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追い出された地図屋のおっさん、暇つぶしの迷宮探索配信で人類最強に専属ナビを頼まれる〜元クランが深層で迷子になり「戻ってこい」と懇願してきた〜  作者: さくらろ
第5章 弟子と看板

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第39話 顧問の話

 午前八時。アパートの六畳間には、茶色い段ボール箱がうず高く積まれていた。


 十四年間で書き溜めた野帳の束、三角定規、使い古した携帯コンパス。一つひとつ埃を払いながら箱に詰めていく。


「家賃十八万……光熱費と通信費で五万……保険と雑費で三万……」


 ガムテープを引く手を止めず、俺は頭の中で毎月の支出をそろばんで弾いていた。


 来週からは新しい事務所の維持費がのしかかってくる。新事務所の開設は大きな前進だが、毎月の固定費という名の見えない鎖が、じわりと首を締め始めているのも事実だった。


 ポケットのスマートフォンが振動した。画面には『迷宮管理公社 宮原怜』の文字。


「はい、志賀です」


『おはようございます、志賀さん。深層潜行と事務所の契約、お疲れ様でした』


 相変わらず情報が早い。


『先日の件ですが……本日午前十時、公社本部の特別会議室までお越しいただけますか。柏木課長も同席いたします』


「……わかりました。すぐに向かいます」


 通話を終え、俺は手持ちで一番まともなジャケットに着替えた。深層から生還した直後、宮原さんが言っていた件だ。課長同席となれば、ただの雑談であるはずがない。


◇


 午前九時五十分。公社本部ビル四階『第三特別会議室』。


 重厚な木製ドアを開けると、そこには二人の人物が待っていた。


 一人は、紺のスーツを几帳面に着こなした宮原怜さん。


 そしてもう一人は、白髪交じりの髪を撫で付け、神経質そうに眼鏡のブリッジを押し上げた中年男性――区画測量課長の柏木隆さんだった。


「お忙しいところ足労いただき恐縮です、志賀さん。どうぞお掛けください」


 柏木課長が上座の革張りソファを勧めてきた。


 下請けマッパーとして公社の窓口で書類の一文字の誤字で門前払いを食らっていた頃を思い出すと、信じられないほどの厚遇だった。


「志賀さん、単刀直入に本題に入らせていただきます」


 宮原さんが、銀色の箔押しが施された青いファイルを机の上に滑らせた。


「迷宮管理公社区画測量課として、志賀道久様に『外部特別技術顧問』へのご就任を正式に打診させていただきたく存じます」


「……技術顧問、ですか?」


 思わず声が上ずった。


「はい。待遇は月額報酬四十万円。月四日程度の稼働を想定しております。業務内容は、公社の公認マッピング規程の改定監修、若手測量技官への現場指導、および公社主催の読図講習のカリキュラム策定です」


 四十万円。


 その数字が耳に飛び込んできた瞬間、俺の胸の中で電卓が激しく弾けた。


 月額四十万円。月四日。


 新事務所の家賃十八万円と、年二十四万円の損害賠償保険、さらには水道光熱費まで含めて、毎月の基礎的な固定費がこれ一本でそっくりそのまま埋まる金額だった。


 これさえあれば、毎月無理に件数を追う必要もなくなる。十和田への給料も確実に確保できる。


「公社としても、志賀さんの『十七項目』の手順書を正式な安全基準として全国の迷宮へ普及させたいのです」


 柏木課長が身を乗り出し、柔らかな笑みを浮かべた。


「AI測量システム『オルタマップ』の普及に伴い、現場の人力による検証技能が急速に形骸化しております。先日の事故のように、機器の盲点を突いた崩落を防ぐためには、志賀さんのような長年の身体感覚に裏打ちされた基準が不可欠なのです」


 かつてクランを追い出され無職になった男への待遇として、破格を通り越して夢のような話だった。


◇


 だが――差し出された契約書の草案に目を落としていた俺の指先が、三ページ目でピタリと止まった。


「……宮原さん。この第七条は?」


 俺が指差した条項を、宮原さんは表情を変えずに見つめ返した。


『第7条(公表および所見の事前協議義務)

乙(志賀)は、迷宮の構造、組み替え周期、および安全性に関する独自の知見または観測結果を対外的に公表・配信する場合、事前に甲(公社)へ通知し、協議を行わなければならない。甲の公式見解と著しく異なる所見については、甲の承諾を得るまで公表を留保するものとする』


「……これは、どういう意味でしょうか」


 部屋の空気が、ふっと冷えた。


「言葉通りの意味です」


 柏木課長が咳払いをし、穏やかな口調を取り繕いながら言った。


「公社の顧問という公的な立場に就かれる以上、志賀さんの発言はすべて公社の看板を背負うことになります。配信やSNSで個人的な見解を自由に発信され、それが市場や探索者界隈に不要な混乱を招いては困るのです。一定の調整は組織として当然のルールかと」


「調整、ですか」


 胃の奥に、苦い記憶が蘇ってきた。


 アルゴノート時代。第七迷宮の組み替え周期のズレを特定し、「遠征を見直すべきだ」と報告書を出した時のことだ。鷺沼団長は言った。『そんな不確定な勘を公表されたらスポンサーが逃げる。余計なことは言うな』と。


 そして俺の警告は握り潰され、俺自身が追い出されたのだ。


 もしこの条項にサインすれば、俺は毎月四十万円の安定を手に入れる代わりに、自分が現場で見た真実を、自分の口で言う自由を失う。公社が「問題ない」と言えば、危険だと分かっていても警告を出せなくなる。


「志賀さん、固定費のプレッシャーはお察しします。この契約があれば経営の基盤は盤石になりますよ」


 確かに、喉から手が出るほど欲しい金だった。


 だが――。


「……過分なご提案、心から感謝いたします。ですが、今日ここで即答することはできません。少し、持ち帰って考えさせていただけないでしょうか」


 柏木課長はわずかに眉をひそめたが、すぐに営業スマイルを戻した。


「ええ、もちろん結構です。来週末までに良いお返事をいただけることを期待しております」


◇


 会議室を出て、エレベーターホールへ向かう廊下。


 カツカツと早足で追ってきた宮原さんが、俺の隣に並んだ。


「……志賀さん」


「宮原さん。せっかく話をまとめてくれたのに、即答できなくてすみません」


「いえ。あなたが即答するような人なら、最初からこの話を課長に上げたりしません」


 宮原さんは周囲を見回し、声を潜めて言った。


「……第7条に引っかかったんでしょう」


「……ええ」


「官僚組織の保身条項です。課長たちは民間の職人に主導権を握られることを嫌いますから。ですが……」


 宮原さんの横顔が影を帯びた。


「先に中に入ってもらえた方がいい話も、あるんです」


「……どういう意味ですか?」


 問いかけた俺に、宮原さんはそれ以上答えなかった。


「潜行の疲れをしっかり取ってください。事務所の引越し、手伝えることがあれば言ってくださいね」


 それだけ言い残し、彼女は去っていった。公社の内部で何かが蠢いている。だが、その濁流に自ら飛び込むには、今の俺の足場はあまりにも脆すぎた。


◇


 夜八時。ダンボール箱に囲まれた六畳間で、俺は十和田に公社での話を打ち明けていた。


「月額四十万円の技術顧問……!」


 十和田は目を輝かせた。


「すごいじゃないですか、志賀さん! 事務所の家賃も保険も、全部賄えちゃいます!」


 だが、俺が第七条の『事前協議義務』について説明すると、彼女の笑顔はふっと消え、唇を真一文字に結んだ。


「……志賀さんの配信を、止められるかもしれないってことですか」


「公社が認めたこと以外は外で話せなくなる。もし迷宮で異常を見つけても、公社の決裁が下りるまでは『安全だ』と言い続けなきゃいけないかもしれない」


 十和田は膝の上でぎゅっと拳を握りしめた。


「……嫌です」


「え?」


「嫌です、そんなの! 志賀さんが誰かの顔色を窺って、言いたいことも言えずに我慢するなんて絶対に見たくありません! 家賃なら、私がもっと働きます! チラシ配りでも営業でも何でもやりますから……そんな契約、受けないでください!」


 必死に訴えかけてくる弟子の姿に、俺は思わず吹き出してしまった。


「あはは、ありがとう、十和田さん。安心したよ」


「えっ……?」


「俺もね、同じことを考えていたんだ」


 俺は壁に貼られた第七迷宮の断面図を見上げた。


「俺にとっての強さって何だろうって、さっきまで考えていたんだ。お金をたくさん持っていることか、公社の偉い肩書きを持つことか。……違うんだよな。俺にとっての強さは、『自由の量』なんだ」


 誰の指図も受けず、自分の目で迷宮を見て、危ないものは危ないと叫び、助けたい相手のために退路を引く。その自由を手放してしまえば、俺が積み上げてきたものは、すべてただの抜け殻になってしまう。


「自由を売って金にするのは、俺の場合、一番やっちゃいけないことなんだよ」


「……はい!」


 十和田が力強く頷いた。


「公社の看板を借りないなら、うちの図面の確かさは、図面そのもので示すしかない」


 俺は机の上の模造紙――『十七項目+補遺三項目』の手順書に視線を落とした。


「この手順書を、全部タダで配ろうと思う」


「えっ……!?」


 十和田が息を呑んだ。


 惜しくないと言えば嘘になる。十四年かけて体に入れたものだ。


 公社の檻に入ることを拒んだ代わりに、俺は自分の手順を紙にして配る。手元に抱えていても、この手つきは俺が歩けなくなった日に一緒に消える。紙にしてしまえば、少なくとも消えない。

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