第35話 一人分の手
午前五時半。木造アパートの六畳間には、淹れたての珈琲の匂いと、卓上ランプの淡い光だけが漂っていた。
新しく導入した人間工学チェアに腰を下ろし、俺はこめかみを揉みほぐした。腰の鈍痛はブロック注射のおかげで軽くなったが、頭の芯の疲労までは吸い取ってくれない。
机の上には三つのファイルが並んでいた。
一つ目は『蒼天騎士団』から請け負った、第九層一般通行区画の十日間事前検証。今日は四日目の中間報告をまとめる日だ。総額三百二十万円の大型案件であり、記載ミスは許されない。
二つ目はクラン『シルフィード』からの依頼。来々月に予定されている第七層本番巡回に向け、公社の新料金表に基づいた事前測量準備だ。右脚を骨折した新人前衛の宇佐美くんの復帰戦でもあり、過去の組み替えログと最新の魔素滞留データを突き合わせる必要がある。
三つ目は迷宮管理公社区画測量課への提出書類。第六層の事故検証に伴い、俺が自己申告した『未確認項目の明記義務』を手順書補遺として正式登録するためのレポートだ。担当の宮原怜さんからは「今週金曜必着」と念を押されていた。
「……三件、か」
思わず呟きが漏れた。
以前の俺なら十件でも抱え込み、ろくに寝ずに現場を駆け回っていただろう。その結果があの事故だった。だからこそ『同時三件まで』『最低検証日数の確保』『十七項目の全確認が不可能な案件は受けない』という基準を作ったのだ。
無理な案件はすべて断った。そのうえで残った三件だ。
だが、手帳の一日の予定を追うと、余白などどこにもない。
朝六時から蒼天騎士団のデータ解析。午前は迷宮に潜って第九層の魔素対流観測。午後は公社向けの報告書執筆。夕方から夜にかけてシルフィードの過去ログ精査。合間にメール返信と電話対応。
仕事を厳選して手に入ったのは『質の高い時間』であって、『暇な時間』では決してなかった。
◇
午前九時。ガチャリと玄関が開き、小走りの足音が響いた。
「おはようございます、志賀さん!」
十和田結が息を切らせて入ってきた。コートを脱ぎ、部屋の隅の小さな丸椅子に座る。
彼女は現在、月給十五万円で事務所のスタッフ兼弟子として雇用されている。主な役割は問い合わせの一次対応、書類作成補助、探索データの整理だ。
彼女のおかげで事務は劇的に改善したが、六畳間は狭い。十和田が資料を広げるたび、俺の肘とぶつかりそうになる。
プルルル、と固定電話が鳴った。
「私が出ます!」
十和田が受話器を取る。手元には受注基準と料金表のシートがある。
「はい、志賀の事務所です。……クラン『紅蓮の翼』様ですね。……ええと、来週火曜日から三日間で第五層の新ルート安全確認……ですか? 少々お待ちください」
十和田が保留ボタンを押し、振り返った。
「志賀さん、第五層の短縮ルートを実地で三日間検証してほしいそうですが……」
俺は製図ペンを止めた。
「第五層は今、変形圧が溜まっている時期だ。三日じゃ壁面の剪断応力しか測れない。十七項目のうち天井裏の水脈と魔素の抜け道を見るには最低六日かかる。基準外だからお断りして」
「わかりました」
十和田は受話器に戻り、丁寧に理由を説明して断った。
だが十分後、再びベルが鳴った。
「はい、志賀の事務所です。……個人パーティー『月影』様……明後日の第二層半日同行……正規の日当を満額で……。確認いたします」
十和田がまた保留を押す。
「志賀さん、浅層の半日同行で、金額は満額出すとおっしゃっていて……」
「明後日からは氷室さんと四日間潜りっぱなしだ。体が空かない。申し訳ないけどお断りして」
「……はい」
十和田は電話を切った後、手帳の端を摘まんで俯いてしまった。
「……あの、志賀さん。私が電話に出るたびに志賀さんの手を止めてしまって……。判断を仰がないと何もできなくて……」
「そんなことないよ。相手の条件を整理して伝えてくれて助かってる」
「でも……」
十和田は唇を噛んだ。
『私がその場で断っていいですか』と言いたかったのだろう。
だが、俺にはそれを許可できなかった。階層ごとの危険度や断り方で生じる軋轢を判断する基準を、まだ彼女に体系立てて教えていない。
雇っているのに権限を渡せない。ただの伝言係に留めてしまっている歪みが、六畳間の空気を重くしていた。
◇
昼過ぎ。コンビニのサンドイッチをかじりながら、壁のカレンダーを睨んだ。
今月も残り二日。めくった先の来月頭、明後日から始まる四日間が赤ペンで囲まれている。氷室灯さんとの深層潜行だ。
目的は第十一層到達と基準点の三点確保。第十層以深は電波が届かない完全不通領域だ。一度潜れば四日間、外界から孤立する。
その四日間の上に、別の予定が重なっていた。
――蒼天騎士団、十日間検証の最終完了報告会。
――公社区画測量課、未確認項目明記義務レポートの提出締め切り。
「重なってる……」
潜行に出れば、どちらの期限も破綻する。
「十和田さんに代行を頼めるか?」
首を振った。蒼天騎士団の報告会には幹部や前衛隊長が並び、専門的な質問が飛ぶ。浅層登録の十和田には荷が勝ちすぎる。公社への提出も、現場責任者としての俺の署名と実印が必要だ。
「十和田さんは……俺の、何なんだろうな」
弟子と呼んではいるが、外部に通用する肩書きはない。
結局、俺は電話で頭を下げるしかなかった。
まずはエージェントの七尾佳奈さんへ。
「七尾さん、蒼天騎士団様の最終報告会ですが、氷室さんとの潜行が重なりまして……帰還翌朝に変更できないでしょうか」
『……志賀さん。三百二十万円を満額通してくれた相手に納品日をずらせと?』
「本当に申し訳ありません」
『はあ。桐生さんには私から話を通します。氷室選手との深層潜行なら納得するでしょう。ただし帰還翌朝、絶対に遅延なく提出してくださいね』
冷や汗を拭い、次は公社の宮原怜さんへかけた。
「宮原さん、検証レポートの提出ですが、潜行予定が入りまして三日ほど猶予をいただけないでしょうか」
『……氷室選手との常設帯同ですね。事前届出の計画書は受理されていますから、そちらを優先しましょう。三日の猶予を認めます。戻られたら真っ先に持ってきてください』
「ありがとうございます」
『仕事ですから。……その代わり、生きて帰ってきてくださいよ』
通話を終え、深く息を吐いた。二人が俺の事情を汲んでくれたからこその猶予だ。もし深層で怪我をして帰還が遅れれば、信用は一瞬で吹き飛ぶ。すべての責任が、俺一人の体に乗っかっていた。
◇
夕暮れ。十和田が業務を終えて帰宅した直後、スマートフォンが鳴った。宮原さんからだった。
『志賀さん。先ほどの猶予、課長の決裁が下りました』
「ありがとうございます」
『……それと、志賀さん。明後日からの潜行を無事に終えて戻られたら、一度、課として公式にお時間をいただきたい件がありまして』
背筋が伸びた。
「何か、過去の図面に重大な疑義でも?」
『いえ、逆です。電話で話せる内容ではないので、戻られたら課長同席でお話しさせてください。それでは』
一方的に切られた。不備ではないとすれば何の話か。胸騒ぎがしたが、詮索する余裕はなかった。
◇
夜八時。控えめなノックの後、ドアが開いた。
「こんばんは、志賀さん」
黒いスウェット姿の氷室灯さんが立っていた。
「氷室さん、鍵開いてたっけ……」
「開いていました。不用心です」
部屋に上がり込んだ氷室さんは、勝手に冷蔵庫から麦茶を出して飲み、机の上のバナナを口へ運んだ。
「明後日からの第十一層潜行、装備の最終確認に来ました」
空間錯乱対策マーカー、魔素フィルター、圧縮糧食、耐圧野帳。確認しながら俺は息を漏らした。
「四日間も留守にすると仕事が止まるのが心配でね。連絡も取れなくなるし」
「十和田さんがいるのでは?」
「十和田さんは頑張ってくれてるよ。でも断る権限を渡せていないし、俺がいないと回らないんだ。仕事を絞ったのに、結局手が足りない」
苦笑した俺に、氷室さんは淡々と言った。
「人を増やせばいいのでは」
「……え?」
「一人で足りないなら、二人、三人にすればいいと思います」
俺は思わず吹き出した。
「あはは、そんな簡単な話じゃないよ。給料も社会保険もかかるし、この狭い部屋にこれ以上人が入る場所もない。莫大なお金がかかるんだ」
だが、氷室さんは笑っていなかった。澄んだ瞳がまっすぐに俺を捉えていた。
「志賀さんは、自分の価値をまだ低く見ていると思います」
「……え?」
「第九層の退路を通し、私の命を拾い、大手クランが三百二十万円を払う技術がある。その志賀さんが六畳間で電話番を気にしていることの方が異常です」
氷室さんはバナナの皮をビニール袋に包み、立ち上がった。
「時間は有限です。志賀さんの時間は私が買っています。雑務で集中が削られるのは私の不利益です。明後日、公社前ゲートで」
それだけ言い残し、彼女は去っていった。
静まり返った六畳間で、俺は一人立ち尽くした。
「……人を、増やす……か」
天井を見上げ、その言葉を反芻した。ただの妄想だと笑い飛ばすことは、もうできなかった。




