第32話 断り方の練習
宮原さんに野帳の空白を申告してから一週間。
世間の風向きは、俺の苦い自責とは真逆に、より一層の過熱を見せていた。
第六層でのシルフィードの事故は、公社の公式発表によって『突発的な自然崩落に対し、登録手順書に基づく退路設計によって死者ゼロで生還した模範事例』として処理された。
その結果、何が起きたか。
問い合わせのメールと電話が、さらに倍増したのだ。
『志賀先生の退路があれば、うちのクランも中層へ進出できる』
『安く受けてくれる最高の職人だ』
そんな噂が一人歩きし、十和田が管理する問い合わせフォームには、連日数十件の相談が雪崩れ込んでいた。
だが、俺の身体はとうに限界を迎えていた。
特に腰だ。一歩踏み出すごとに、腰椎の奥に焼け火箸を突き立てられたような激痛が走り、朝起き上がるのに十分以上かかるようになっていた。
◇
木曜日の夜八時。
駅裏の路地にある、赤提灯が揺れる大衆居酒屋の奥の座敷。
使い込まれた木製テーブルを挟んで、俺の前に座っていたのは、大柄で坊主頭の男――アルゴノートの副団長、榊久史だった。
「……飲んでるか、道久」
榊は無骨な手でビール瓶を掴み、俺のグラスに注いだ。顎の古傷が、黄色い白熱灯に照らされて微かに引きつっている。
「ありがとう、榊。……急に呼び出して、どうしたんだ?」
十四年間、同じクランで前衛とマッパーとして背中を預け合ってきた男だ。俺が切られたあの日、彼が何も言えずに拳を握りしめていたことを、俺は知っている。
榊は自分のジョッキを一気に半分ほど煽り、ドンとテーブルに置いた。
「……個人的な話だ。クランの看板は関係ねえ。俺個人の頼みとして聞いてほしい」
「個人的な?」
「ああ」
榊は周囲を一度見回し、声を潜めた。
「来月、うちが挑む第十二層の遠征行程についてだ。……オルタマップの再学習モデルが弾き出したルートがあるんだが、どうにも腑に落ちねえ。深層特有の『ねじれ』が、十層以降で異常に増えてる。……道久、お前の目で、この退路設計を見てくれないか」
榊が懐から取り出したのは、公社指定の行程届出書のコピーだった。
アルゴノートの公式な依頼ではない。鷺沼には絶対に言えない、副団長の独断による相談だった。
「……鷺沼さんは知っているのか?」
「知るわけねえだろ」
榊は苦々しく吐き捨てた。
「あいつは今、スポンサーの機嫌取りで頭がいっぱいだ。前回の十二層遠征で大友が怪我して全治三ヶ月、さらに第六層でお前がシルフィードを死者ゼロで生還させたニュースが重なった。……主要スポンサーの役員連中が『AI頼みのアルゴノートより、個人の地図屋の方が優秀なんじゃないか』ってざわつき始めてる。遠征を失敗すりゃ、来期の契約更新が見送られるかもしれねえ状況なんだよ」
榊の言葉の端々に、名門クランの内部で軋む重苦しい空気が滲んでいた。
「……すまねえ、道久。お前を追い出したクランの人間が、いまさらこんな相談持ち込むなんて筋が通らねえのは分かってる。金なら、俺のポケットマネーから――」
「金はいらないよ」
俺は即座に首を振った。
「榊、図面を見せてくれ」
「……いいのか?」
「十四年、お前には命を助けてもらった。お前が深層で迷子になるのを見過ごせるわけがないだろ」
俺は届出書のコピーを受け取り、ボールペンを取り出した。
第十二層の北西区画。オルタマップが指定している帰還ルートは、魔素の滞留によって二日以内に閉塞する危険性が極めて高かった。
「……ここの分岐、三番目の柱を基点にしちゃダメだ。ここは周期三日で壁になる。迂回路を東側の岩脈沿いに取ってくれ。そこなら最低七日は崩れない」
「……東側か。分かった、頭に叩き込む」
榊は食い入るようにメモを取り、深く息を吐いた。
「恩に着る、道久。……本当に、お前がいてくれりゃな」
榊の漏らした一言に、俺はただ苦笑いを返すことしかできなかった。
◇
翌週の月曜日。
俺のアパートの六畳間には、場違いな等身大のホワイトボードが運び込まれていた。
畳の上に陣取っているのは、手帳を構えた十和田と、仕立ての良いスーツを完璧に着こなした公社系エージェント――七尾佳奈さんだった。
「いいですか、志賀さん。単刀直入に申し上げます」
七尾さんがホワイトボードの盤面を、ペンのキャップでカンと叩いた。
「あなたの事業は、完全に破綻寸前のブラック企業です」
「……うっ」
痛いところを突かれ、俺は思わず小さくなった。
「浅層三万円、中層日当五万円? 冗談も休み休み言ってください。公社登録済みの検証可能手順書を持ち、人類最強の専属ナビを務め、中堅クランを死者ゼロで生還させた専門職が、そんな小遣い銭のような金額で身を削るなど、業界全体の価格破壊であり迷惑行為です!」
「七尾さんの仰る通りです!」
十和田が横から加勢した。
「先週の十一件だって、移動と書類作成で睡眠時間は一日三時間でした! 志賀さんが倒れたら、私の給料だって出なくなるんですよ!」
「お、おい、十和田さんまで……」
「ですから、作りました」
七尾さんがホワイトボードにマグネットで一枚の清書された用紙を貼り付けた。
そこには、太いゴシック体で『志賀道久・業務標準報酬規定および受注基準』と記されていた。
「読み上げます。まず受注基準」
七尾さんが指先でトントンと叩く。
「一、同時並行での受託件数は最大三件までとする」
「二、一件あたりの現地事前測量は、浅層で最低三日、中層で最低五日、深層で最低十日の検証日数を必須とする」
「三、十七項目の観測チェックリストを全項目完了できない過密日程の依頼は、いかなる理由があろうとも受託しない」
「……三件まで?」
俺は思わず声を上げた。
「七尾さん、今来ている相談をそんなに絞ったら、ほとんど断ることになりますよ。それに、三件じゃ経費や十和田さんの給与が……」
「そのために、こちらの報酬規定を適用します」
七尾さんが冷酷なまでに美しい笑みを浮かべた。
「浅層事前測量:一件十二万円」
「中層同行測量:日当十八万円」
「深層事前測量:一件五十万円から」
「読図講習:半日五万円」
「ひっ……!?」
俺の喉から変な声が出た。
「じゅう、十八万!? ご、五十万!? 高すぎますよ! そんなの、誰が払うんですか!」
「相場です」
七尾さんは眉ひとつ動かさずに切り捨てた。
「むしろ、これでも業界の下限です。中堅クランが深層で全滅した際のリスク――数億円の装備損失と人命を考えれば、確実な退路を五十万円で買えるなどバーゲンセールに等しい。……志賀さん、あなたは『安く丁寧に全部やる』ことで、自分の責任から逃げていただけです」
胸に突き刺さる言葉だった。
「値段をつけないということは、誰の命を優先するかという判断を放棄するということです。……宇佐美翔さんの右脚を思い出してください。あの事故は、あなたが余白を削ったから起きたのでしょう?」
「…………っ」
七尾さんは事故の直接原因を知らないはずだ。だが、過密日程が破綻を招いたという事実だけは、正確に見抜いていた。
「断る基準を持つことと、適正な値段をつけることは、同じ問題です。……志賀さん、この基準と料金表を承認してください」
俺はホワイトボードに並ぶ数字を見つめた。
高すぎる。恐ろしい。こんな額を提示したら、客が一人もいなくなるのではないかという恐怖が背筋を這う。
だが、安易に引き受けて、また誰かの脚を岩の下に挟み込む恐怖に比べれば――。
「……分かりました。この基準で、お願いします」
「よろしい。承認いただきました」
七尾さんは満足そうに頷き、書類をファイリングした。
◇
その日の午後。
激痛に耐えかねて壁に手をついていた俺の元に、来客があった。
ドアを開けると、そこに立っていたのは、無表情な氷室灯だった。
「……氷室さん。どうしたんですか、突然」
「電話が鳴り続けていました」
氷室さんは靴を脱いでズカズカと部屋に入ってくると、作業机の上で震えていた俺のスマートフォンを、迷わず手に取った。
「あ、ちょっと――」
俺が制止する間もなく、氷室さんは通話ボタンを押し、耳に当てた。
『もしもし! 志賀先生ですか!? 大至急、第五層の迂回路の図面を明後日までに――』
「その日程は無理です。失礼します」
ピッ。
氷室さんは用件すら最後まで言わせず、わずか三秒で通話を切断した。
「ひ、氷室さん!? なんてことを……!」
「志賀さん。靴を履いてください」
「え?」
「病院へ行きます」
問答無用だった。
氷室さんが呼んでいたタクシーに押し込まれ、俺は公社中央病院の整形外科へ連行された。
診察室で、氷室さんは医師に向かって「この人の腰を今すぐ動くようにしてください」と短文で要求し、俺はベッドの上で腰椎への仙骨硬膜外ブロック注射を打たれる羽目になった。
太い針が腰の奥深くに刺さり、薬液がじわりと広がる。
十分後。
ベッドから起き上がった俺は、目を見張った。
「……あ、あれ? 痛くない……?」
あんなに激痛が走っていた腰が、嘘のように軽い。普通に立ち上がり、背筋を伸ばして歩くことができる。
「炎症を抑えただけです。根本的な治療には休息が必要です」
医師の言葉に頷きながら待合室に戻ると、氷室さんが領収書を受け取っていた。
「氷室さん、治療費、俺が払いますから――」
「結構です。経費です」
氷室さんは領収書をポケットに突っ込み、まっすぐに俺を見つめた。
「それから、アパートに作業用の椅子を手配しました。九万二千円の、腰椎を固定する人間工学設計のものです。夕方に届きます」
「きゅう、九万……!?」
「志賀さん。私は、志賀さんの時間を買っています」
氷室さんの声は、平坦で、しかし一切の妥協がなかった。
「志賀さんが安売りで潰れたら、私の深層攻略が止まります。困ります。……延期していた第十一層への潜行ですが、来月の第一週で公社へ事前届出を出します。準備をお願いします」
「……来月の、頭に」
「はい。それまで、他人の仕事で時間を浪費しないでください」
そう言い残すと、氷室さんは「では」と短く告げて、病院の自動ドアの向こうへ消えていった。
◇
夕方、アパートに巨大な段ボール箱が届いた。
狭い六畳間の真ん中に鎮座した、漆黒の高機能オフィスチェア。
腰を下ろしてみると、硬質なクッションが腰椎を完璧な角度で包み込み、どれだけ長時間座っても腰に負担がかからない。
「……すごいな、これ」
思わず呟いた俺の向かいで、十和田がホワイトボードの前に立っていた。
「志賀さん。明後日、蒼天騎士団の渉外担当、桐生澪さんとの商談が入っています」
「ああ……第八層の長期測量の件だな」
「はい。七尾さんが作った料金表どおりなら、総額で三百万円を超える大型案件になります。……志賀さん、自分の口で、金額を言えますか?」
十和田の問いに、俺は喉を鳴らした。
十四年間、アルゴノートで会社員のように給料をもらっていた俺にとって、他人に自分の値段を告げることほど恐ろしいことはなかった。
「……練習するか」
俺は背筋を伸ばし、料金表の用紙を手に持った。
「コホン。……桐生さん。今回の第八層事前測量ですが、検証日数十日を確保していただき、総額は――」
声が小さくなり、途中で消えた。
「志賀さん、声が震えてます! 語尾が消えてます!」
「だ、だって十和田さん、三百二十万だぞ!? 今までなら『五万円でいいです』って言ってた仕事だぞ!?」
「ダメです! 宇佐美さんの右脚を思い出してください! もう一回!」
「う、宇佐美くんの右脚……! ……桐生さん、総額は、三百二十万円になります!」
「まだ目が泳いでます! 相手の眉間を見て、堂々と!」
「総額は三百二十万円です! 日数は十日、行程の決定権はこちらが持ちます!」
狭い部屋に、俺の大きな声が響いた。
三回目の発声で、ようやく営業マンらしい芯の通った声になった。
十和田が、パチパチと両手で拍手をした。
「合格です! その声なら、絶対に伝わります!」
「……恥ずかしいな、もう」
俺は赤くなった顔を手で覆いながら、新しい椅子に深く腰を沈めた。
ブロック注射の痺れが心地よく残り、腰は痛まない。
明後日。
俺は生まれて初めて、他人に自分の本当の値段を告げることになる。




