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追い出された地図屋のおっさん、暇つぶしの迷宮探索配信で人類最強に専属ナビを頼まれる〜元クランが深層で迷子になり「戻ってこい」と懇願してきた〜  作者: さくらろ
第5章 弟子と看板

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第42話 給料を払う側

 大安吉日の月曜日、午前九時。


 雑居ビルの二階、木製の重いドアの横に、発注していた真鍮の看板を取り付けた。電動ドライバーで四隅の木ネジを締め終え、二歩下がって眺める。


『志賀迷宮測量事務所』


 飾り気のない角張った明朝体で彫られた文字が、朝の光を鈍く、だが確かに照り返していた。


「……できた」


 十四年間、大手クラン『アルゴノート』の地下資料室の片隅で、自分の名札すらない長机に座っていた。名前ではなく「おい地図屋」「図面まだか」と呼ばれ続け、使い捨ての消耗品のように扱われていた頃の自分が見たら、どんな顔をするだろうか。


 胸の奥に熱い塊がこみ上げてくる。


 だが、感傷に浸っていられたのはほんの十秒足らずだった。


「家賃十八万……十和田さんの給料と社会保険……桑原くんの給料……損害賠償責任保険……」


 頭の中で、冷徹な電卓がカチカチと音を立てて数字を弾き出す。


 今日から俺は、誰かに雇われて給料を振り込んでもらう側ではない。他人の生活を預かり、この看板の責任を一身に背負って毎月金を払い続ける『事業主』になったのだ。背筋に冷たい緊張が走る。


「志賀さん! 看板、すごく綺麗です!」


 階段を駆け上がってきた十和田結が、目を輝かせて駆け寄ってきた。


 普段の泥だらけの探索ジャケットではなく、仕立ての新しい濃紺のリクルートスーツを着込んでいる。髪も後ろで綺麗に束ねられており、どこか背伸びした新入社員のようで思わず口元が緩む。


「ありがとう、十和田さん。よく似合ってるよ、そのスーツ」


「えへへ、週末にお母さんと一緒に選んできたんです。……今日から、ここが私たちの事務所なんですね」


「ああ。入ろう。君に渡す大事な書類がある」


◇


 事務所の中央、製図台の脇のテーブルに、俺は二通の書面を並べた。


「十和田さん。これに目を通して、納得できたら署名してほしい」


「……雇用契約書、ですか?」


「うん。これまで君には『弟子兼スタッフ』という曖昧な名目で月十五万円を渡していたけれど、今日から事務所の正式な正規雇用社員として迎え入れたい」


 十和田が目を見開き、両手で恭しく契約書を持ち上げた。


「基本給は月額二十二万円。そこから健康保険、厚生年金、雇用保険の法定控除が引かれる。事業主が負担する折半分の社会保険料は事務所が全額持つ。それと、万が一の測量ミスや現場事故に備えて、年二十四万円の損害賠償責任保険にも事務所名義で加入した。業務内容は受注窓口、データ整理、配信運営、そして浅層の測量実務だ」


 十五万円から二十二万円への昇給。社会保険の会社負担分を含めれば、十和田一人にかかる事務所の支出は月約二十六万円に達する。


「志賀さん……こんな、私なんかに……! 私、まだ志賀さんの足手まといで、大した役にも立ってないのに……!」


 十和田の大きな瞳に、みるみる涙が溢れていく。


「足手まといなもんか。君が不在の四日間に無茶な短縮依頼を断ってくれなかったら、俺は今頃過労で倒れていたよ。それに十七項目の手順書だって、君の観察手帳がなければ絶対に形にならなかった。これは施しじゃない。君の働きに対する正当な対価だ」


 ぼろぼろと涙を零しそうになる十和田の顔を、俺は製図台から取った白紙の図面で覆い隠した。


「ほら、泣かない。契約書が濡れたら印紙を貼り直さなきゃいけないんだから」


「ふえっ……はいっ……! ありがとうございます、志賀さん……! 私、一生ついていきます……!」


「一生は困るよ。早く一人前になって、自分の看板を掲げてくれないと」


 俺が苦笑いしていると、玄関のドアが控えめにノックされた。


◇


 午後一時。約束の時間ちょうどに現れたのは、桑原巧だった。


 アイロンのかかった清潔なシャツに、履き慣れた旧型の探索靴。右膝の厚いサポーターはスラックスの下に隠されていたが、歩くときの微かな左右の揺れは、前衛としての古傷を雄弁に物語っていた。


「失礼します。桑原巧です」


「待っていたよ、桑原くん。座ってくれ」


 俺はもう一通の契約書を差し出した。


「先日の返事だ。桑原巧くんを、当事務所の調査助手として正式に採用したい」


 桑原の肩が、目に見えて大きく震えた。


「条件を説明する。基本給は月額二十万円。十和田さんと同じく社会保険と損害賠償保険を完備する。担当業務は、浅層の実地踏査、機材の搬送、公社講習の運営補佐、および前衛視点からの図面フィードバックだ」


 そして俺は、契約書の第4条を指先でトントンと叩いた。


「特記事項を読んでくれ。『乙(桑原)の業務範囲は第一層から第四層までの浅層、および地上業務に限定し、第五層以深への同行はこれを命じない』。君の右膝に過度な負担をかける業務は、事務所の規定として一切禁止する」


 桑原は指先でその文面をなぞり、絞り出すような声で呟いた。


「……そこまで、書いてくださるんですか。深層に行けない前衛なんて、普通のクランならゴミ箱行きですよ」


「ここは普通のクランじゃない。迷宮の安全を売る地図屋の事務所だ」


 俺は桑原の目を真っ直ぐに見つめた。


「前衛探索者としての君の誇りも、怪我を抱えた現実も、全部ひっくるめて引き受けるのが雇う側の責任だ。深層に行けないことを引け目に思う必要はない。浅層の土台を君が完璧に固めてくれるからこそ、俺は安心して深層の退路を引けるんだから」


 桑原は唇を強く噛みしめ、深く、深く頭を下げた。


「……ありがとうございます。この足が動く限り、先生とこの事務所のために尽くします」


 十和田が笑顔で冷たい麦茶を出し、桑原が恐縮しながら受け取る。


 こうして、志賀迷宮測量事務所は、俺を含めた三人体制で正式に船出を迎えた。


◇


 夕方四時。機材の搬入が一段落した執務室のドアが、突然何の物音もなく開いた。


「……ここですか」


 白く透き通るような髪に、人形のように起伏のない美貌。首に防音用の耳当てをかけた少女――人類最強の単独最深到達者、氷室灯さんだった。


「ひ、氷室さん!?」


 十和田が飛び上がり、桑原が前衛の本能で反射的に直立不動の姿勢を取る。


「氷室さん、いらっしゃい。……って、その荷物は一体何?」


 氷室さんの両手には、パンパンに膨らんだ特大のボストンバッグ二つと、なぜか一人掛けの高級革張りリクライニングソファが抱えられていた。成人男性二人がかりで運ぶような重量物を、彼女は片手で小脇に抱えている。


「私のスペースです」


 氷室さんは当然の権利のように事務所の最も日当たりのいい窓際へ歩いていき、ドカリと私物を下ろした。


「待て待て待て! ここは俺の仕事場であって、君の部屋じゃないぞ!?」


「知っています。専属ナビの詰所です。深層潜行の前後はここに待機するのが最も合理的です。あと、この椅子は腰に良いやつです。志賀さんの分も色違いで発注してあります」


「発注してあるって……いや、置く場所がないから! 事務所が手狭になるだろ!」


「十五坪あります。私の体積は小さいです。問題ありません」


「体積の問題じゃない!」


 無表情のまま淡々と理屈を並べる最強の探索者と、頭を抱える中年の地図屋。


 桑原がおずおずと十和田の耳元に囁いた。


「……十和田さん。あの、氷室灯選手って、いつもあんな感じなんですか?」


「はい……志賀さんの前だと、いつもあんな感じです……」


 十和田の引きつった笑い声が部屋に響く。氷室さんは満足げにソファに深く腰掛け、早くも定位置として寛ぎ始めていた。


 やれやれと頭を振りながらも、事務所の中に満ちる温かく賑やかな空気に、俺の口元は自然と緩んでいた。


◇


 夜八時。二人が帰り、氷室さんも迎えに来たエージェントの七尾さんに引きずられるように去った後。


 静まり返った事務所で、俺は電卓を叩いていた。


 事務所家賃、月十八万円。

 十和田の給与と法定福利費、約二十六万円。

 桑原の給与と法定福利費、約二十四万円。

 損害賠償保険と水道光熱費・通信費、約七万円。

 雑費・備品積立、約五万円。


「合計……毎月八十万円か」


 年間にして約九百六十万円。六畳間のアパートにいた頃には想像もできなかった巨額の固定費だ。


 だが、今の俺たちにはこの数字を無理なく支える計算が立っていた。


 氷室さんとの専属ナビ契約から固定報酬月百五十万円。

 公社主催の読図講習の講師料が、毎週一回・月四回で二十万円(一回五万円)。

 配信収益から月十万〜十五万円。


 これだけで、固定費の八十万円は手堅くペイできる。さらに中堅クランからの通常案件を、料金表(浅層一件十二万円、中層日当十八万円)と受注基準(同時三件まで・最低検証日数の確保)を厳格に守りながら請け負えば、事務所の経営基盤は極めて強固になる。


 金のために自由を売る必要はない。


 公社の技術顧問の第七条に頭を縦に振らなくても、俺は俺の足で、この二人の生活を支えながら胸を張って立っていける。


「……よし」


 電卓の電源を落とし、俺は製図台に広げられた第十一層の基準点マップを見つめた。


 一人で抱え込んでいた重荷を、今は三人で分け合っている。


 体制は整った。次は――育ててきた弟子が、迷宮の現場で本当に一人で立てるかどうかが試される番だった。

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