第40話 手順を配る日
午前七時。公社近くの雑居ビル二階、まだ看板もない十五坪の部屋は、朝の光に白く洗われていた。
六畳間のアパートから運び出した段ボール箱の向こうに、昨日届いた特大の傾斜製図台が据えられている。アパートでは広げられなかった第七迷宮の全体図面が、皺ひとつなく張られていた。
「……広いな」
思わず呟きが漏れる。
十四年間、地下資料室で背中を丸め、追い出されてからは畳の上で図面を引いていた。それに比べれば息を吸うだけで胸が広がる。
もっとも、その代償として毎月十八万円の家賃が口座から引き落とされるわけだが。
「おはようございます、志賀さん!」
ドアが開き、十和田結が入ってきた。手にはコンビニの袋が提げられている。
「朝ごはん、買ってきました。……あ、製図台! 図面が全部乗ってます!」
十和田は目を丸くして製図台に駆け寄り、感嘆の息を漏らした。
「これなら全体の歪みが一目で追えますね」
「ああ。それでね、十和田さん」
俺は製図台の脇に置いた厚紙の束――『十七項目+補遺三項目』の手順書を手に取った。
「これ、今日の夜の配信で全部配るよ」
「えっ……!?」
十和田の手が止まり、袋を抱えたまま固まった。
「ぜ、全部ですか!? 志賀さんが十四年かけて身体に叩き込んできた技術のすべてじゃないですか! 商売の種ですよ!?」
「大丈夫だよ」
俺は苦笑しながら手元の紙をめくった。
「ここに書いてあるのは『迷宮の歪みを見つけるための手順』だ。壁の吸着圧や足裏の滑り抵抗、匂いの変化の確認。どれも丁寧に歩けば誰でも確認できる客観的事実なんだ」
「それは……そうですけど」
「事実が並んでいることと、そこから『だから明後日の午後三時にここが塞がる』と判断することは別の技術だよ。素材が揃っても誰もが同じ料理を作れるわけじゃない。むしろ現場の探索者がこの手順で正確なデータを集めてくれれば、俺のところには精度の高い依頼だけが集まるようになる」
「でも、それって……」
「うん。減る仕事はあるよ」
ごまかしても仕方がないので、正直に言った。
「浅層の安全確認みたいな、手順を踏めば済む依頼は『自分たちでやる』と言われる。値切られることも増えるだろうね。俺は自分の値段を自分で下げるんだよ」
「そこまで分かってて、どうして……」
「それでも配るからさ」
俺は窓の外、遠くに見える迷宮管理公社の庁舎を見上げた。
「公社の顧問の話は、あの第七条を呑む形では受けられないと決めた。公社の看板に頼らずに信用を積むなら、一部に囲い込んで売るより、多くの探索者にこの基準を使ってもらった方がいい。『志賀の手順書で助かった』という生還者が迷宮から何十人も帰ってきたら、公社も大手も俺の言葉を無視できなくなる」
十和田は息を呑み、表紙の裏に印刷された自分の観察手帳由来の「補遺三項目」を見つめた。
「……私の手帳が、人の命を助ける基準になるんですね」
「十和田さんが拾い上げてくれたからできた紙だ。堂々と配ろう」
「はい! 配信の準備、私に任せてください!」
◇
夜八時。真新しいデスクにカメラとマイクをセットし、配信を開始した。
『配信タイトル:【資料全公開】迷宮の組み替えを身体感覚で先読みするための「十七項目+補遺三項目」手順書配布』
開始ボタンを押した瞬間、通知を受け取った視聴者が雪崩のように流れ込んできた。
《新事務所きたあああ!》
《てかタイトル何!? 全公開ってマジ!?》
《手順書配布!? あの予言のタネ明かしすんの!?》
開始五分で同接数は三千人を突破した。天狼会の依頼を断った件が拡散され、登録者数は十万人を超えていた。
「みなさんこんばんは、地図屋の志賀です。ええと、概要欄に公社ライセンスサーバーと直リンクのURLを貼りました。僕が迷宮の構造変化、いわゆる『組み替え』を観測する手順書を、全文無償で公開します」
コメントの流れが一瞬止まり、次の瞬間に濁流となって画面を埋めた。
《は!?!?!?》
《マジでダウンロードできた……ガチのやつだ》
《図解入りで二十項目全部載ってるぞ!?》
《有料なら一本数百万円するだろ……正気か!?》
「お金を取ることも考えたんですが」
俺はカメラに向かって穏やかに語りかけた。
「迷宮の組み替えによる事故は、正しい手順を踏んでいれば防げるものがほとんどです。特に中層以下では、AI測量システムが参照データを失って止まる事例が増えています。機器が動かないとき、現場の探索者が自分の身体を使って安全を確認できる共通の物差しが必要なんです」
俺は画面に手順書の抜粋を映し出し、基本の十七項目を解説した。そして――。
「今回追加した『補遺三項目』は、弟子の十和田結さんが僕の無意識の癖を言語化してくれたものです。項目十八、分岐点における左壁面への吸着圧測定。項目十九、床面の摩擦抵抗変化。項目二十、岩盤圧縮時の変形臭感知」
《身体感覚を全部言葉にしてる》
《弟子ちゃん有能すぎる》
《これ全部公開して志賀さんの仕事なくならないの?》
「なくなりませんよ。危ない場所は誰でも分かりますが、じゃあどこを通れば安全に帰れるかという退路の設計は、全体の歪みを計算する別の技術です。みなさん、どうか迷宮で生き残るためにこの紙を使ってください」
同接数は一万五千人を超えていた。初月十二万八千円だった配信収益の数字が頭をかすめる。だが今夜の配信は、小遣い稼ぎとは比べ物にならない巨大な楔を業界に打ち込んだのだ。
◇
翌朝。手順書公開の反響は、真っ二つに割れていた。
「……うわあ、すごいことになってます」
十和田がタブレットを見つめながら引きつった声を上げた。
若手探索者や中堅クランからは感謝の声が集まっていた。
『志賀さんの手順書、マジで使える。第二層の分岐で吸着圧試したら本当に壁が引っ張ってた』
『小規模崩落を事前に回避できた。命の恩人だ』
だが一方で、既存の測量業者や一部の大手関係者からは激しい反発が噴き上がっていた。
『業界の秩序を乱すスタンドプレーだ』
『タダでばら撒かれたら正当な業務相場が崩壊する』
『素人が中途半端に真似して死んだらどう責任を取るのか』
「志賀さん……『同業者殺し』って書かれてます……」
「いいんだよ、十和田さん」
俺はコーヒーをすすりながら穏やかに返した。
「相場が崩れると怒る人は、安全確認をブラックボックスにして高く売っていた人たちだ。でも安全の手順は共有財産であるべきだ。真似されて奪われる仕事なら最初から価値はない。俺たちが売るのはその先の退路なんだから」
「……はい!」
そこへ、十和田の手元の端末が短く鳴った。画面を見た彼女の顔から、さっと血の気が引いていく。
「……志賀さん。先週見積もりをお出ししていた二件から、取り下げのご連絡が……」
「二件とも?」
「はい。『手順書を拝見しました。浅層の安全確認なら、うちの隊で回せそうです』って……」
浅層一件十二万円の依頼が二件と、その先に続くはずだった定期契約の話。月で数えれば三十万円弱。事務所の家賃が丸ごと飛ぶ額だった。
「……私が、配信の準備を楽しんでしまったせいですか」
「違うよ。俺が決めて、俺が配った」
マグカップを置いて、俺は一つ息を吐いた。痛くないと言えば嘘になる。自分の値段を自分で下げたのだから、当たり前の代償だ。
「でもね、十和田さん。手順書を読んで自分たちで測れると思った隊は、実際に測ってみて、どこから先が自分たちの手に負えないのかを知ることになる。そこまで来た隊は、次は正しい理由でうちに来るよ」
「……来なかったら、どうするんですか」
「それはそれでいいんだ。事故が起きなかったってことだから」
十和田は何か言いたげに口を開きかけ、結局、唇を引き結んでうなずいてみせた。
「さあ、午後は公社の講習室で実技講習会だ」
◇
午後二時。迷宮管理公社本部・第二講習室。
公社は今月から、月に一度だった読図講習を毎週一回の定例開催へ切り替えていた。受講料五万円・定員二十名の枠は今回も満席で、配布した手順書をそのままテキストに使い、十和田が実技を実演した。
「――このように、壁面に手を当てる際は母指球から掌全体を均等に密着させてください。指先だけだと血流の拍動を壁の振動と誤認します」
教壇に立つ十和田の声は、次第に落ち着きと明瞭さを帯びていった。受講生たちが熱心にペンを走らせる。
その最前列に、見覚えのある顔があった。
右膝にサポーターを巻き、食い入るように手元を見つめている青年――桑原巧だ。
前回の講習で俺の癖を指摘し、この手順書が生まれるきっかけを作ってくれた元探索者だった。桑原は今日も使い古された探索靴を履き、分厚い野帳にびっしりとメモを取っている。
「……以上が補遺項目の実技確認です。志賀さん、補足はありますか?」
「完璧です。僕から補足はありません」
俺が拍手を送ると、受講生たちからも温かい拍手が湧いた。十和田は照れくさそうに頭を下げた。人に教えることで、彼女自身の中の知識も急速に定着していた。
◇
夕方五時。片付けを終えて廊下に出たときだった。
「あの……志賀先生」
柱の陰から、桑原巧が声をかけてきた。
「桑原くん。今日も受講してくれてありがとう」
「いえ……先生、少しだけお時間いただけないでしょうか」
真剣な眼差しだった。俺と十和田は、公社地下の喫茶スペースへ移動した。
桑原は背筋を伸ばし、膝の上に両手を置いて口を開いた。
「志賀先生。……俺を、先生の事務所の助手として雇っていただけないでしょうか」
唐突な申し出に、十和田が小さく息を呑んだ。
「助手、ですか?」
「はい。先生が新事務所を開設されたと配信で見ました。十和田さんお一人では、これから増える依頼や講習を捌ききれなくなるはずです」
桑原は真っ直ぐに俺を見つめた。
「俺は三年前に前衛探索者を引退しました。理由は……右膝の粉砕骨折です。手術はしましたが激しい戦闘機動はもうできません。だから、深層への潜行には同行できません。足手まといになるだけです」
自らの弱点を、桑原は一切隠さずに淡々と告げた。
「でも、浅層の巡回や荷物の運搬なら今でも負けません。長距離を歩く体力もありますし、前衛の視点から『探索者が現場で本当に必要とする図面の形』を助言することもできます。書類仕事や計算は苦手ですが……現場の足としてなら、必ずお役に立てます」
深層には行けない。戦闘も事務もできない。普通のクランなら即座に断る条件だ。だが――俺の頭の中の電卓が、別の計算を弾いた。
十和田は記録や書類、対人折衝の才能があるが現場の体力に限りがある。桑原が入れば、浅層の実地踏査や機材搬送、講習補佐を任せられる。十和田を司令塔に、桑原を現場の足にする。
二人が噛み合えば、俺が深層に潜っている間でも浅層案件を事務所として回せる。
だが問題は金だ。十和田の正規雇用と桑原の給料。固定費が一気に跳ね上がる。
「……桑原くん」
俺はゆっくりと言った。
「君の能力は講習を見ていてよく分かっている。手順書ができたのも君のおかげだ。でも、これは人の生活を預かる雇用の話だ。手伝いという中途半端な形で君を縛るわけにはいかない。きちんと給料を払い、保険をかけ、継続して雇えるだけの算段がつくか、少し時間をくれないか」
即答で断られると覚悟していたのか、桑原の顔に深い安堵が広がった。
「……はい! 待たせていただきます!」
「来週中には、正式な返事を事務所で伝えるよ」
深々と頭を下げる桑原を見送りながら、俺は小さく息を吐いた。
公社の檻を拒み、手順書を配って自由を選んだ男の前に、今度は「他人の人生を養う責任」という、もう一つの重い現実が立ち塞がろうとしていた。




