第41話 移籍の相談
手順書を無料公開してから三日後の午前。
新事務所のドアに据え付けられた呼び鈴が、低く二度鳴った。
「は、はい! どなたでしょうか!」
給湯室から駆け出した十和田が玄関ドアを開けた瞬間、息を呑んで硬直する気配がした。
「……すまねえな、お嬢ちゃん。志賀道久はいるかい」
低くしゃがれた、胃の腑に響くような太い声。十四年間、毎日のように聞き慣れていた声だった。
製図台から顔を上げた俺の目に飛び込んできたのは、二人の大男の姿だった。
一人は、屈強な体躯に坊主頭、顎に太い古傷のある中年男――国内トップクラン『アルゴノート』の副団長であり、かつて俺とともに現場を歩き続けた元同僚、榊久史だった。
そしてもう一人は、黒い革ジャケットを羽織り、左腕を吊り帯で胸元に固定した長身の青年――アルゴノートの看板前衛であり、若きエースとして名を馳せていた大友健吾だった。
「……榊。それに、大友さん」
「よう、道久。……いい事務所を構えたじゃねえか。日当たりも悪くねえ」
榊は無骨な手で後頭部を掻きながら、雑居ビルの部屋を値踏みするように見回した。その表情には、旧友の独立を祝う感情と、拭い去れない後ろめたさが複雑に混ざり合っている。
その隣で、大友は痛むのか左肩を庇いながら、深々と頭を下げた。
「アポなしで押しかけてしまい、申し訳ありません、志賀さん」
「いや……どうぞ、入ってください。十和田さん、お茶を頼めるかい」
「は、はいっ! すぐにお淹れします!」
十和田は『アルゴノート』の副団長とエース前衛という規格外の来客に目を白黒させながら、小走りで給湯スペースへと戻っていった。
事務所の隅に設けた小さな応接スペース。パイプ椅子に腰掛けた大男二人を前に、俺も丸椅子を引いて向かい合った。
◇
運ばれてきた麦茶を一口すすり、大友が口を開いた。
「志賀さん。一昨日の配信、拝見しました。公開された手順書も、すぐにダウンロードして印刷させてもらいました」
大友は革ジャケットの内ポケットから、四つ折りにされて端が擦り切れた用紙を取り出した。俺が配った『十七項目+補遺三項目』の手順書だ。余白には、びっしりと青や赤のボールペンでメモや数字が書き殴られていた。
「これを見て……全身から血の気が引いたんです」
大友の視線が、三角巾で固定された自らの左腕へと落ちた。
「二ヶ月前の第十二層遠征で、俺が肩を砕かれた落盤事故……あの時、オルタマップが『最適経路』として弾き出したルートは、この手順書の二十項目のうち、実に九項目を無視して組まれていました」
部屋の空気が、シンと凍りつく。
「壁面の吸着圧も測らず、湧水のpH変化も無視し、変形臭の兆候に至っては『気流の乱れによる測定誤差』として切り捨てて前進を続けた。もし……志賀さんがまだクランに残っていてくれたら、俺はこんな腕にならずに済んだんじゃないかって。団長が朝礼で胸を張っていた『最新AIによる完全な安全管理』が、どれだけ薄氷の上の嘘だったのか……自分で数えてしまったんです」
悔しさに震える大友の告白を、榊は腕を組み、固く目を閉じたまま黙って聞いていた。
アルゴノートが第十二層での落盤事故と主力の負傷を隠蔽し、遠征日程を再三延期した結果、主要スポンサーの一社から契約更新を見送られたという話は、公社の宮原さんからも聞いていた。
名門クランの屋台骨が、内側から音を立てて軋んでいる。その痛烈な現実が、怪我を負ったエース前衛の姿となって、いま俺の目の前に座っていた。
◇
「志賀さん」
大友が姿勢を正し、祈るような眼差しで俺を見据えた。
「単刀直入に相談させてください。……俺は、アルゴノートを抜けて他へ移籍することを考えています」
茶碗を洗っていた十和田の手が止まり、カチャリと小さな陶器の音が響いた。榊は眉ひとつ動かさない。副団長である榊がここに同席していること自体が、この相談を榊が個人的に黙認している証拠だった。
「移籍、ですか」
「はい。手術は成功しましたが、左肩の腱は二度と元通りにはなりません。前衛として最前線に立てる時間は、長くてあと数年です。だからこそ……最後は、本当に信頼できる人間が引いた図面の上で、納得して戦いたいんです」
死線をくぐり抜けてきた探索者の、剥き出しの覚悟だった。
「志賀さんに教えてほしいんです。あのクランは……アルゴノートは、この先も深層を攻略できますか? オルタマップのナビゲーションだけで、第十三層以深へ進んで、無事に帰ってこられると思いますか?」
重い問いだった。
自分を切り捨てた組織の命運を問われている。もしここで「あんなクランはもう終わりだ」「俺の指示に従えば勝てる」と煽り立てれば、古巣へのこれ以上ない復讐になるだろう。大友という絶対的な前衛を失えば、アルゴノートの深層攻略は完全に頓挫する。
だが――俺の口から出たのは、そんな泥臭い怨嗟の言葉ではなかった。
「……深層の空間錯乱は、階層が進むごとに二乗に比例して複雑化します」
俺は感情を交えず、淡々と客観的な事実だけを口にした。
「オルタマップが採用している深層学習モデルは、過去の通行ログの統計確率から最適解を導き出します。浅層や中層なら、それで八割以上当たります。けれど第十層以深の組み替えは、数時間単位で通路の接続そのものが書き換わる。参照できる過去データが存在しない領域では、AIの計算結果はサイコロを振っているのと変わりません」
「サイコロ……」
「ええ。第十二層までは、大友さんたちの圧倒的な戦闘力で力押しが利いたかもしれない。けれど第十三層からは、退路の寿命を秒単位で管理できない隊は、どれだけ腕が立つ前衛がいても全滅します。今のオルタマップの仕様のまま深層遠征を強行すれば……次に砕かれるのは、肩の骨だけでは済まないでしょうね」
大友の顔から、完全に血の気が失せた。
「……やっぱり、そうなんですね」
◇
「志賀さん」
大友は膝の上で固く拳を握りしめ、縋るように身を乗り出した。
「俺を……この事務所で雇っていただけないでしょうか。あるいは、志賀さんが信頼できる別のクランを紹介していただけませんか。志賀さんが『ここへ行け』と言ってくださるなら、俺は迷わずそこへ行きます」
誰かに背中を押してほしい。重すぎる人生の選択を、信頼できる他人に預けて楽になりたい。
その弱さは痛いほど理解できた。十四年間、クランという巨大な組織にぶら下がり、言われるがままに図面を引き続けていた過去の自分が、まさにそうだったからだ。
だからこそ、俺は静かに首を横に振った。
「大友さん。それはできません」
「……どうしてですか」
「俺は地図屋です。迷宮の構造を見て、退路を引くのが俺の仕事だ。他人の人生の進路を決める権利もなければ、責任も負えません」
俺は視線を逸らさず、はっきりと告げた。
「君がアルゴノートに残るか、移籍するか、あるいは前衛を辞めるか。それを決めるのは、君自身です。俺が君を引き抜くことも、どこかのクランを紹介することもありません。俺が渡せるのは、さっき話した『深層の経路設計における現実的なリスク』という判断材料だけです」
「志賀さん……」
「君の前衛としての腕を、俺は十四年間見てきました。命を預けられる素晴らしい盾役です。だからこそ、誰かの言葉に流されるのではなく、君自身が自分の命をどこに預けるべきかを考えて決めてほしい」
大友は言葉を失い、呆然と俺を見つめた。
歓迎されるでもなく、突き放されるでもなく、ただ一人の自立した探索者として扱われたことに、激しい戸惑いと、それ以上の深い衝撃を受けているようだった。
「……分かりました」
やがて、大友は絞り出すように呟いた。
「俺が甘えていました。自分の進退は、自分で決めます。……今日伺ったお話、一生忘れません」
大友は立ち上がり、深々と頭を下げた。その横顔からは先刻までの迷いが消え、自分の足で立つ者の覚悟が宿っていた。
◇
事務所の玄関先まで、二人を見送る。
先に階段を降りていく大友の背中を見届けた後、踊り場で榊が足を止めた。
榊はポケットに両手を突っ込んだまま、振り返りもせずに呟いた。
「……道久」
「ん?」
「……いや。なんでもねえ」
榊は短く息を吐き、それ以上は何も言わずに階段を降りていった。
かつてアルゴノートで肩を並べていた頃、榊が言葉にできない重い苦悩を抱え込んだときに見せる、特有の沈黙だった。
彼が胸ポケットの奥に、かつて俺が渡した『第十二層の退路メモ』を今でも大切に仕舞い込んでいることを、俺はまだ知らない。ただ、その無言の背中に滲む深い痛切さだけが、冷たい階段の空気に残されていた。
「……志賀さん」
ドアを閉めた後、十和田がおずおずと声をかけてきた。
「大友さん、移籍しちゃうんでしょうか……」
「さあね。それは大友さんが決めることだよ」
俺は製図台の前に戻り、鉛筆を握り直した。
かつて俺を切った巨大なクランが、内側から確実に崩れ始めている。だが俺には、復讐に酔いしれる暇などない。俺には俺の、この小さな事務所と、守らなければならない日々の暮らしがあるのだから。




