第34話 断られた側
蒼天騎士団との三百二十万円の契約に調印した週の、金曜日の昼下がり。
アパートの六畳間には、淹れたての麦茶の香りと、パソコンの冷却ファンの低い回転音が満ちていた。
新しい人間工学チェアに座る俺の隣で、十和田が端末の画面を睨みつけながら、唸り声を上げていた。
「……志賀さん。また来ました。今度はクラン『天狼会』の渉外担当からです」
「天狼会……国内ランキング五位の、あの大手か」
「はい。依頼内容は第七迷宮第九層の緊急ルート測量。提示金額は……なんと四百万円です。蒼天騎士団さんより高いです」
四百万円。
かつての俺なら、腰を抜かして拝み倒していたような大金だ。
「……で、日程は?」
「それが……」
十和田が苦い顔で画面を指差した。
「来週火曜日からの本番巡回に合わせ、事前測量の日程は『五日間』。前衛部隊の都合で、これ以上の日程延長は一切認められない、とのことです」
「五日……」
俺は即座に首を横に振った。
「無理だ。第九層は深層の手前、魔素の乱流が最も激しい階層だ。十七項目のうち、下層からの吹き上げ圧と断裂周期を見るだけで最低七日はかかる。五日じゃ、半分も見切れない」
その時、部屋の隅で静かにスポーツドリンクを飲んでいた氷室さんが、すっと立ち上がった。
「私が断ります」
氷室さんは机の上で鳴り始めた固定電話の受話器へ、迷わず手を伸ばした。
「あ、待って、氷室さん!」
俺は慌ててその手を制した。
「志賀さん。時間の無駄です。条件が合わないなら、私が『無理です』と言って切れば終わります」
「ありがとう、氷室さん。……でも、これは俺の仕事だ」
俺は受話器を自分の手で握り、氷室さんに向かって小さく微笑んだ。
「基準を作ってもらったんだ。断る声まで他人に借りたら、俺は一生、自分の足で立てない」
氷室さんはわずかに目を見張り、それから静かに手を引いて「……分かりました」と呟いた。
俺は息を深く吸い込み、通話ボタンを押した。
「お電話代わりました。志賀道久です」
『おお、志賀先生! 天狼会で渉外を担当しております牧瀬です!』
受話器の向こうから、いかにも体育会系といった押し出しの強い、太い声が響いた。
『メールは見ていただけましたか? うちの第九層攻略、ぜひ先生のナビで固めたいんですよ! 金額は四百万! 前払いで即座に振り込みます!』
「牧瀬さん、過分なご提示をありがとうございます。……ですが、大変申し訳ありません。その日程では、お引き受けすることはできません」
受話器の向こうが、一瞬だけ静まり返った。
『……は? 日程、ですか? 五日じゃ足りないと?』
「はい。第九層の観測チェックリスト十七項目を網羅するには、最低でも十日間の事前検証日数が必要です。五日間では、安全を保証する退路図面は引けません」
『いやいや志賀先生、そこを何とかするのがプロでしょう!』
牧瀬の声に、わずかに苛立ちが混ざり始めた。
『うちの主力部隊のスケジュールは秒単位で決まってるんです。日数は動かせません。……分かりました、四百五十万出しましょう! 五十万上乗せします! 徹夜で詰めてもらえれば五日でいけるでしょう!?』
「金額の問題ではありません」
俺は静かに、しかし絶対に揺るがない調子で告げた。
「日数が足りない現場に潜れば、見落としが生じます。見落としのある図面を渡せば、隊員の方が怪我をします。最悪の場合、死者が出ます。……お金をいくら積まれても、時間を削って人を危険に晒す仕事は、一切お受けできません」
『……チッ』
牧瀬の露骨な舌打ちが、耳元に届いた。
『なんなんだよ、偉そうに……。こっちは大手だぞ? 下請けの地図屋のくせに、ちょっと有名になったからって選り好みかよ。……後悔するなよ、地図屋さん』
ガチャリ、と手荒に電話が切られた。
ツーツーという無機質な切断音を聞きながら、俺はゆっくりと受話器を置いた。
背中を冷たい汗が流れていた。指先が、微かに震えていた。
四百五十万円を、自分の口で断った。
だが――不思議と、後悔は微塵もなかった。
横で見ていた十和田が、眩しいものを見るような目で俺を見つめ、氷室さんは満足そうに小さく一度だけ頷いていた。
◇
だが、断ることには、必ず代償が伴う。
翌日の土曜日。
探索者向けの匿名掲示板やSNSで、小さな火の手が上がっていた。
『例の予言おじさん、天狼会の四百万の依頼を蹴ったらしいぞ』
『事故を起こした地図屋の分際で、調子に乗って仕事を選り好みしてる』
『相場を吊り上げて大手相手にふっかけてるだけじゃないのか』
牧瀬が腹いせに漏らした愚痴が、尾ひれをつけて拡散されていた。
「志賀さん……! ひどいです、こんなの!」
十和田が悔しそうにタブレットを握りしめている。
「公社に抗議しますか? それとも七尾さんに言って、天狼会に事実無根の声明を出してもらいますか!?」
「いいよ、十和田さん」
俺は苦笑しながら、配信用のマイクのスイッチを入れた。
「悪口に悪口で言い返しても、泥沼になるだけだ。……ちょうどいい。今夜の定期配信で、俺たちの『基準』をちゃんと説明しよう」
午後八時。
第七迷宮の浅層読図講習を終えた後の、定例の雑談配信。
接続者数は、開始五分で二千人を超えていた。コメント欄には、擁護と批判が入り乱れて流れている。
『天狼会の依頼断ったって本当ですか?』
『四百万蹴ったってマジ?』
『なんで受けなかったの?』
俺は画面の向こうの視聴者たちに向かって、静かに語りかけた。
「……ええと、みなさんこんばんは。志賀です。今日は少し、うちの受注基準について――どうして特定の依頼をお断りしているのかを、数字でお話しさせてください」
俺はホワイトボードを画面の前に引き寄せ、マジックで表を描いた。
「迷宮の観測手順書には、十七の必須チェック項目があります。床の歪み、壁の変形、そして天井裏の気流と水脈の滞留。……これらを第八層や第九層で確認するためには、潮の満ち引きと同じで、魔素の満ち引きを一巡観測しなければなりません。それが物理的に、最低七日から十日かかるんです」
俺はペンを置き、カメラをまっすぐに見つめた。
「もし五日間のスケジュールで引き受けた場合、十七項目のうち、最低でも九項目を『見ないまま』図面を引くことになります。……見ない項目がある図面は、ただの博打です。博打の図面を渡して、もし誰かが天井の崩落に巻き込まれたら、その責任は誰が取るのでしょうか」
コメント欄の流れが、ふっと緩やかになった。
「俺は十四年間、クランでマッパーをやってきました。その中で、準備を端折った隊がどうなるかを嫌というほど見てきました。……お金を多くもらえるからといって、人を死なせる確率を上げるわけにはいきません。だから俺は、日数の足りない依頼は、一億円積まれてもお断りします。それが、俺がこの仕事を続けるためのたった一つのルールです」
静寂。
そして、コメント欄が一気に加速した。
『ぐうの音も出ない正論』
『そりゃそうだ、命預けるんだからな』
『天狼会が無茶振りしただけじゃん』
『職人としての矜持を見たわ』
『むしろこの人に頼みたくなった』
画面の端で、十和田がホッと息を吐き、笑顔を見せた。
批判が完全に消えたわけではない。牧瀬の反感も残ったままだろう。
だが、俺たちが守るべき一線は、世間に対してしっかりと刻み込まれた。
◇
配信を終えた夜十時。
静まり返ったアパートの部屋で、俺は新しい人間工学チェアに座り、来週から始まる蒼天騎士団向けの事前測量計画書をめくっていた。
机の上には、整理された野帳の束と、丁寧に研がれた製図ペン。
誰にも急かされず、削る必要のない十七項目を、ひとつひとつ丹念に設計に組み込んでいく。
痛む腰を庇う必要もなく、ただ目の前の迷宮と向き合える時間。
――ああ、なんて贅沢なんだろう。
心からそう思えた。
ピリリ、とスマートフォンの着信音が鳴った。
画面には『シルフィード 久我山亮』。
「はい、志賀です」
『志賀先生! 夜分にすみません!』
受話器から飛び込んできたのは、久我山さんの弾んだ声だった。
『先ほど、病院から連絡がありましてね! 宇佐美の野郎、経過がめちゃくちゃ良くて、あと二週間で退院できるそうです! リハビリを続ければ、三ヶ月後には現場復帰できるって医師から太鼓判を押されました!』
「本当ですか……! よかった……本当によかった……!」
張り詰めていた胸の奥が、温かい涙で満たされるようだった。
『それでですね、先生。うちのシルフィードの次の本番巡回なんですが……来々月の第七層、ぜひ先生に事前測量をお願いしたいんです! もちろん、公社に登録された新しい料金表どおり、事前測量五日間、正規の報酬をお支払いします! 枠を確保していただけますでしょうか!』
「……喜んで。ありがとうございます、久我山さん」
通話を終えた後、俺は深く息を吐いた。
蒼天騎士団の十日間、そしてシルフィードの五日間。
氷室さんとの深層遠征の準備もある。
カレンダーを見つめながら、俺は苦笑した。
「……仕事を厳選しても、手が足りないな」
嬉しい悲鳴だった。
だが同時に、一人で抱える限界が、すぐそこまで迫っていることを予感していた。
◇
同時刻。都内一等地にある名門クラン『アルゴノート』の自社ビル、最上階の特別役員会議室。
重厚なマホガニーの長テーブルを挟んで、二人の男が座っていた。
上座に座るのは、完璧に撫で付けられた髪と仕立ての良いスーツを纏った団長、鷺沼恭平。
その対面には、国内大手通信キャリアのスポンサー担当重役が、険しい表情で座っていた。
「……というわけでね、鷺沼団長」
担当重役が、手元の契約更新書類を鞄にしまいながら、冷淡に言った。
「前回の第十二層遠征における前衛エースの負傷離脱。そして、それに伴う深層攻略スケジュールの無期限延期。……我が社の社内コンプライアンスおよび投資対効果の観点から、今期のスポンサー契約更新は見送らせていただくことになりました」
鷺沼の端正な顔筋が、ピクリと引きつった。
「お待ちください、専務。大友の離脱は突発的な事故に過ぎません。オルタマップの次期学習モデルの導入は順調に進んでおり、来月には完全に体制を立て直せます」
「そう仰いますがね、鷺沼団長」
重役は立ち上がり、コートを羽織りながら冷ややかに笑った。
「世間では今、公社登録された個人の地図屋が、中堅クランを死者ゼロで生還させ、蒼天騎士団と大型契約を結んだと大騒ぎですよ。……莫大な投資をして導入したAIが深層でフリーズし、追い出した個人の職人が最前線で喝采を浴びている。スポンサーの看板を背負わせる側として、これ以上格好の悪い話はありませんよ」
重役はそれ以上何も言わず、部屋を出て行った。
バタン、と重いドアが閉まる。
静まり返った会議室で、鷺沼は拳をテーブルに叩きつけた。
「……ふざけるな。たかが地図屋の一人が抜けただけで、このアルゴノートが傾くはずがないだろうが……ッ!」
壁際に直立していた副団長の榊久史は、何も言わなかった。
ただ、懐に入ったメモ――先日、志賀道久から無償で授けられた、第十二層の確実な退路の図面を、服の上から静かに握りしめていた。
鷺沼には、言えなかった。
お前が切り捨てたあの男の図面がなければ、来月の遠征でうちの隊が全滅していたかもしれないという事実を――榊は最後まで、口にすることができなかった。




