に振ろうとした、その時だった。
「課長、失礼します」
沈黙を守っていた宮原が、手帳をパチンと閉じて口を挟んだ。
「宮原くん、今は部外者との契約交渉中だぞ」
「部外者ではなく、これから現場の命を預ける顧問の話です。……むしろ、公社にとってもこの修正条項の方が安全ではありませんか?」
「何が安全だというんだ」
「現行の第七条のように外部の目を完全に塞いでしまえば、万が一深層で重大な測量事故が起きた際、『公社が都合の悪い警告を揉み消していた』と追及された時に逃げ道がなくなります。ですが志賀さんの修正案なら、公社は事前に警告を受け取った上で公式見解を併記できる。制度の透明性を証明する防壁として機能します」
宮原は淡々とした口調で、だが公務員としての保身の心理を的確に突きながら言葉を重ねた。
「それに、志賀式手順が第一参考資料として認められた今、志賀さんとの顧問契約を流して他クランやメディアにこの経緯が漏れれば、『公社は手順の考案者を囲い込もうとして失敗した』と叩かれます。基準改定の答申を年度内に通すためにも、ここで契約をまとめるのが最善策です」
柏木課長は苦虫を噛み潰したような顔で、宮原と俺の顔を交互に見比べた。
沈黙の時間が応接室を支配する。数十秒の後、柏木は深いため息をついて肩を落とした。
「……分かったよ。ただし、通知の期限は七十二時間前とさせてくれ。公社側で検証する時間を確保するためだ」
「はい。七十二時間前であれば喜んでお受けします」
俺が深く礼を言うと、柏木は力なく首を振った。
「宮原くん、すぐに法務を通して修正版の契約書を作成したまえ」
「了解いたしました」
宮原が書類をまとめながら、眼鏡の奥でこちらに勝ち誇ったような合図を送ってきた。
◇
夕方。法務の確認を終えた正式な契約書が応接室に運び込まれた。
修正された第七条を確認し、俺は万年筆を取って署名捺印した。
「これからよろしく頼みますよ、志賀特別技術顧問」
柏木課長と形式的な握手を交わすと、宮原から公社のプラスチック製身分証が手渡された。
顔写真の下に『迷宮管理公社 区画測量課 特別技術顧問 志賀道久』と印字されている。
「これで、本庁舎の執務エリアへの入退室権限と、三階の公社資料室の常時閲覧権が付与されました」
宮原が事務的な声で説明を終え、柏木が席を外したのを見計らってから、すっと顔を近づけてきた。
「早速だけど志賀さん、来週の初回稼働日、資料室の過去記録を洗う時間にするわよ」
「過去記録……四年前の受領記録のことですね」
「ええ。身内になったあんたの閲覧権限を使えば、目録の奥にある受領番号の突き合わせも正規の手続きで請求できる。……あの日、何が起きていたのか、一緒に確かめましょう」
宮原の眼差しには、職務を超えた強い意志が宿っていた。
◇
夜の帳が下りる頃、事務所のドアを開けると、室内に香ばしいお茶の香りが漂っていた。
「ただいま」
「志賀さん、お帰りなさい!」
製図台で作業をしていた十和田と、資材棚を整理していた桑原が一斉に顔を上げた。
そして、窓際の革張りソファには、黒のタートルネック姿の氷室灯がいつものように無言で腰掛け、膝の上に文庫本を乗せていた。
「契約、結んできたよ」
俺が鞄から身分証と契約書の控えを取り出して製図台の上に置くと、十和田と桑原が目を丸くして身を乗り出した。
「特別技術顧問……! 本当に決まったんですね!」
「月四日の稼働で、報酬は月額四十万円です」
桑原が電卓を叩き、ほっと息を吐き出した。
「先生、これで事務所の家賃十八万円と損害賠償保険、それに光熱費や通信費といった、人件費を除く毎月の固定費が完全に相殺されます。二人分の給与には測量業務の売上をそのまま回せますから、事務所が赤字になる心配は、これでほぼなくなりました」
「よかった……! 本当に、よかったです……!」
十和田が胸元を押さえ、心底安心したように顔をほころばせた。
二人の給料を毎月きちんと払えるだろうか、という不安は、俺だけでなく二人にも少なからず伝わっていたのだろう。経営の土台が盤石になったことで、室内の空気が目に見えて柔らかくなった。
「安いです」
ソファから、低く平坦な声が響いた。
氷室が文庫本を閉じ、こちらをじっと見つめていた。
「氷室さん?」
「志賀さんの技術と退路の設計に、月四十万は安すぎます。公社は狡いです」
相変わらずの極端な評価に、俺は思わず苦笑した。
「いやいや、月四日の勤務で四十万は破格だよ。それに今回は、公社の見解と違うことを言う自由もちゃんと残してもらったんだから」
「……なら、いいです」
氷室は短く納得すると、再び本を開いた。彼女なりの祝福なのだろう。
「さて、十和田さん」
俺は配信用端末の前に立った。
「定期配信の枠で、リスナーのみんなにも報告しておこうか。公社の技術顧問に就任したこと、そして手順書の更新や浅層の調査活動はこれまで通り自由に続けていくってことをね」
「はい! すぐにセッティングします!」
十和田が慣れた手つきでマイクとカメラを繋ぎ、数分後には配信が始まった。
画面越しの報告に、配信のチャット欄は瞬く間に歓喜のコメントで埋め尽くされた。
『おっさん公社の顧問になったのか!?』
『すげえええええ!』
『手順書の公開からまだ一ヶ月も経ってないのに大出世じゃん!』
『これでアンチの「公社と揉めてる」デマも完全終了だな』
『これからも浅層の手順書更新してくれるの助かる!』
好意的な声が大半を占める中、中傷コメントは流れ去り、画面の向こうにいる探索者たちの温かい熱気だけが残った。
守るべき仲間と、揺らぐことのない拠点がある。
一歩ずつ、確実に。俺たちの足場は固まりつつあった。




