第43話 十和田結の予測
午前六時。初秋の冷え込みが残る事務所に、張り詰めた朝の空気が満ちていた。
俺は深層用の耐圧ジャケットのジッパーを首元まで引き上げ、重い背嚢のベルトをしっかりと締め直した。今日から二日間、氷室灯さんとともに第七迷宮第十一層へ潜る。前回確保した三箇所の恒久基準点をもとに、空間錯乱の揺らぎを測定し、より安定した退路を固定するための潜行だった。
窓際に据えられた革張りソファから音もなく立ち上がった氷室さんは、首に防音用イヤーマフをかけ、すでに完全に仕上がった静かな気迫を纏っていた。
その見送りに立った十和田結と桑原巧が、並んで背筋を伸ばしている。
「桑原くん、留守中の事務所を頼むよ。電話対応と受付、機材の整理点検、それから十和田さんの浅層調査の地上連絡係だ」
「はい、お任せください。先生と氷室さんの無事のお戻りを、心より祈っております」
桑原が深々と頭を下げた。
かつて一人で全案件を抱え込み、不在中の四日間に胃を痛めていた頃とはまるで違う。背後をしっかりと支えてくれる仲間がいるという事実だけで、足取りは驚くほど軽かった。
そして俺は、胸元に観察手帳を抱きしめた十和田に向き直った。
「十和田さん。今日午後からの『アイリス』の第三層巡回調査、君一人に任せるよ」
「……っ、はい!」
アイリスは若手女性探索者五名で構成された堅実な中堅クランだ。先日公表した料金表通りの正規依頼で、新ルート開拓に伴う浅層の安全確認だった。
「この前の留守番のときみたいに、無理に背伸びをする必要はない。十七項目と補遺三項目を順番通りに踏んで、少しでも数値に違和感があれば『判断保留』にして引き返しなさい。もし先方が受注基準に合わない無理な行程を要求してきたら、君の判断で断って構わないからね」
「わかりました。志賀さんに教えていただいた手順だけを、一歩ずつ忠実に確認してきます」
緊張に肩を強張らせながらも、その澄んだ瞳には恐れの曇りは微塵もなかった。
「よし、行ってくる。二人とも、事務所をしっかり頼んだよ」
◇
二日後。第十一層の凄まじい空間錯乱を抜けて地上へ生還した俺と氷室さんは、夕暮れ時の事務所のドアを押し開けた。
「ただいま」
「志賀さん、氷室さん! おかえりなさい!」
迎えてくれた十和田の表情には、帰還の安堵と、それから今までに見たことのない興奮の紅潮が浮かんでいた。
「先生、これを見てください!」
俺が背嚢を下ろす間も惜しむように、十和田が一冊の野帳と公社のリアルタイム速報端末を製図台の上に広げた。
「昨日の第三層調査の報告書です。そして……これが、先ほど公社から届いた地殻観測ログです!」
俺は製図台に両手をつき、十和田が書き留めた野帳の数字と、端末の速報画面を交互に見比べた。
野帳には、十和田の几帳面な筆跡で、現場の一次情報が克明に刻まれていた。
『第二層から第三層への縦孔接続部。左壁面の吸着圧が一・二倍に上昇。湧水の流量が通常比マイナス二〇パーセント。オゾン臭の微弱な感知あり。足裏の滑り抵抗、南西方向へ五パーセント低下。推定変形圧ベクトル、北東から南西方向』
そして末尾には、定規で引かれた太いアンダーラインとともに、明確な結論が記されていた。
『総合判定:本日午後三時前後、第三層E―4通路および周辺分岐において、小規模な組み替え(落盤および通路閉塞)の発生確率九〇パーセント以上。アイリス隊に対し、当該区域への進入中止と迂回ルートの使用を勧告』
俺の視線が、公社の端末画面へと移る。
『本日十五時十二分、第七迷宮第三層E―4区画において小規模な地殻再編を確認。天井崩落による通路閉塞が発生。アイリス隊は事前警告に基づき迂回行動をとっており、人的・物的被害なし』
「……本当に、自力で当てたのか」
「はい! アイリスのリーダーさんから、さっき泣きながらお礼のお電話をいただきました! もしあのまま進んでいたら、隊の真ん中で落盤に巻き込まれて大怪我をしていたって……! 『志賀事務所の言う通りにして本当によかった』って、何度も何度も頭を下げてくださって……!」
十和田は感極まったように声を震わせ、それから両手を胸の前で激しく振った。
「でも私、特別なことは何もしていません! 志賀さんが教えてくれた手順書の項目を、言われた通りに順番に測っていっただけです! 私の手柄じゃありません、志賀さんの手順書がすごかっただけです!」
必死に自分の手柄を否定しようとする弟子に、俺は静かに首を横に振った。
「違うよ、十和田さん」
俺は野帳の紙面を、慈しむように指先で撫でた。
「手順書通りにやる、というのが、迷宮では一番難しいんだ。恐怖や焦りがあると、人は都合のいい方へ数字を歪めてしまう。兆候を見逃さず、マニュアルに忠実にデータを集め、迷わず危険を宣告した。これは君が自分の足と目で勝ち取った、正真正銘の単独予測的中だよ」
「志賀さん……」
「お見事でした、十和田測量士」
俺が頭を下げると、十和田は顔を両手で覆い、ポロポロと大粒の涙を零した。
俺の胸の奥に、温かく力強い確信が広がっていく。
十四年間、自分だけのものだと思い込んでいた身体感覚。誰にも教えられない勘だと諦めていた技能。それが今、この小さな弟子の手によって、客観的で再現可能な『技術』として証明されたのだ。
俺がいなくなっても、この仕事は死なない。志賀道久という一個人の中だけで閉じていた暗黙知が、他人に手渡され、人の命を救う基準として歩き始めたのだ。
野帳の隅に、十和田の字で小さく「湧水マイナス二〇パーセント、要再測」と書き足しがあった。俺が教えていない癖だ。もう、自分のやり方になり始めている。
その野帳を閉じたとき、受話器を置いた桑原が振り返った。
「先生。手順書をご覧になって見積もりを取り下げられた二社のうち、一社から改めてお問い合わせです。『自分たちで二十項目は測れたが、そこから何日後にどこが動くのかの判断がつかない』と」
「……そうか」
配った翌朝に消えた三十万円弱が、形を変えて戻りかけていた。手順書を読んだ隊は、自分たちに何ができて何ができないのかを、数字で知ることになる。
「桑原くん。受注基準に照らして検証日数が取れるなら、見積もりを出し直してくれ。取れないなら、理由を書いて正直に断って」
「はい。……先生。あれ、損じゃなかったんですね」
「損だったよ」
俺は野帳の背を指で軽く叩いた。
「取り戻せたのは、十和田さんが当てたからだ」
◇
夜九時。桑原が帰り、事務所には俺と十和田の二人が残っていた。
「十和田さん。これからは、浅層の通常案件は原則として君を主任担当にするよ。もちろん最終確認は俺がするけれど、現場の指揮と判断は君に預ける」
「……私が、主任ですか」
「ああ。自信を持ちなさい。君はもう立派な専門職だ。君の目が拾った兆候で、実際に五人の命が助かったんだ。胸を張っていい」
俺が笑いかけると、十和田は机の上に置いた自分のメモ手帳を見つめたまま、ふっと表情を曇らせた。
「……志賀さん」
「ん?」
「私……あの事故の日……」
十和田の唇が、小さく震えた。
「私が迷宮で助けていただいたあの日……私、本当は……」
何かを必死に告白しようとするように、喉を詰まらせる。
「……ううん。なんでも、ありません。まだまだ半人前ですから、もっと勉強します!」
十和田は慌てて笑顔を作り、深々と頭を下げた。
彼女が胸の奥に抱え込んでいる暗い影。助かったあの日、同期の探索者を置いて先に走り出したという、誰にも裁かれない罪の意識。
俺は何も追及せず、ただ穏やかに頷いた。
「焦らなくていいよ。君のペースで、一歩ずつ進めばいい」
「……はい!」
夜の事務所に、新しい風が吹き抜けていた。
◇
数日後。都心の一等地にそびえるクラン『アルゴノート』の本部ビル最上階。
大会議室には、凍りつくような沈黙が淀んでいた。
団長の鷺沼恭平が、額に青筋を浮かべて書類を睨みつけていた。手元には、前衛エース大友健吾から提出された『移籍希望届』がある。
「……どういうことだ、榊」
鷺沼の冷たい声が響く。
「大友が移籍を検討している噂は本当だったのか! 肩の治療費もクランが負担したんだぞ。他所へ逃げ出すなど恩知らずにも程がある!」
副団長の榊久史は、腕を組んだまま淡々と答えた。
「大友の肩はもう限界だ。今の遠征基準じゃ、怖くて前衛に立てねえと言っている」
「今の基準の何が不満だ! オルタマップの精度は業界最高峰だぞ!」
「あんたが切った地図屋の手順書が現場に普及し、若手クランが落盤を回避したそうだ。公社の速報にも載ったぜ」
「ぐっ……!」
志賀が無償公開した手順書は、隊員たちの間にも浸透していた。自分たちの遠征がいかに危険な手抜きの上に行われていたかを悟った隊員の不満は、もはや抑えきれなかった。
「団長、現実を見ろ」
榊は告げた。
「エースの大友が離脱を表明した以上、第十二層遠征の再編は不可能だ。これで遠征の延期は三度目になる。それだけじゃねえ」
榊は一枚の公文書をテーブルに滑らせた。
「公社から通達だ。三度の遠征延期と事故報告の遅れを理由に、来期の『深層公的学術調査』の指名枠がうちから取り消された。他クランへ回すそうだ」
「なっ……!?」
鷺沼が立ち上がり、顔面を蒼白に染めた。
公社の指名枠喪失。名門の権威と、数千万円規模の助成金が完全に消滅した瞬間だった。
切り捨てたはずの地図屋は、何もしていない。ただ手順書を配っただけだ。それだけで、巨大な名門の足元が崩れ始めていた。
沈黙を守る榊の胸ポケットには、志賀が引いた退路のメモが、静かに眠っていた。




