第38話 看板を出す金
翌朝、午前六時。木造アパートの六畳間は、目覚まし時計の電子音と共に一日が始まった。
俺はまず、敷きっぱなしの万年床を三つ折りに畳み、押し入れに押し込んだ。そうしなければ、十和田が出勤してきた時に彼女の立つスペースすら確保できないからだ。
狭い文机の上には、昨夜二人でまとめた『十七項目+補遺三項目』の大判模造紙がロール状に縛られて置かれている。広げようとすれば、また部屋の端から端まで床を片付けなければならない。
腰を痛めて買った人間工学チェア(九万二千円)は素晴らしい座り心地だが、この狭い六畳間ではまるで巨大な岩のように場所を占領していた。
「……限界だな」
午前九時にやってきた十和田に、俺は言った。
「十和田さん、午前中は不動産屋に行こう。事務所の内見だ」
「はい!」
十和田は緊張と期待の入り混じった表情で大きく頷いた。
◇
迷宮管理公社の本部ビルから徒歩七分。雑居ビルの三階にある不動産屋のブースで、俺たちは担当の営業マンと向かい合っていた。
案内されたのは、公社ゲートから徒歩圏内にある築十五年のオフィスビル、二階の一室だった。広さは約十五坪。南向きの大きな窓から柔らかな日差しが差し込み、大判の製図台を二台置いても十分に打ち合わせスペースが取れる、理想的な間取りだった。
「どうですか、志賀さん。立地は申し分ないですよ。探索者ギルドも近いですし、公社の測量課にも歩いて行けます」
営業マンの笑顔に、俺は手元の電卓を叩きながら生唾を飲み込んだ。
「……家賃は、月額十八万円ですね」
「はい。共益費込みで十八万円です。敷金が三ヶ月、礼金が一ヶ月、仲介手数料と保証会社への初回保証料、それに最低限のクリーニングと鍵交換費用を合わせまして……初期費用の概算は、約百二十万円になります」
百二十万円。胃の腑がズシリと重くなった。
それだけではない。手帳の余白に、俺は必要な設備投資を書き殴っていく。
専門業者仕様の大型製図台が二台で三十万円。耐火仕様の図面保管キャビネットと大型スキャナー、それに十和田の事務机とパソコンで約三十万円。合わせて設備投資が約六十万円。
さらに、個人事業主として看板を出す以上、避けて通れないのが探索支援事業者向けの損害賠償責任保険だ。万が一、俺の図面やナビの誤認で事故が起きた場合の保険料が、年間二十四万円。月割りにすれば二万円だ。
これらに加え、現在月給十五万円の十和田をいずれ正規雇用に引き上げ、社会保険を完備するとなれば、人件費は毎月二十万円以上飛んでいく。
「初期費用百二十万に、設備が六十万……」
蒼天騎士団からの三百二十万円があるから、今すぐ払えない額ではない。
だが、問題はその先だ。
家賃十八万円、光熱費と通信費で五万円、保険と雑費で三万円、十和田への給料。毎月、ただ息をしているだけで四十万円以上の固定費が口座から消えていく計算になる。
毎月、確実に仕事を獲り続けなければ、半年で破産する。
重たい沈黙がブースを支配した。横に座る十和田も、電卓の数字を見つめたまま青ざめている。
◇
だが、現実はさらにその上から冷や水を浴びせてきた。
「……ええと、志賀道久様ですね。ご職業は個人事業主、開業届を出されたのは今年の夏……まだ数ヶ月前ですか」
審査書類を見る営業マンの表情が、引きつった困惑の色へと変わっていった。
「はい。それ以前は十四年間、クラン『アルゴノート』で専属マッパーを務めておりました」
「なるほど、アルゴノート……あの大手の。ですが確定申告の控えは、まだ一期分もございませんね? 直近の月収を証明できるものは?」
「先月、大手クラン様から三百二十万円の報酬が入金されています。通帳のコピーをお見せできます」
「うーん……」
営業マンは眉を八の字に曲げ、申し訳なさそうに息を吐いた。
「単発の大きな入金があってもですね、審査としては『継続的な安定収入』とは見なされないケースが多いんです。職種も『迷宮地図屋』は公社の業種分類上、極めてリスクの高いフリーランス扱いでして。直近で第十一層の基準点を確保されたという実績も、民間の賃貸審査のスコアリングには一切加点されないんですよ」
「そんな……!」
十和田が思わず身を乗り出した。
「志賀さんは公社に手順書が登録されている専門家なんです! 先日の深層潜行だって氷室灯選手と一緒だったんですよ!?」
「お気持ちは分かりますが、保証会社が見るのは過去三年の課税証明書と連帯保証人の属性なんです。親族の方で上場企業勤務か公務員で、保証人になっていただける方はいらっしゃいますか?」
「……いえ」
俺は俯いた。両親は他界し、親戚付き合いも途絶えている。十四年間迷宮に人生を捧げてきた俺に、審査を通せる保証人の当てなどあるはずもなかった。社会のルールから見れば、俺はただの無職同然の不安定な男に過ぎないのだ。
「連帯保証人が立てられないとなると、家主様が首を縦に振らない可能性が高いですね……」
営業マンが申し訳なさそうに書類をまとめ始めた、その時だった。
◇
カツン、と静かな足音が響いた。
「遅くなりました」
黒いジャージ姿にフードを目深に被った女性が、音もなく空いている椅子に腰を下ろした。
「ひ、氷室さん!? どうしてここに!?」
「十和田さんから連絡をもらいました。『志賀さんが事務所を借りる不動産屋に行く』と」
十和田を見ると、「すみません、念のためご報告を……!」と小さく縮こまっていた。
「で、話は聞きました」
氷室さんは営業マンに向き直り、机の上に特級探索者ライセンス証と、メガバンクのブラックカードを置いた。
「私が、志賀さんの連帯保証人になります」
「……は?」
営業マンが固まった。
「お、お客様のお名前は……」
「氷室灯です」
「ひ、ひむろ……!? あの、人類最強の『灯』選手……!?」
営業マンの顔色が白から赤、青へと変わった。端末で照合し、彼女の契約料と納税額の桁を見た瞬間、顎が外れんばかりに落ちた。
「ひゃ、百……!? 年収が、億……!? と、とんでもございません!! 我が社の最上級VIP顧客として即日審査通過でございます!! ビルのオーナーが直接挨拶に飛んでまいります!!」
「ちょ、ちょっと待ってください氷室さん!」
俺は慌てて彼女の腕を引いた。
「何言ってるんですか! 氷室さんに保証人になってもらうなんて迷惑すぎます! 専属契約で大金を出してもらっているのに、事務所の家賃の保証人まで背負わせるわけにはいきません!」
氷室さんは心底不思議そうに首を傾げた。
「なぜ駄目なんですか」
「常識的に考えておかしいでしょう!? 雇い主である探索者が、専属ナビのオッサンの賃貸保証人になるなんて!」
「志賀さんが家賃を滞納する確率を計算しましたか?」
「え?」
「蒼天騎士団からの入金があり、シルフィードの案件が控え、私の専属契約料が毎月百五十万円支払われています。キャッシュフローが破綻する確率は零パーセントです。リスクのない保証人を引き受けることに、何の問題があるのですか」
「確率の問題じゃないんです! 気持ちや世間体が……!」
「世間体で図面が広がるなら気にしてください。ですが六畳間では図面は広がりません」
氷室さんは淡々と営業マンに言った。
「契約書を用意してください。今すぐサインします」
「喜んでぇっ!!」
営業マンは歓喜の悲鳴を上げながら奥の部屋へと走っていった。
呆然と立ち尽くす俺の横で、十和田が「すごいです、志賀さん……!」と目を輝かせていた。すごいのは俺じゃなくて氷室さんだ。頭痛を覚えながら、俺は深い溜息と共に天井を仰いだ。
◇
夜十時。契約手続きの書類の山を抱え、俺はアパートの六畳間に戻っていた。
机の上には、正式に捺印された賃貸借契約書。来週月曜日から、あの十五坪のオフィスが俺たちの城になる。
家賃十八万円。初期費用百二十万円。設備投資六十万円。保険二十四万円。
通帳から、まとまった大金が引き落とされる。
「……後戻りは、できないな」
毎月十八万円の家賃を払うということは、毎月、自分の手で仕事を創り出し、誰かの命を守る退路を引き続けなければならないということだ。失敗すれば十和田の給料も払えなくなる。氷室さんの名前に泥を塗ることになる。
だが――不思議と、足の震えは止まっていた。
六畳間で、一人で怯えていたあの頃とは違う。
背中を支えてくれる仲間がいる。信じてついてきてくれる弟子がいる。
俺は立ち上がり、押し入れから古い野帳の束を取り出して、引越し用の段ボール箱へと詰め始めた。
看板を掲げる覚悟は、もう固まっていた。




