第33話 値段のつけ方
商談前日の火曜日の夜。
アパートの狭い六畳間には、夜遅くまで明かりが灯っていた。
新しい人間工学チェアに座る俺の正面で、七尾さんがタブレットの電卓アプリを軽快に叩き、十和田がノートにその数字を几帳面な字で書き写していた。
「……では、明日の蒼天騎士団への提示条件を最終確認します」
七尾さんが冷徹な声で画面を俺に向けた。
「対象は第七迷宮第八層・未踏工区八〇四の事前測量および先行隊同行。蒼天騎士団側の当初希望は、日程六日間、費用は同行日当十五万円換算の計九十万円。行程の指揮権は隊長が持ち、測量データはクランの独占機密扱い。……これが彼らの『通常発注』の条件です」
「……正直、九十万円でも目が眩みそうだよ」
俺は思わず苦笑いを浮かべた。
「アルゴノートにいた頃なら、中層同行の一日五万円、事前測量なんて月給の中に丸め込まれていた。今までの一人仕事なら、五万円で飛びついて引き受けていた規模だ」
「だからこそ、その発想を今夜ここで完全に殺してください」
七尾さんの鋭い声が飛んだ。
「第八層は中層の最深部です。魔素滞留による局所再編の周期は四日から五日。十七項目の観測チェックリストを網羅し、確実な退路を二本確保するためには、最低でも十日間の検証期間が物理的に必要です。六日でやれというのは、天井側の項目を飛ばしてまた誰かの脚を折れと言っているのと同じです」
「……分かっている」
「提示条件は三つ」
七尾さんが指を立てた。
「第一に、現地事前検証日数として最低十日間の確保」
「第二に、迷宮内における退路選択および撤退基準に関する最終決定権を志賀さんが握ること」
「第三に、作成された観測データおよび退路図面の公社への公開登録。独占機密にはさせないこと」
「……そして、総額は?」
十和田がペンを握りしめて尋ねた。
「事前測量十日分で百二十万円。本隊同行五日分で九十万円。観測データの解析・報告書作成費で五十万円。そして保険料および予備経費六十万円。……合計、三百二十万円です」
三百二十万円。
口にするだけで、胸が押し潰されそうになる金額だった。
「七尾さん……メイズ測量研究所が提示してきた年俸が一千二百万円だった。その四分の一を、たった一回の依頼で請求するのか?」
「当然です」
七尾さんは冷ややかに微笑んだ。
「メイズ測量はあなたの技術の独占買い取りに三百万円を積みました。大手クランの主力パーティが第八層で壊滅した場合の損失額は、最低でも五億円です。三百二十万円で隊員全員の生還が保証されるなら、彼らにとってこれ以上安い買い物はありません。……志賀さん、明日はあなたが、自分の口でこの数字を言うのです。私が代弁しては意味がありません」
「……ああ。分かった」
俺は深く息を吸い込み、拳を握りしめた。
◇
水曜日の午後二時。
国内有数の大手クラン『蒼天騎士団』の本部ビルは、都心の一等地にそびえ立つ高層タワーだった。
ガラス張りの最上階にある特別応接室。磨き上げられた大理石の床と、本革の黒いソファ。
テーブルを挟んで俺と十和田の対面に座っていたのは、蒼天騎士団の渉外担当責任者――桐生澪だった。
仕立ての良い濃紺のパンツスーツに、銀色の細縁眼鏡。端正な顔立ちを崩さず、所作のすべてに隙のない洗練された女性だった。
「志賀先生、十和田様。本日は足をお運びいただき、誠にありがとうございます」
桐生さんは丁寧な一礼とともに、厚みのある企画書を卓上に滑らせた。
「当団が来月計画しております第七迷宮第八層の本格攻略について、ぜひ志賀先生の『検証可能手順書』に基づく事前測量と、本隊への同行をお願いしたく存じます。……条件につきましては、事前にメールでお伝えしました通り、同行日程六日間、日当十五万円の計九十万円でいかがでしょうか。大手クランの標準的な外部専門職枠としては、最高水準の待遇をご用意いたしました」
完璧な物言いだった。
相手を尊重し、業界の最高水準だと胸を張って提示してきている。悪意も侮りも一切ない。
かつての俺なら、頭を下げて「ありがとうございます、喜んで」と即答していただろう。
だが――。
俺の脳裏をよぎったのは、病室のベッドで痛みに耐えながら笑っていた宇佐美くんの顔だった。
そして、病院の踊り場で『安売りして全部抱え込み、時間が足りなくなって人を死なせかけるのはただの怠慢だ』と言い放った宮原さんの言葉。
俺はテーブルの下、膝の上で両手を強く握りしめ、背筋を伸ばした。
「……桐生さん。大変ありがたいお話ですが、その条件ではお引き受けできません」
応接室の空気が、ふっと凍りついた。
桐生さんの眉が、ほんの数ミリだけ動いた。だが表情は崩れない。
「……と、仰いますと? 日程でしょうか。あるいは、金額に御不満が?」
「両方です」
俺は自分の声が震えていないことを確認しながら、真っ直ぐに桐生さんの目を見つめた。
「まず日程です。六日間では、第八層の十七項目を網羅的に観測することは物理的に不可能です。第八層は局所的な組み替え周期が極めて短く、床と壁の安定度だけでなく、上層からの魔素圧力の偏流を最低でも七十二時間連続で定点観測する必要があります。……検証日数は、最低でも十日を確保していただきます」
「十日……ですか」
桐生さんは眼鏡を押し上げ、静かに手帳にペンを走らせた。
「当団の遠征スケジュールは、他パーティとの兼ね合いもあり過密です。十日間の事前拘束となると、全体の行程見直しが必要になりますが……」
「見直していただかなければ、図面は引けません」
俺は一歩も引かなかった。
「端折った観測から引いた図面は、ただの推測です。推測の図面を信じて歩けば、人は死にます。……先週の第六層でシルフィードの新人が負傷したのは、まさに過密日程によって観測の余白を削ったことが原因でした」
十和田が横で息を呑む気配がした。
俺は外部の人間に対して、初めて自分の過失の根拠を言葉にした。
「次に、指揮権です。迷宮内における退路の選択、および撤退の判断に関する最終決定権は、俺に預けていただきます。前進するか退くかで意見が割れた場合、俺の退路指示に無条件で従っていただくことが条件です」
「……前衛隊長の判断権を制限する、と」
「退路の寿命を管理できるのは、測量士だけです」
「そして……三つ目の条件は?」
「作成した測量データおよび退路の構造図を、公社の区画測量課へ公開登録することです。クランによる独占機密化は認められません」
桐生さんはペンを止め、じっと俺を見つめた。
その視線には、値踏みするような冷たさはなく、目の前の職人が本気で命の責任を背負おうとしていることを見定めるような、深い理性が宿っていた。
「……条件の理由は理解いたしました。筋の通ったご主張です。では、志賀先生。その三条件を満たした上で……今回の受託報酬として、おいくらを希望されますか」
来た。
一番恐れていた瞬間。
十四年間、自分の値段を言えなかった男が、大手の渉外担当を前に金額を言い切る瞬間。
喉が張り付きそうになった。
心臓が肋骨を激しく叩く。
――宇佐美翔の右脚を思い出せ。
昨夜、十和田と一緒に練習した声が、背中を押した。
俺は息を吸い込み、はっきりと、澄んだ声で告げた。
「総額、三百二十万円です」
静寂。
広大な応接室に、時計の秒針の音だけがカチカチと響いた。
三百二十万。九十万円の三倍以上。
桐生さんは微動だにせず、俺の目を見つめ続けた。
一秒、二秒、三秒。
やがて、桐生さんはふっと口元を緩め、書類をパタンと閉じた。
「……事前測量十日、指揮権の委任、データの公開、そして三百二十万円。承知いたしました」
「……え?」
思わず声が漏れた俺に、桐生さんは穏やかな笑みを向けた。
「驚かれることはありません。私ども蒼天騎士団が求めているのは、安い下請けの作業員ではなく、団員の命を確実に連れて帰ってくれる本物の専門職です。……志賀先生の提示された条件と金額には、すべて明確な根拠がありました。持ち帰り、直ちに団長および理事会へ諮ります。明日中に正式な回答をお戻しいたします」
桐生さんは立ち上がり、深々と頭を下げた。
「本日は、誠意あるご提示をありがとうございました」
◇
翌日の夕方。
アパートの部屋で、俺は新しい人間工学チェアに深く腰を下ろしていた。
ブロック注射の効果で腰の痛みはまったくなく、背骨が自然なS字を描いて支えられている。
机の上で、スマートフォンが震えた。
画面には『蒼天騎士団 桐生澪』。
俺はゴクリと唾を呑み込み、通話ボタンを押した。
「もしもし、志賀です」
『志賀先生、桐生です。先ほどの理事会にて、昨日のご提示条件について正式に承認が下りました』
「……! 承認、ですか」
『はい。検証日数十日の確保、および迷宮内における撤退指揮権の委任につきましては、満額で受け入れます。一点だけ、データの公開範囲について、軍事機密に該当する特殊モンスターのドロップ地点を除いた『一般通行区画の構造図』に限るという付帯条項をつけていただきたいのですが、よろしいでしょうか』
「もちろん、それで構いません!」
『ありがとうございます。報酬額につきましても、ご提示通りの総額三百二十万円にて契約書を作成いたします。週明けに調印をお願いできますでしょうか』
「はい……! よろしくお願いいたします!」
通話を終え、スマートフォンを机に置いた瞬間。
横で息を詰めて見守っていた十和田が、両手を突き上げて叫んだ。
「や、やりましたぁぁぁっ!! 志賀さん、通りました! 三百二十万円です!!」
「……ああ。通った……本当に、通ったんだな……」
俺は脱力して、背もたれに体を預けた。
安くやるから頼まれていたのではない。
きちんとした根拠と責任を提示すれば、相手は正当な対価を払ってくれる。
十四年間、俺を縛り付けていた『自分には価値がない』という呪縛が、音を立てて砕け散った瞬間だった。
ピロン、とスマートフォンが短い着信音を鳴らした。
画面を見ると、氷室さんからのメッセージだった。
『七尾から聞きました。よかったです』
たった十三文字の、いつも通りの素っ気ない短文。
だが、その短い言葉の奥に、確かな安堵と温もりが滲んでいるのが、俺には分かった。




